夢の中


 夜気が殊更皮膚を裂く。だが構ってはいられない。

「いたぞ!」
 鋭い声が複数上がる。小さな影がびくりと震え、別な路地へと潜り込む。
「そっちへ行ったぞ!」
 何人もの男達が、手に手に光る物を持って凄まじい勢いで追いかける。だが逃亡者も。
 …恐怖と絶望に瞬きすら忘れて疾走していた…


 「仕事」が入ったのは五日前である。
「…あの糞親爺、ご禁制の品にまで手を出しやがってな、よりにもよって『魔薬』をやり出した」
 仲介人がいまいましげに舌打ちする。
「私兵まで雇ってこっちの商売邪魔しやがる…」
「いいから、早くそいつの居場所を教えろよ」
「ん?…ああ悪いな、まだだったか?」
「人相も聞いて無い」
「おお、名前も言ってなかったか?」
「死んで行く奴の名前なんてどうでも良いさ」
 …声変わりもまだな少年は、大した感慨も籠めずにつぶやいた。

 シドは暗殺者である。まだ11だが、初心者と言う訳でもない。6歳の頃から技を仕込まれ、9歳の頃から「仕事」に入っている。生まれ持っての「才能」と、小柄な事を生かした仕事ぶりは既に「名人」と呼ばれる程、未来の幹部候補とも噂されている。
 もっとも、そんな評判はどうでも良い事だった。
 ただ生きて行くためだけの仕事。「ここ」なら、とりあえず「仕事」があって、首尾さえ良ければ食べる物にも住む所にも困らない。
 …他に選択肢は無いのだ…

「…三つ角を曲がった所の、馬蹄紋の屋敷だ、分かるな?」
「へえ?」
 そこで初めて少年の眉が跳ね上がった。
「テミスンの奴か?あんな堅物が、抜け荷なんてするのか?」
「坊主…おめェもなァ、やっぱり子供だナァ」
 男は鼻で笑い…急に声を潜めた。
「あの野郎の裏の顔、知らねえのか?」
「俺は聞いてないぞ」
 暗殺者ギルドに身を置くだけあって、それなりに情報は入って来る。稼ぎが多い癖にケチな商人テミスンの評判は決して良くは無いが…それは一重に融通が利かないためである。
 シドの頭の何処かが、違和感を覚えた。それに。常と違ってこの男、やけに口数が多い…
「そりゃあ…お頭だってきっちり気付いたのはついこの間だしなァ…」
 思考を要らぬ饒舌に中断された。いまいましく思うが…
「分かったから、場所と日時を」
 いつもと多少違ったとしても、別に間違いがある筈無いから。
 …その、筈だった。


 あらかじめ探りに入った人間が、こっそり仕掛けた「入り口」を通り、頭に叩き込んだ地図の通りに素早く目的の部屋まで進み。あらかじめ渡された合鍵にて侵入する。正体も無く眠り込んでいるらしい、標的の寝台へと用心深く近付いた。
 しかし。…何故、大商人ともあろう者が、しかも裏家業に手を染めている者が部屋の前に護衛を置かぬのだろう?悪人は後ろ暗い事ばかりするためか、賊を過剰なほど恐れるのが常である。
 あるいは部屋の中にでも潜ませているのかと、慎重に気配を探りつつ歩を進める。…耳を、そばだてる。少年の聴覚は人間の限界を超えている。何故なら人間では無いのだから…。それでも、ほんのわずかな呼吸の音も、まるで耳に入らない。どんなに修練を積んだとて、息をせずにいられる人間などいない。

 …誰も、いない…?

 はっとした。この部屋には護衛はおろか「標的」の気配すら無いのだ。もしや勘付かれて逃げられたか…と、妙に豪華で…吝嗇家には似合わぬ程…ご丁寧にも天蓋付きの大型の寝台へと近付いた。

 全身の血が、凍った。
 そこには一体の屍体。唇は紫、口元に吐血の後、首筋に…鋭利な刃物でかき切られた赤い筋…
(誰…だ…?)
 それは。自分より先に、誰がやったかと言う疑問と…
(こいつは…こいつは…)
 屍体は三十前、テミスンは五十がらみ…

 既に殺された別人。そこに居合わせてしまった自分。
 頭の中で警鐘が鳴り響いている。オマエハ、ハメラレタンダ、逃ゲロ、と。
 無意識に頭を横に振る。そんな筈は無い、これはギルドの正式な「仕事」だったのだ、間違いがある筈無い…ギルドの情報に虚偽がある筈無い…
 ダカラ、裏切ラレタンダ!裏切ラレタンダ!裏切ラレタンダ!!
「嘘だ!」
 よろよろと後退りしながら。
「嘘だ!こんな事は…嘘だ!」
 ギルドが、5年間も過ごして来た暗殺者ギルドが、一度もしくじらずに忠実に任務をこなして来た自分を陥れる筈が無い!
 夢なら覚めてくれ…!

