シェーブル (3)


 大きな鍋に流し込み、注意深く弱火で煮。そっと、かき混ぜながらフロマージュの種を注ぎ込む。山向こうの農家より買い受けた、その種全てを注ぎ終え、魔術師は後ろを振り返る。
「ここからが面白いのですよ」
 弟子は、随分と鍋から離れたまま、無言でふるふる首を振る。
 …魔術師はため息をついた。


 闇の妖精が近くにいると、パンやら葡萄酒やらが駄目になると言う。
 魔術師が幾ら迷信だと諭しても、シドは頑ななまでに厨房に近寄らない。と言うのも、たまたまシドがここに来て間もない頃、パン作りを手伝った折…見事な位に生地が膨らまず惨めな代物が出来たから。魔術師が、あれは種が古くて悪かったのだと何度も何度も言うのだが、真実己の血筋に苦しむ小さな子どもは、全て自分の責任だとすっかりしょげ返ってしまい。
 以後、こう言った作業には指一本触れなくなってしまった。


 そっと振り返る。好奇心に瞳を輝かせて一心にこちらを見ているが…足だけは、縫い付けられた様に動かない。何とも痛々しい。
 仕方無しに、一計を案じた。

「シド」
 呼びかけると、返事の代わりにトンと床を踏み鳴らす音。無作法では無くて、声を立てるだけでも良く無いと信じ込んでいるのだ。
「隣の部屋の机の上の物、取って来てくれませんか」
 トン!トントン!焦った様な音。素直な性格なだけに、相当困惑しているのだろう。
「今…丁度、加減の難しい所でして。手が離せなくて…」
 魔術師が済まなそうに重ねて言うから…弟子も、今度こそ弱り。
 逡巡のはてに、ついにぱたぱた音を立てて走り出した。


 『はい』と言う代わりに無言で器具を差し出す弟子を見て、魔術師の嘆息がより深まる。
「シド…」
 成程、随分鍋の傍まで近付いたが、顔を半ば覆う様に大きな布をぐるぐる巻いている。本当に、一体何処の誰がそんな酷い話を教え込んだのか…シドは、己の吐く息も毒になると、いまだにしっかり信じているのだ。
 その上、逃げる様に去ろうとする。
「シド!」
 普段より大きな声を出したから、シドもびくりと肩震わせる。
「このフロマージュの生成と言うのもね、魔法の学問と浅からぬ縁があるのですよ」
「そ…」
 『そんなもののどこが』…言いかけてそのまま口を両手で抑えるシド。ここまで来るとほとんど病気である。とにかくシドを引き留めて、そのまま鍋の中味の変化を眺めさせる事にした。


 種が丁度に威力を発揮して。鍋の中味はもったりと、へらの動きにも抗する様になって来た。その変化はシドの眼にも映り、例の迷信をすっかり忘れて一心不乱に覗き込んでいる。その歳相応な様子に微笑んで、そっとシドから手渡された、竪琴に似た変わった器具を鍋に入れてかき混ぜる。
「…!」
 シドがまた、息を飲んだ。

 何か、何か言いたげな様子で、でもやはり迷信が怖くてか何も言い出せずにいて。
 それでも遂に泣きそうな声を上げた。
「乳が…乳が腐って来た!!」
「…違いますよ」
 尚もかき混ぜながら。


 半べその子どもの指差す先、鍋の中味は沈殿を始めている。確かに、腐った牛乳を暖めた時に良く似ているが…
「これはね、乳清と言いまして。フロマージュそのものには不要な物なのですよ」
「ほ、本当かよ?」
「ええ」
 どうやら、子どもは鍋の中味が段々に煮詰まって、濃いクリームの様になった所で型に入れると思っていたらしい。そう思って見れば、確かに不安な眺めである。
 安心させるために、もう一度笑む。
「…ちなみに、栄養もあって好みもありますが良い飲料ですから。後で蜂蜜入りのものを作りましょうか」
「蜂蜜入り!?」
 ぱっと輝く子どもの顔。…どうやら、迷信の事は忘れてくれた様だ。


 型に入れ、水気をよく抜き。近隣の農家から仕入れた葡萄の樹の枝の灰をまぶし…これは他のフロマージュには見ない工程だから、シドも随分珍しがって。
 世界で一番美味である…マグムノ種アイベックスのフロマージュ作りは無事完了。
 後は、ただ食するのみである。



