滋養


 柔らかい布団、暖かい部屋、優しい匂い…
 昂が風邪を引いた時の食事はいつも、かにかま入りの小田原蒸しだった。いつもより贅沢に暖房を利かせて、常春の空気の中寝台の上で食べると言うのが非日常的で、また母親もいつもより優しくてデザートにレディーボーデンのレモンシャーベットを奮発してくれるものだから、小さい頃は病気になるのもそれなりに楽しかったのを思い出す。
(じゃあ僕…今風邪で寝ているのかな…?)
 そう言えば酷く喉が乾く。熱が酷かったり咳が酷かった時には必ず、父親がホットワインを作ってくれたものだ。休日にはすててこ姿で丸太になる普段の姿を思うとハイカラ過ぎて滑稽だが、父が学生の自分欧州で登山旅行をした折に、泊まった宿の主人から教わったと言い、『秘伝の製法』と言い張り自分の妻にも教えずいつも一人で作るのだ。熱が高くて辛い時も、ミルクパンを匙でかき混ぜるからから言う音、子どもには難しいロゼの芳香と遅れて漂う蜂蜜と檸檬の、いかにもおいしそうな匂いを嗅げばそれだけで治った気になるのが常だった。
 今の今も、からからと言う懐かしい音に、優しい芳香が広がる…
(ああ、父さんまた作ってくれたんだ…)

 父さん…?

 はっとして眼が覚める。眼に映るは木の天井、無論見慣れた自室の物ではない。起きようと試みたが、不思議な程身体に力が入らない。それでも無理に身体を起こそうとすると、たちまち視界がぐるぐる回り始めたので仕方無しに諦めた。
 記憶を辿る。昨日宿の前まで来たのは覚えている。
(じゃあ、ここは宿の部屋なんだ)
 どれ位眠っていたのだろうか…急に心細くなって首だけを巡らせて見た。
「おお、気が付いたか!」
 満面の笑みを浮かべた金剛が、両手を広げて近づいて来た。

「気分はどうだ?何か、口に入れられそうか?」
 口調は軽いが少年の乱れた前髪を整えるその手つきは実に優しい。だがその思いやりが、本来戦事のみに専念すべき豪傑に、自分の未熟がためいらぬ気遣いをさせているのではと、時に昂をいたたまれなくさせるのだが。
「心配…かけちゃったね」
 まだ口が乾いて声が良く出ない。そんな様子に金剛の顔が幾らか難しくなり、そしてふっと緩む。
「宿の主人に言われた」
「え?」
「我らは実に運が良いそうだ」
「…?」
「例の毒気…日によってまた時間によって強弱が激しいそうでな、我らはたまたま毒の弱い時期に当たったそうだ」
「弱い…?あれで?」
 弱い毒で自分はここまで弱ったのか。ままならぬ体調が思考を自傷の方向へと歪めてしまう、が。
「だがな、そんなたまさかの平安も持って三日、たちまちに猛毒の嵐に変ずるのだとか」
「あ、嵐!?」
「ああ。その変化の激しさたるや、炎の藁をなめるが如く…生き残ったさる隊商の下働きの話だが、何の支障もなく隊列が進んでいた所、突如先頭の人馬がばたばたと倒れ出し、百人程であったのがあれよあれよと言う間に無事な者が半数にまで減ってしまい、慌てて全力で来た道を戻ったそうだがそれでも逃れたのは三十にも満たなかったそうだ」
「そんな…!」
「このように、毒の弱い日こそ何も気付かず進むがために死者が多いとの由。苦しみの中なら無謀を犯す間抜けもおらぬからな」