 我に帰って時には、もう遅かった。部屋を朧な灯りが照らしている。
「ひ…し、子爵様!?」
 女が、灯りを手にした女が、部屋の入り口に立っている…
「いやああああああああ!!誰か、誰かッ!!子爵様が…」
 すぐさま荒々しい足音が聞こえて来る。…必死で辺りを見回す。
「何だッ!どうしたんだ!!」
「ああ、騎士様お早く!賊が子爵様を…!」
 扉は女が塞いでいる。それにこの部屋…

 窓が、窓が…天窓しか無い!!

「デリラ殿!?これは…」
「騎士様!賊が…あの賊が!!」
 抜き身の剣を手にした屈強の戦士が、憤怒の表情でシドを見据える。
「貴様…!」
 冷たい、汗が流れた…


 騎士の技量は凄まじい。動揺のあまり先手を取られたシドはたちまち間合いを詰められた。シドの得物は短剣ばかり、反撃する余裕など全く無い。
 暗闇ならまだ分があった。だが例の女は賢しくて、たちまちの内に部屋の灯りを次々灯してしまっていた。真昼のように…とは行かずとも、熟練の騎士には充分な明るさで。
 そして。
 見切り損ねた広刃の切っ先が、シドの面布を切り裂いた…!

「キャアアアアアア!!!」
 絹裂く悲鳴。騎士の表情も瞬時に固くなる。
「おのれ…選りにも選って闇妖精かッ!!」
 灯火が、少年の黒い姿を露にしていた…

 シドは。人間を母に、闇妖精を父に生まれた。この二つの種族に婚姻なぞあろう筈が無く。望まれぬ生を受けた子どもは…
 やがて、捨てられた。
 黒い、どす黒い血の流れる子どもを、望んで養う者も無く。さりとて奉公の口も無く…
 流れ流れて行き着いて。欲と金の渦巻くアルロモグにて暗殺者ギルドに拾われた。半分でも闇妖精の血が流れているなら、さぞかし「使い物」になるだろうと。
 それから。必死で「技」を覚え磨き上げ、命じられた仕事は全て、一つ残らずこなして来た。全く、完璧に。だが。…完璧過ぎたのだ。
 いずれは幹部に、と言う話は何度も聞いた。自分はまだ子どもだし、地位への興味も無いため気にも留めなかったが…

「死ね!死ね!死んでしまえ!!」
 シドの正体を知った騎士の剣撃はさらに激しく狂気じみて来た。それに他の警護の者とおぼしき足音も次々迫って来る。一刻の猶予も無い。
「ぐわあっ!!」
 叩き落とされたシドの短剣に、偶然足を取られた騎士が大きく倒れ込んだ。さっと身を引き顔を上げると…開いたままの扉と、立ち塞がる女がいた。
 少年から表情が消えた。

 野生の獣の様に走り出す。真直ぐ、扉に向かって。
 女がはっと顔を強張らせ、手にした燭台を投げつけようとする、が。
 ひょうと。白い放物線、吸い込まれて…女と燭台、地に墜ちた。
 ぱっと、絨毯燃え上がる。炎たちまち衣へと…胸の谷間に紅流す、女の豪奢な衣装へと。
「貴様!」
 立ち上がった騎士の刃が迫り、背中にざくりと痛みが走る。…その感覚すら凍らせて。
 めらめら広がる炎の海を、一足飛びに飛び越えた。


 …何処をどうやって走ったかも覚えていない。隣街とは言え同じ「仕事場」、何度も歩いた筈なのに、道がまるで分からない。闇雲に走る内に…また元の場所に戻ってしまう。
「いたぞ!」
 兵は十をゆうに越える。皆揃いの鎧を纏い、見事な剣を手に構え。統制の取れた様子から見ても正規の騎士団に間違い無い。
 金で雇われた兵では無い、その事には今さら驚きは無い。私兵がいるとの言葉とて、謀略の一部だったに違いない。それにテミスンは…さる貴人と懇意だと、以前小耳に挟んだ事がある。
 貴族社会は血で血を洗う骨肉地獄。相続狙って一族が、刺客を放つも珍しからず。…その、証拠を隠すがために、シドが贄とされたのだ。それを仕組んだのは…
 ギルド。…今でも嘘だと叫びたいが、炎の海を渡った時に嫌と言う程思い知らされた。
 あの女。見覚えのある、顔…

 金ならたっぷり独身貴族、そんな連中喜ばす、職をば生業夜の蝶、娼婦たち。そんな高級娼婦の群れの中、格別の人気を誇るがあの女である。幼い頃から花街に育ち、毒々しい程の艶やかさは勿論、手練手管も一級品。引く手も数多、常に権勢誇る貴族の寵姫となって来た。
 そして。…その実ギルドの密偵の、役目も見事に果たしているのである。
 暗殺を狙う上流人に巧みに近付き、秘密を聞きだし嘘を吹き込み、時には仲間を手引きする。実際シドとて彼女とともに「仕事」をこなした事すらあるのだ。
 その彼女の、徹底した妨害。

