シェーブル (1)


 魔術師が、朝から頻りに山の方を窺っていた。

「お師匠、何かあったのか?」
「いえ…ね、」
 少し苦笑。
「そろそろかと思いまして」
「何が」
「ほら、暖かくなって来たら、飛び切りの『シェーブル』を作ると言う話ですよ」
「あ…」
 …思い出した。



 都会から辺境の地へとやって来たのに、シドは思いの他早くに土地に馴染めた。初対面の印象が…まあ、シド本人にして見れば人生最大の汚点と言うしかないが、とにかくとてつも無い失態のせいで、「恐ろしい闇妖精」と言う思い込みを幸か不幸か完膚無きまでに打ち砕いてしまったから。
 だから。一月も経つと、魔術師と一緒に当り前の様に市場に出かける様になっていた。


「よーう!先生とこのシドじゃねえか!」
「…そんなに声張り上げるなよ、耳おかしくなるぜ」
 魔術師に言わせれば「シドが素直過ぎるから」だそうだが、市場に行くと何かと絡まれる。悪意からで無いのは百も承知だが、やはり暮しが暮しだったから、人と馴れ合うのは苦手である。それをまた、面白がっての事なのか…やたらと無駄に声をかけられる。
「おいおい、何ツンケン澄ましてんだよ!オラ見れよ、今日の品はすンげえぞ!」
「まあ…これはまた随分遠方から」
 魔術師が…礼儀正しく思いやりの深い人物だから、過剰な社交辞令も多分にあろうが…眼鏡をかけ直しながら覗き込む。
 …反対にシドは鼻をつまみながら顔を背ける。そこは『フロマージュ』…チーズを扱う親父の出店、血筋ゆえに嗅覚鋭いシドには何とも匂いがきつ過ぎるのだ。

「…くっせえ…」
「あーよ、餓鬼には全く困ったモンだァ!こりゃ偉い学者様に言わすと『馥郁(ふくいく)たる香り」ってンだぜ?」
「でも…誰だって、慣れるまでは閉口しますよ」
「あーあー、またまた。先生はお弟子に甘すぎりゃあね!」
「おい、俺はともかくお師匠の事ごちゃごちゃ言うなよ!」
「…おーお?怒った怒った…」
「あの…」
 不穏な雰囲気を感じ取って、魔術師がそっと間に入ろうとする。
 が。店の親父の軽口に阻まれた。
「駄ァ目だなァ、先生様よ!甘い甘い、弟子を伸ばそうってンならチッたァ背伸びもさしてやりゃなあな!」
「背伸び?…それと臭いのと何の関係があるんだよ」
「つまり、だ…こいつはな、所謂『大人の味』ってなモンなのさ。まーあ、餓鬼と言うより赤子に近ェお前にゃ、試すもやるだけ無理だろうがなァ…」
「あ、赤子!?」
「シド、あの…」
 まんまと逆上させられた、弟子の姿に魔術師も慌てるが。
「抜かせ!さっさとよこせよ!食ってやらあ!」
 どん!とシドが自分の胸板を精一杯叩いた時。…辺りには既にそれなりの数の野次馬が集まっていた。


「…よーし、男に二言はねェな?」
「お、おうとも!」
 魔術師が困った様子で見守るが、この弟子の頑固さは重々承知しているから、如何ともしがたい。別に命がけの勝負では無いにしろ…
「よし!折角魔法使いのお弟子サマが試食召されるんだからよ、」
 魔術師の気揉みなんぞ他所にして。ごそごそ、店頭の品で無くて奥に積まれた荷物を探る。
「おい、早くしろよ!」
「急くな、急くな!お前にぴったりの銘入りの一品があってよ、」
 取り出された包みは、随分と小さく見えた。
「こいつはな、味も大した贅沢だが、名がまた奮っていてな、」
 にやにやと…流石のシドも背中うすら寒くなる、質の悪い笑顔浮かべて。
「聞いて驚け、これが…『知恵の実』ってェ訳だ!」
 ばっと布一気に払うのと。
 …シドが悲鳴を上げたのはほとんど同時だった。

「………何てぇ捻りのねえ名前だよ…」
「はは、震えるな震えるな!そら、先生の立派な着物に皺が付く!」
 げらげら容赦無く指摘され、慌てて魔術師の長衣から手を離す。
「だ、大体そっちが悪いんだろ!いきなり…ヘンなモノ、見せやがって!」
 シドの震える指の示す先、そこにあるのは…年代物の、立派なフロマージュに違いないが。
 ちょうど、球を四つに割ったよな形で。表面に、細かな縮緬みたよな皺があって。
 しかも…悪趣味な事に、それを二つ合わせて丁度半球の形にしてあって。
 名前は『知恵』の実。
 つまりそれは…