 ぽんぽんとあやす様に頭を叩きながら、またおどけた風に笑う。
「宿の主人はこう言っていたな、『いや本当にようございました!病がめでたいとは申しませんが、お連れ様が毒気に当てられたのも実に僥倖でございますよ。今朝方も狩りに行くだ何だとて、それはまあ勇ましい戦士殿が幾人も、止められるのを歯牙にもかけず出かけられるのをお見かけしましたが、さてどうなりました事やら…』」
「ふふ…」
 死人が出たかも知れぬと言う話題で笑うのも不謹慎と思えたが、金剛の口真似が余りにうまく、本当に愛想の良い親爺の様に聞こえるのでおかしくてならない。
「さて、」
 少年の気持ちがほぐれたのを見てとって、話を元に戻す。
「最初の問いの返事をまだ貰っていないが?」
「え?ええと…」
「食事だ。少しは食べられそうか?」
「食事…」
 問われてまたあの良い香りが鼻孔をくすぐりだす。偉丈夫の意外な特技に安らいだ身体と心に染み通って行く。と、盛大に腹が鳴った。
「はは、これなら心配ないな」
 豪快に笑われて、赤面しながら正直すぎる臓腑を少々恨みがましく思う昂であった。

「あれ?」
 備え付けの卓に器を取りに行った金剛を何気なく眼で追う内に、部屋が妙な程明るいのに気付いた。
「僕…僕、一晩眠っていたの?ひょっとして?」
「ああ」
 笑いながら丸い陶器の器を運んで来る。
「余りに眠りが深くてな、少々胆も冷えたが、宿の主人に医術の心得があってな、軽く診て貰うと早くに気を失ったせいでさほど毒を吸わずに済み、今は身体が回復のため自然と要求した眠りだから翌朝には目覚めると…見立て通りになったな」
「そうなんだ…」
 まだ余り自由にならぬ身をよじって窓を探す。結局大きめの寝台の柵に遮られ、叶わなかったがそれなりのざわめきも流れて来るから早朝と言う時分でもなさそうだ。そうこうしている内に寝台に脚付きの盆を据えられ膳を並べられ、金剛の丸太の様な腕に助けられて起き上がり、背中に予備の枕を幾つかあてがわれ、すっかり病人の食事の支度が出来上がる。
 並べられた物は皆、実に美味なる様子で湯気をたゆらせ、背中の枕の具合も丁度良いが。
「どうした?」
 また、少しうつむいてしまった少年に偉丈夫が問う。
「あの…金剛、昨日ちゃんと寝た?徹夜、したんじゃないの?」
 思い切って覗き込むと、慌てて下がられ笑顔で誤魔化された。だが、笑い皺で曖昧にされる間際、目元に確かに隈が見えた。
「…お前が気にする事ではない」
「でも!」
 食い下がる少年に、大きくため息をつく豪傑。
「…ならば、お前の父母はどうなる?」
「え?」
 突然の両親の話題に毒気を抜かれる。
「お前が病に倒れた時、お前の父母はそれこそ何日も不眠不休で看病したのではないか?」
「う…うん」
「だがだからと言って、その事をいつまでも引け目に思うか?」
「それは…でも、それとこれは違う…」
「違わぬ」
 きぱりと言われてつい押し黙る。
「いやむしろ、父母にこそ感謝をすべきだろう?お前の父母はお前の生みの親にして育ての親、お前には敬うべき相手だが、わたしは龍王のしもべなのだ。父母の恩義を当然と思うなら言わんや臣下の忠義をや…」
「う、うん…」
「まだ、不満はあるようだな…まあ、とにもかくにも食事が先だ、そら」
 大きめの、丁度散り蓮華を思わす焼き物の匙が口元に運ばれる。そのまま含むと、恐らく金剛が予め程よく冷ましたのだろう、佳い塩梅の暖かみが口中に広がる。楽しむように舌の上で転がすと、乾いた五臓六腑に染み渡るような穏やかな卵粥だった。漢方薬の様な独特の香を含むがそれでいて不思議に口に馴染む。粥は如何にも滋養食めいて幼少時には嫌ったものだが、この卵粥は干貝(カンペイ)のだしが実に食をそそる。珍しい乾物にも驚いたが、米なんぞこの世界に連れられて来てから一度も食した事がない。しかもこれほどきっぱりした中華粥にありつけるなど想像だにしなかった。