「…!旨い!すっげえ、旨い!!」
「良かった…貴方の口にあって」
「お師匠の作るモンで、まずい物なんて無いさ!」
「ふふ…貴方は何時もそう言いますね」
 魔術師が手ずから切り分けた、山の恵みは大層美味。まだ若いせいもあって、妙な臭みは全くせず、すっきりとした酸味が何とも旨い。店の親父や村人達が言う通り、本当に雪の様に真っ白で…黒い灰が外皮に一面まぶしてあるのも、却って中味の無垢な白さを際立たせている。
「けど…」
「え?」
 弟子の疑問符に魔術師の顔がたちまち曇る。
「あの…おかしな味でもしましたか?」
「いや、別にそうじゃなくてさ、」
 この魔術師は、やはりどうにも心配症だ。神経がただでさえ細やかなのに…とシドは却って師匠が心配になる。魔術師を不安にせぬよう、言葉を選んで返答。
「その…あの市場の奴に比べて、甘さは無いなあ…て」
「ああ、」
 ふっと、魔術師の表情が緩む。
「ああ言った、こくのある甘みはやはり熟成させないと無理なのですよ。ただ…数年がかりとなると、私にも流石に…」
 ご免なさい、小さな声で謝られてしまって。弟子バカなシドは完全に慌てる。
「あの、別に構わねえって!俺、これで十二分に旨いし…」
「折角ですから、これでタルトを作りましょうか?」
「タルト!?」
「ええ、先日ちょっと砂糖を余分に買ってしまったでしょう?折角ですから、甘い味付けにしましょうね」
「わあ!やったあ!じゃ、今すぐここ片付けないと…」
「シド、今日はこれだけ食べたのですから…タルトはまた明日」
「え〜〜〜!?」
「だって話したでしょう?あの山に生える薬草の…少々強過ぎる位の魔力が、この塊にはふんだんに含まれているのですから」
「だからってさあ、沢山は食えねえっての、魔法使えない奴等だけなんだろ?俺さあ、沢山食ったら沢山術使って帳消しにするからさあ!」
「それでも、駄目です」
「え〜!!何で何でお師匠のケチ!」
「魔力云々よりも…今日、一体何個食べたのです?幾ら何でもお腹を壊しますよ」
「酷いやお師匠!『幾らでも』って言った癖に〜!!」
「言いましたよ、確かに。でも駄目」
「ケチケチケチ!ドケチのいけず!」
 …甘い物の事となると、すっかり歳相応以上に子どもに戻る小さな弟子。
 魔術師は、にっこり笑って全く取り合わなかった。



 ダン!ダン!ダン!
 ダンダカダンダカ、ダンダンダン!
 …今度は別段口を開くのをはばかっての事では無い。実に全く旨そうな、素晴しく佳い香りがするものだから…シドが待てずに食卓頻りに叩くのだ。
「シド…お行儀が悪いですよ。タルトは逃げたりしませんから」
「タルトは逃げなくてもさ!」
 シドは眼をきらきらさせて。
「臓腑が待てずに飛び出しそうでさ!」
「それは…困りますねえ」
 くすくすと笑って。タルトを抱えた魔術師は歩みを少し速くした。

 ほどよく冷めたフロマージュのタルト。さっくり、鏡の様なナイフを使ってきちんと六等分、皿に分けられシドの元へ。佳い色に焼けたタルトの上、雪の白さのフロマージュがたっぷり。上にかけられた摘み立てのブルーベリーの赤味のソースも、生地の眩しさを一層奇麗に引き立てる。…魔術師の手料理と来たら、食べて美味なのは勿論の事、こうして眺めるだけでも極楽である。
 いっそ、フォークを入れるのが勿体無い様な見事なタルト、思い切って口に入れる…
「〜〜〜!!!」

 だむだむだむ!!!
「シド、食卓が壊れますよ…」
 だむだむだむ!!!だむだむだむだむ!!!
「もう…」

 とても、言葉で説き尽くせぬ至上の旨さ………



 結局六切れの内、四つも食べてしまって。心も胃袋も満腹になって。幸福の余韻に浸ったまま、何とは無しに視線を泳がせると。
 ふと、奥の部屋に眼が留まった。

 …もう一つの、フロマージュ。

「シド、今日はね、本当に駄目ですよ」
「うん、判ってるけど…」
 視線の先、先日食べた細長い物とはまるで違う、変わった形のフロマージュがある。
 丸くは無くて、角張っていて。四角い癖に円錐状に尖っていて。
 …その癖、頭頂部は妙な事に平らである。
「あれはね、もっと寝かせなくてはいけませんから。一月ほど、待って下さいね」
「うん…」
 流石にあれだけ食べた後だから、一応理性も働くが。何にせよ、あの不思議な形が気にかかる。
「なあ、お師匠。あれってさ、何か由来とか縁起とかあるのかよ?」
「ああ…あの形、ですね」
 すっと。魔術師の眼が記憶を探る様に半眼に閉じる。