 少々、本気で血の気がひく。


 まあ、そいつは色は橙がかっていて。少しも赤味を帯びていないのが幸いだったが…


「…そら!男に二言はねェだろが!」
 急速に体温が無くなる様な錯覚覚えるシドの前、思慮と配慮の足らぬ親父が無体に「それ」を突きつける。ひい、と声にならぬ悲鳴を上げて本気で怯えるシド…
 いい加減、堪忍袋の尾が切れて。そこでついいと眉上げる人物一人。
「止めて下さい!シドは、真実怖がっているのです!」
 春風の様な白い人が、随分な声の荒げようだから。市場の人間一斉に振り向いた。

「い、いや、その…先生、別に俺はだな…」
「そちらの品に文句を付ける気は毛頭ございません。けれど、こんな小さな子を無為に怯えさせて何が楽しいのです?大体…」
 息もつかせで流れるようにまくしたてるその人を、弟子の小さな手がそっと止める。
「…いいって、お師匠」
「でも…」
 苦笑して。…小声で。
「むしろさ…こう言うのが冗談になるっての、却って平和でいいじゃんか」
「シド…」

 この辺りは貧しく平屋ばかりだから、間違っても三階の窓から落ちる馬鹿はいない。田舎過ぎて戦も避けて通って行くし、野盗の類もそれ程では無い。そんな土地だから…「ぱっくり割れる」図を、誰も久しく見ていないから。逆に眉を潜める人間も少ないのだろう。
 …そう思うと、心底ほっとする。

 弟子の宥めに漸く落ち着いた魔術師を見て、事の元凶の親父もまた安堵。
「いやあ、弟子が弟子バカなら、先生も先生ってなモンだ!…ま、似た者同士ってのは良いこった」
「すみません…」
「けっ、うるせえなあ!」
「けどよ、シド公」
「へ?」
「それとこれとはまた別だ。お前、確かに二言はねえと、そう言ったな?」
「お、おい…」
 慌てる師弟のその前で、親父が例の『知恵の実』を、さっくり薄く切っている。
「さっき、確かに食うって言ったよな?餓鬼じゃあねェって啖呵切ってみたよな?」
 にやにや、にやにや。『知恵』のかけらを皿に乗せて。
 姿形もさりながら…強烈の臭気。
(く…食えるのか?)

「あの…シェーブルですから、匂いはともかく味は…」
「シェーブル!?」
 シェーブルとは山羊の事である。
「お?坊主、田舎モンだァな!さてはお前、食通の行き着く先を知らねえな?」
「へ?食通?シェーブル…山羊なんかが?」
 …シドの故郷の近くには、高名な牧草地帯があったから、牛乳の品には不自由しなかった。と言うより牛以外の乳を食するなど想像も付かない。まあシドの家はそれなりに豊かでもあったから、時折遠方から取り寄せた、羊乳フロマージュが出て来たけれど。…どうやら祖父の好物だったらしい。
 少なくともシドの正直な気持ちでは、山羊の乳など余程餓えでもしない限りとても口にする気にはなれない。
「ほれ、先生も山羊のモンが一等お好きだぜ?何せ元は華族様…」
「『元』じゃねえ、今だってそうだろ!…けど、お師匠が好きっての、本当なのか?」
「ええ…」
 魔術師は、先刻あれ程眉を逆立てていたのが嘘の様、顔を真っ赤にうつむいて、酷く困惑の様子。助け船を出すつもりで、物の出所を教えたのに、それが覚えず仇になったと…そう思って責任を感じているのだろう。
(こんな事くらいで、お師匠みたいな人がそんなに困る事無いのに…)
 シドは少し笑った。

 匂いは相変わらず酷いが…むしろいい加減、鼻が馬鹿になって来たが。
 あの魔術師が好物と言うのなら。
 悪い品では無いだろう。

 鼻をぎゅっとつまみ。思い切って口の中に放り込む。

「………!!」



「…どう、ですか?」
 不安げな魔術師。
「んぐぐ、んぐ、んぐぐぐ!」
「こらお前、味わって食え!高い品なんだぞ!」
「んぐぐぐ!?」
「平気、ですか?」
「んぐ!」
 大きく、興奮気味に頷く子ども。
「はは!お前も丈はともかく舌は生意気に一丁前だって訳だ!」
「んぐぐ!!」
「駄目ですシド、頬張ったままでそんな怒鳴ったら…」
 野次馬も、一緒になって笑っていた。