 中華粥を初めて食べたのは横浜中華街を訪れた時だった。
 昂としては焼き豚だとか麺の類だとか、はたまた点心の様な物が希望だったが、父親がたまたま頑固の発作を起こして薬膳を能くする店へと強引に連れ込まれ、種々の粥を食べさせられたのだ。やれこれは暑気当たりに効くだのやれ食欲不振に良いだの、おっとりしている割には時たま父親の権威とやらを誇示したくなる性分なのか延々と続く講釈には閉口したが、確かにただの白粥とは雲泥の差、味わいも実に多彩。身体にどう効くかの詳細は、半可通の父親にはとても説明しきれなかったが、店員の噛み砕かれた解説を効くとそれだけで妙に頑健になった気がしたものだった。また玄人を前にして萎縮するかと思われた父親が、それでも負けずに付焼刃の知識でむきになって応戦するのもおかしかった。

「乾物はな、干貨と言って昔はお金の替わりに使っていたんだぞ」

 干した貝なんて何だか気持ち悪いと、昂が食べるのを渋った時は乾物の歴史を長々と聞かされた…


「昂…?」
「あ…」
 いつの間にか、頬を涙が伝っていた。
「ご免なさい!…何で泣いてるんだろ、僕…」
 慌てて拭おうとするが滴は止まらない。あとから、あとから。意識するよりも先に感情がせり上がり嗚咽すら漏れる。
「父さん…母さん…」
 粥の温もりが次々と思い出を運んで来てしまう。意識して考えないようにして来た家の事が溢れる。そんな自分に慌てるでもなく叱咤するでもなく、匙を手にした偉丈夫はただじっと見守っていた。

「良い両親を持ったな」
「…うん」
「家が恋しいか?」
「え…ええと…」
「まだ無理だ。かなりの時間がかかるだろう」
「!」
 まだ、との言に消沈もしたが、同時にまだ、と言う事はいずれは帰れるのだ。思わず高鳴った胸に自己嫌悪に陥る。
(僕は使命があるのに…)
 龍の住む世界は酷く乱れていると言う。魔物の横行で同じ龍族同士でありながら集落と集落の行き来もままならぬ。そして、自分には、とても信じられないが、自分には助ける力があるという。
「昂、粥が冷めるぞ」
 静かに、だが強引に匙を押し付けられ、口に入れる。泣いたせいか喉が強ばり緩い筈の粥が引っかかるが強引に飲み込んだ。
(頑張らなきゃ…)
「頑張る事はない」
「え!?」
 図星を指した張本人はまたくつくつと笑っている。
「お前は病人なのだぞ?そう力まず、休む事だけ考えろ。楽しい事のみ思え。家の事とて無理せず思い出せば良い。帰れない今、却って苦痛かもしれぬが…」
「金剛」
「何だ?」
「どうして…そんなに優しいの?」
「それは当然だろう、」
 『龍王』だから、との台詞を予想して少年は身を固くしたが。
「お前の身に何かあればお前の両親に申し訳が立たぬ」
「へ?」
「お前はまだ若い。子どもは親に属する者だ…それを人さらいも同然で連れて来たのだからな」
 にいと笑って少年の髪をくしゃりと撫でた。

「金剛」
「何だ」
「僕…駄目だね。今の今まで父さんと母さんの事、ほとんど思い出しもしなかったのに、一旦思い出したら、こんなに懐かしくて泣いてるなんて…第一、僕、今まで育てて貰ってた事だって自覚していなかった」
「いやいや」
 また撫でられる。
「離れて初めて分かる事もある。この強引な旅でお前が父母の情愛に気付いたと言うなら、わたしとしても罪の気持ちが軽くなる」
「罪なんて…」
「いや、龍界を救うは大義だが、如何な名分とて親子の絆の前では空しいもの。それにな、」
 偉丈夫のまなざしがふっと細められる。
「お前がわたしの前で泣いてくれて、正直喜ばしかった」
「え?」
「お前は辛苦を心の奥に押し込めようとする。わたしは七龍、お前のためにある。他人行儀な振りをするな、お前をわたしに支えさせてくれ…父母代わりに思え、と言うのは無理かも知れぬが」

