赤とんぼ
<獏良&子バクラ>
「…うわあ!?」
独り暮らしのマンションで、突然子どもの悲鳴がして。
獏良は慌てて振り返った…
「…なあんだ」
「なあんだじゃねえよッ!!」
子どもが何やら格闘していたのは…丁度開けた窓から入った、真っ赤な秋のトンボだった。
「しっ!しっしっ!!」
子どもは滑稽な程真剣だった。
如何に子どもが小さいとは言え、いるのは小さなトンボである。
オニヤンマ辺りならいざ知らず…
「そのトンボ、毒なんか無いし…あんまり噛みつかないと思うけど?」
「そんなんじゃ無い…このっ、しっしっ!」
子どもに取っては災難なの事に…トンボはなかなか離れない。
あるいは。こうも邪険に払われて、却って気にでも触ったのか…
が。
不意にトンボは向き変えて、獏良の方へと向かって来た…
「…危ねえッ!!」
「え…」
…バターン!
切羽詰まった様子の子どもに、押し倒される格好となり。
不意を付かれて思い切り。背中を床に打ち付けてしまっていた…
「わ、悪かった…」
「もう…」
痛む場所を摩り摩り起き上がると、子どもはしょげ返った顔でいて。
そして全ての元凶の、赤いトンボも去っていた。
幸い軽い打ち身だけだったし、子どもに悪気が無いのも判っていた。
それにこの子は普通で無い、突然ここに現われて…
白い髪に褐色の肌、遠い異国に生まれた子。
遠い時代に生まれた子どもだから…
「その…オレ、慌てちまって」
「…みたいだね」
「どうしたの?」
「どうしたって、そりゃ…」
「決まってるじゃねえか!あの虫、邪眼持ちだったんだぜ…?」
…邪眼。獏良も話は知っている。
バッタとか、トンボとか…眼の大きな生き物は何だって、眼に力があると信じられていて。
相手を一目見ただけで、それこそ呪い殺せるとまで言われていた時代もあったのだ…
だが迷信の一言で、片付けられる事では無い。
何と言ってもこの子どもは。トンボの眼どころの騒ぎで無い、恐ろしいモノにかつて魅入られてしまったから…
ふう、獏良は少し息を吐く。
「だけど、ね。ぼくは邪眼には結構強いんだ」
「…へ?」
「だってさあ、さっきの虫よりもっと大きい凄い眼の、そんなお化けみたいのとばっちり何度も眼が合ったけど…今だってぴんぴんしてるもの!」
「…本当かあ?」
「それに…」
「ぼくの眼、そこそこ大きいでしょ?そう簡単に負けたりしないと思うけどなあ…」
「ハハ、確かに…」
「お前さ!すげえキレイな眼、してやがるぜ…!」
「で、思ったんだけど」
「…?」
「ぼく、ちょっとは邪眼に逆らう力、折角持ってるんだから。キミにも少しおすそ分け…して上げるよ」
「オレ…に…?」
「うん」
邪眼と言うモノの恐ろしさを、獏良は良く知っている。
それは書物で得た知識ばかりで無い、不如意の力に浸食される…その恐怖を…
「だから…」
獏良は。
そっと子どもの方へと、自分の両腕差し伸べた…
「…駄目だ!」
「え?」
「やっぱ、貰う訳には行かねえよ」
「ちょっと…!?」
「だってさ」
子どもは驚く程真摯な瞳で獏良を真直ぐ見つめている。
「オレが貰ったら…お前の護りが減るからさ…」
「オレはオレよりお前が無事な方がいい」
「え…」
先刻トンボ一匹で、あんなに怯えていたのが嘘の様、子どもは少しも譲らずにその場に凛と立っている。
その瞳の揺るぎの無さ、きりりと結んだ口元が。眩しい位に凛々しくて…
でも。獏良は酷く哀しかった。
どうしてこの子は本当に、何も受け取ってくれないのか…
そして何よりあの恐ろしい日に。
何故、自分はこの子の傍に居合わす事が許されなかったのか…
獏良の心の奥底で、深いため息とともに発せられたその問いには。
誰も答えてはくれなかった。
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