「…あれはね、マギスの霊山…マグムノを象っているのですよ」
「へ?あんな…てっちょうを切り落とした様な形が?」
「マグムノはね、火霊山ですから。度重なる噴火に…山頂がどうしても崩れてしまうのですよ」
「へえ…」
「本当は山頂部分が丁度すり鉢の様に窪んでいましてね、象る時にも少しへこませる習わしですが…少々面倒で」
 だから、先端だけ平らに均してあるのですよ…
 魔術師はそう言ってまた笑った。



 マグムノ形のフロマージュには格別丹念に黒い灰が塗してある。かの山の、暗い色の岩肌が外気にむき出しになっている様を…魔術師は丁寧に再現していた。
 それはそのまま、かの山の火気の魔力の苛烈さと急峻さ…木々は生えず土も風に削られてしまう事…を意味しているのだが。

(切った時、凄く奇麗だろうな…)
 黒い黒い外皮に、新雪の白さの無垢な色。
 その対比は、例えようも無く美しいだろう…


 少し不謹慎ではあるが。
 腹は素晴しく満足で。
 こんなに幸せで満ち足りた時くらい、無責任な夢想をしたって許されるだろう…
 そうやって、シドは飽きずに小さな火霊山を見つめていた。


Fin.


後記:
 あー!長なってもうた〜(TT)
 実の所、コレ書いた動悸…ネタの仕込みの最中に、空腹に襲われまして。突如、ウン年前に食った名も知らぬヤギチーズの味が脳裏に突如甦り…
 日記サイトを運営しておれば

ヤギたんモエモエ ハアハア…(´Д`)

…てな阿呆の与太をズラズラ書き連ねる所ですが、そんなん書かれても誰も楽しゅうないし(つーか怖いし)、一応ここはオリ小サイト、どーせやったらssにしてまえ!思いまして。
 んで。短編一本つい突発ってもーた訳ですたい。

 御陰でお師匠の故郷の山、カルデラタイプの火山に決定です(笑)…いえね、火山ってゆー設定は元々あったんですがね。食い物がらみで決めたってのが…(汗)
 何か解決し損なった伏線がぎょーさんあるのが悲しいですな。つーか、突発短編にそんなに伏線仕込むなア!みたいな(涙)

 しかしますますファンタジー違いなブツばっかになって来るのうこのサイト(号泣)


 設定間違いはいつもの事やけど、今回酷いんで補足。

 闇の妖精が近くにいると、パンやら葡萄酒やらが駄目になる→発酵は神秘の現象、「神」の祝福あってこそ成る、逆に「神」の対極の存在は邪魔ばっか…ちゅうのが昔の発想で。で、特にキリスト教社会では「まつろわぬ」存在の「妖精」が犯人と目されてましてん。ちなみに昔の「妖精」のイメージは美形でのうて、チビでヤセで黒くて皺くちゃ。…ま、とにかく絶対主義的一神教概念スから、多神教前提のファンタジーには向かない話ですがね。

 シェーブル、フロマージュ→おフランス語で「山羊」「チーズ」の意味。まんまや…

 知恵の実→こんなんありまへん(爆)当り前や、けど案外欧州の超グルメ系食物には常軌を逸した名がよく付けられるしのう。現代日本の感覚と違い、脳みそに良く似た形の物を「悪魔除け」として珍重する習慣もあるから…マジあったらどうしよう(−−;)

 山の災いの精霊ハウリ→超ローカルな奴。スイスのメルヒェンの書籍にバンシー雪崩版みたいのがいてまして、あんまし聞かんしメッサ怖い感じやし、こりゃ使えっぞ!と思ったにも関わらず…栞入れ忘れてもーて。そんで、読み返すと…何度読み返してもソノ記述が全く見つからない!何故!!ちょっと本気でミステリー(^^;)。従って、名前も設定もかな〜りうろ覚えのオリジナル。

 アイベックス→よーするにアルプスの高い岩場をぴょんぴょんしてはる、某アルプスの少女で言う所の「大角の旦那」っス。ファンタジーげにと、取り合えず巨大化させときましたけん(をい)…せやけど奴さん、確か山羊とは大分種族がちゃった様な…(汗)牝にもデフォルトで角あった気が…(滝汗)