 泣かれて嬉しいと言われるとは随分意外だった。自分なら誰であれ眼の前の人間が泣き出したら困惑するが、冷静に鑑みればつまりは泣く人間の甘えの重みをかぶるのが嫌なのだ。ところが金剛はその重みを却って預けてくれと言う。その言に彼の人の技量を大きさ、人間の余裕を感じて自分との差にまた悔しくなる。比べる方が間違いだと、自分でも思うが、ずっと傍にいると持ち前の負けん気が却って顔を出すのだ。その生意気な気分のまま軽口を叩く。

「やだなあ、僕の父さん千年も生きたお爺さんじゃないよ」
「爺だと!?幾ら何でもそれは心外に過ぎるぞ!」
 口先だけは怒った風を見せるが、眼は笑っていた。昂に余計な事を言う程の気力が戻ったのを見てとったからだ。
(本当に大人だなあ…)
 無礼な言葉より昂の身体を案ずる金剛。また、悔しくなった。


 粥を食べ尽くすとそれだけで随分気力体力が充実し、現金なものでもっと重い物が欲しくなる。
「まだまだあるぞ」
 まだ湯気を上げている蒸篭が運ばれて来るのを見て期待が膨らむ。今度は、水晶のように透き通り具の色彩をほのかに窺わせる、細工物の点心だった。


 それから、水餃子入り白湯(パイタン)、翡翠皮の海老焼売、汁気十二分の小籠包、洋菓子のシガレの様に不思議にくるりと巻いた麺…それから、それから…
「随分食すな、今度は腹痛になるぞ」
 いっそ楽しげな金剛のからかい口調に言い返す間もなく、食後の心地よい睡魔に襲われた。


Fin.


後記:
 …何がマズいって、コレが本来、本編にドウドウと入っていた事です(^^;)全然ヒロイックっぽく無いですなあ…
 グルメではありませんが、執筆中空腹を催すとそのママ食事ネタを無理やりねじ込む癖が…
 ちなみにシガレ云々は「刀削麺」、あの実演で白菜位の大きさの生地を抱えた料理人が、でっっかい包丁でシャッシャッと文字通り削って湯の中に放り込む、難易度・インパクトともに相当のレベルの麺であります。ただ、実演の様な作り方では初めに削った分と最後に削った分との間にどうしてもタイムラグが生じ、火の通りが不均一になる…と、昔チャ○ピオンで言うてました(受け売り)某サンデーの中華料理マンガでもケチつけられてたよーな…
 ただし、別にあの麺もキワモノでは無いんですよ。確か、元々は戦場か何か道具の少ない状況で、多分生地をのすための板も麺棒も包丁も無かったのでしょう、それで取り合えず生地をまとめて(←どーやって練ったんだ(^^;))「刀」で削って煮て食べた、とにかく必要にかられての発明だったと聞きます。この麺、煮るとくるりと巻いておもしろい形になりますが、この形態にソースがまた良く絡むんだそうです。ですから汁麺では無く炒め料理、イタリアンで言う所のショートパスタ的に使われます。
 それとですね、茹でのタイムラグも素人にはまずワカラン程度のものらしいです(苦笑)上手な人だと実に素早いそうで…それに、解決策として「あらかじめ削って置いてまとめて投入」と言う秘策が!(爆)これなら全然問題ナッシングゥ!←見た目つまんないけどな

 ちなみに、もろ中華中華しておりますが、この街この世界が中華なワールドと言う訳では無く、宿のご主人が華僑の人の様な状態でして。一応龍界も中華風ファンタジー世界(^^)を想定しておりますので、それで金剛も居心地が良くて常連になったと。


 いつもながら後記と言いつつなんら作品解説になっとりませんな(汗)
 しかも実は刀削麺、一度も食した事が無いと言う…(爆)
 いや、その、アマとは言え物書きは「見てきた様に嘘を言い」でなければイカンと思いまして(殴)


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(C)獅子牙龍児
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