「…しかし、こんなスエた匂いの黄色いモンが、こんな旨いなんて…山羊なんかから甘いモンが出来るなんてさ!」
「はは、しかしスエたスエたと腐った様に言うな!この匂い…いや『香り』が旨さの秘訣さ!」
「まあ、そうだろうけどさ」
 鼻の辺りを頻りに揉みほぐす。本気で鼻がおかしくなった…代価に見合う、旨さではあったが。
「そうだ!シェーブルついでに…お前は生意気に黄色が鄙びて見えるようだしな、今度先生とこの、飛び切り白いシェーブル奢って貰え!」
「へ?お師匠が…作るのか?」
 見上げると、困った様に笑っている。
「下手の横好き、ですよ。私は…その、好物なもので」
「またまた!」
 親父がすかさず茶々の横槍。
「何せよ、このお情け深〜い先生サマが、あんまり旨いモンで誰にもやらずに自分ばかりで食っちまう、それ位の貴重な品さ!」
「いえ…単に、そう沢山は作れないもので」
「へえ…お師匠、本当に何でも作れるんだな!」
「いえ…」
「そら、シド公、いいかよっく頼み込め!親バカな先生サマの事だ、お前が拝めば一切れ位はおこぼれにあずかれるぞ!」
「そんな、一切れと言わず…いくらでも」
「おいおい、聞いたかぁ?」
 親父が暇な野次馬どもを見渡した。今日は、魔術師とも懇意な村の連中が大半である。
「この先生と来たら、とんでもねえ依怙贔屓だ!俺達が幾ら泣いて頼んでもよ、何時もほんのちょっぴりしか…それこそ残り香嗅がす位しかしてくれねえのによ、味もろくに判らねえ餓鬼には山盛りくれてやるんだと!」
 …口調こそ荒っぽいが悪意は微塵も無い。実際、野次馬達の間にも、暖かな笑いがさざ波の様に広がって行く。
「全くだよ、あんなどえらいシェーブルは滅多にねえのにさ…」
「ああ、思い出させるなよ!俺なんか、ちょっぴりの幸運の味が忘れられなくてさ、三日も眠れず終いだったんだぜ?」
「…そんなに凄いのか?」
 魔術師の器用振りは重々承知していたが、本気で悔しがる野次馬の姿を見れば期待いやが上にも高まろうと言うものだ。

「ああ…そんなら、早く食いてえなあ…」

 ぐううううう…
 言葉とほとんど同時に腹が鳴り。皆にどっと笑われた。



 例の『スエた匂い』の品とはまるで違い、魔術師が製する物は日持ちがしない。また山羊の授乳の時期が、そう長くは無いものだから。暖かな初夏が訪れてからほんの数ヵ月が唯一の旬だと言う。
 あれから大分経ったから、あれ程楽しみにしていた癖に、すっかりきっぱり忘れていたのだ。


「夕方までには帰りますし、お昼のパンもありますからお願いします」
「あ、うん………って、俺留守番!?」
 シドが途端に抗議する。
「何で何で何で俺置いてくんだよ!お師匠何で一人で出かけるんだよ!」
「その…裏山は、貴方にあまり良くありませんから」
 その言葉も気になったが、今はむしろ魔術師が正式の魔法の長衣をきっちり着込んでいる方が気にかかる。
 数があまり作れない…確か、魔術師はそう言っていた。
「危ないって言うなら尚更だろ。俺、絶対ついて行く!」
「ですからね、私は平気ですが貴方にとって…」
「じゃあ俺『追尾眼』使うぜ!」
 『追尾眼』はまあ初級に属する魔法だが、それでも学んで一年も経たない少年の行うべき術では無い。シドは元々の素質ゆえ、そして恐らくはかつての『職業』ゆえ…この術を実に巧みに扱えるのだが、何時も魔力の加減を誤って、つい最近にも眼を回していた。…これでは却って心配である。
 ふう、心底のため息。
「仕方ありませんねえ…」
「やったあ!」
「…ですが、一応『風』の皆さんを一人でも良いから呼んで下さいね。何度も言いますが、むしろあの山で危険なのは貴方なのですよ」

進>>


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(C)獅子牙龍児
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