 アイベックスのチーズ→ひょっとしてローカル伝承かも知れませんが、スイス辺りには「アルプスには小人がいて、アイベックスの群れを飼っていて、時折気に入った人間にそのチーズを分けてやる」と言う伝承あり。お約束で鬼ウマだそうな。


 それにしても。チーズ萌えが発端とは言え、チーズ尽くしっスねえ…
 「チーズ=臭い」ネタはあんましファンタジーっぽく無い気もしますが、日本人には結構感情移入出来る話かとも思いまして。納豆食えん身で偉そな事言えませんが、皆、臭いに負けずに食ってくれ〜!絶対旨いねんから!
 どーゆー訳か、日本のチーズグルメはカマンベールオンリー状態でゲスが、個人的偏見を申せばあんなの超ザコ(酷)←いやA.O.C.(国のお墨付)とかは別ですたい
 白カビの味が好かんのと(←てゆーか、外皮食うなや…)何とも塩気がきつすぎるのが…。それに比べれば、最近イタリアンブームのドサクサで、ゴルゴンゾーラがメジャー化してるのは割とまともな方向の気が。あれブルーの中でも食い易いし。
 だがだがだがですね、天下のブルーチーズと言えどもチーズグルメトライアングルの一角にしか過ぎませぬ!なかなか日本で定着しない、究極のチーズ達…それは、「ウォッシュタイプ」と「シェーブル」!

 まあ「ウォッシュ」は確かに難易度高いですよ。コレは雑菌の繁殖を防ぐために葡萄酒等で表面を洗い洗い長〜く熟成させるもので、これが…すーさーまーじーくー、くっっっっさ〜!!!
 味はサイコー!…らしいのですが、とにかく臭くて臭くて、これは食べ慣れていないと駄目なんじゃ無いでしょーか。

 で。そこで登場するのが「シェーブル」。


 …「山羊」のチーズ、と聞くとイメージ的に超絶ワイルドちっくですがさにあらず、意外にあっさりしております。全般的に酸味の聞いたタイプが多いのですが、その酸味がまたすっきり感を増すと言う次第。基本的に熟成期間の短い物が多く、色が奇麗に真っ白だったり臭いも控えめだったり。例えば作中、作ってすぐ食べてるアレ、ホンマは「シャビー」とか「バノン」とかフレッシュタイプの奴だったんスけど、熟成させずに食べちゃうんで、マジ白いっス!栗の葉で包んで保存するっつー、かなりファンタジー的にも燃える習慣あり。途中で個人的にプッシュな熟成タイプの描写に変わってるんで、かなーり矛盾話ですが…ご免して下せえ。
 ちなみに山羊チーズと言うと有名所の見た目が…塗した真っ黒な灰に度肝を抜かれる日本人が少なくありませんが、あの灰チーズの酸味を程よく中和する働きがあるんだとか。白カビなタイプもありますが、ただ真っ白なだけじゃ寂しい感じ。これ系では「サン・モール」と「ヴァランセ(ピラミッド)」の二種が有名。

 「サン・モール」は細長い円筒形のチーズで、とても柔らかく崩れやすい…と言う事で、補強として藁を一本真ん中に通す事が一般的です。この藁が、またホントに藁なんで…「一体、どーゆー来歴の藁だろう(−−;)」と気になり出すと食べられません(笑)お馴染みの真っ黒な灰をエイヤッと塗してありますが、実に食べやすいチーズでっせ。純白が汚れた眼にまぶしい(←?)白カビタイプもあり。…でも白カビ物は熟し過ぎると微妙に汚いルックスに(TT)

 「ヴァランセ(ピラミッド)」はその二つ名通りに四角錐、けれど何故にか上部がブッた斬られております。これもやっぱ黒灰タイプの他に白カビもあり。ちなみに実は熟成期間、「サン・モール」と同じ位で一ヵ月程。独特の形状は、エジプト遠征から帰って来たかのナポレオンが、丁度ピラミッド型をしたチーズを見てブッチしてサーベルで斬っちゃったと言う、嘘クサいがナイスな「伝説」があります。ボナパルドなんておフランスのガリア戦記以前からの長〜い歴史スパンに比べれば随分新しい奴ですが、それでもあちこちに「伝説」残しちゃう辺り…凄いおヒトやったんやな〜、と感心する事頻り。


 しかし。調べて行くと衝撃の事実。山羊乳って、母乳と成分比がほとんど同じだそーです。つまりソレって、味も…って事スか!?(汗)
 そう思うと、ああ言う「過去」持ちのシドがエラく気に入ったのが洒落にならん(−−;)

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(C)獅子牙龍児
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