 「あたし、あんたの黒い肌、嫌いじゃないわ」
 「坊や、まだ子どもなんだから…あんまり無理しちゃ駄目よ」
 …記憶に残る、女の声。甘い香に甘い笑み。ふざけ半分で抱き締められて、柔らかさにどぎまぎした…
 もう。何も考えたく、ない。


 さらに走って狭い路地に来た。背中の筋は焼け付く程…肺も心の臓きりきり痛む。限界を覚えながらも、それでも死にたくなくて。必死で足を動かしたのに…
 行き止まり。
 絶望。


 無我夢中で壁をよじ登った…


 そこは、宿屋だった。廊下の左右には、見栄えのしない扉が幾つも並ぶ。
 どこに、忍び込めばいい?どこなら隠れられる?
 分からない!分からない!
 ただもう必死で。何の根拠も無く一つの扉を選んで。凄まじく震える手で針穴を探った…

 寝台は、一つ。人間は、熟睡しているようだ。素早く部屋中を見聞しながら、最新の注意を払って鍵をかけ。猫の様な動きで馬乗りになる。
「動くな!声を…」
 出すな、と言う積もりが絶句した。

 白い。色白と言う言葉を超えて真っ白で。肌のみならず枕に流れる絹の糸。天の御使いの如き清さを称えた容貌の上、突然の来訪者に驚き見開かれた眼の色だけが、白さの中で赤だった。
(雪…?)
 故郷の冬を思い出す。真っ白な雪が、静かに静かに降り積もり。翌朝は村を上げての雪かき雪降ろしとなるが…その後には雪合戦が待っている。流れ弾に当って落ちてしまった南天の、赤い実の色が真っ白な雪に良く映えた…
 今まで一度も思い出さなかったのに。…何せ、この腐った街では、雪だって灰色なのだ。
 何故だろう…

 動かぬシドに、部屋の主がゆっくり瞬きする。最初の衝撃が去ったからか、瞳の色が次第に薄れて行く。真紅が消える…不意に理由も分からぬ不安にかられ…多分、手先の注意が疎かになったのだ。
「…ッ!」
 白い、整った顔立ちが苦痛に歪む。シドの要求通り、悲鳴を噛み殺し。…その様子が痛々しい。
 少年は、心に冷水浴びせられた。

「あ…あ…」
 多分、自分がこの人を害したのだ。そうに違いない、だが何をどうすれば良いのか分からない。…全身ががたがた震える。
「何処が…痛いんですか…」
 この状況で、この質問。滑稽極まる台詞だが。
 相手は静かに応じてくれた。

 一度にっこり微笑みかけ…恐慌のシドを安心さすような、暖かな表情…視線をそっと下方へと降ろす。藁にでもすがる心地でその動きを必死で追うと。
「…あ…!!」
 慌てて手を引っ込める。…暗殺者の本能で、首筋に刃を当てて。前のめりの姿勢で気が抜けた時に、脅しの積もりの短剣で皮膚をうかつに裂いてしまったのだ。
 細くて白い喉元に、鮮やかに赤い筋走る。月も無く、星明りだけが頼りの闇の中にも酷く奇麗に眼に映る。

 …この人は、俺が…俺なんかが触れて良い人じゃない!

 罪悪感が突如膨れ上る。ただその苦しみから逃れようと意味も無く視線をふらふら彷徨わし…己の利き手に眼が留まる。…刃身が、わずかに暗い。
 これは…!
「な…なんで…」
 どうして間違えた!これは、「仕事」用の物。
「毒だ…毒!畜生!…毒消し…は…」
 自分のした事を否定したくて、手にした短剣を投げ飛ばした。それでも不気味な刃の色と…白い人の血の付いた跡は消えなくて。…寝台に落ちて、小さな染みを残して床へと転がった。
 服のあちこちを探る。何で、選りにも選ってこの人に、あの汚らわしい刃を向けてしまったのだろう。即死とまでは行かぬもの、一晩も持たずあの世行きの猛毒である。早く、早くしないと…

 不意に腕を掴まれた。夜着ごしにも細さの窺える、白い手。素肌には少し冷たくて。
 それでいて、真新しい敷布の様に心地良いのは何故だろう…
 また、あの瞳が…紅色は消えて、今は淡い水色で…シドに優しく笑みを贈る。
「だいじょうぶですよ…」
 小さな、小さな囁きが聞こえて…
 不思議な。天界の奏楽思わす音の羅列が遅れて続いた。

 しゅうっと。喉の傷から白煙上がり。そのまますうっと塞がっていった。
 …魔法の様に。

 シドは瞬きも忘れていた。ついで言うと、自分が敬語を使って話している事も。
「あ…あの、神官様でいらっしゃいますか?」
 返事の前に困った様な笑みを返された。
「そんな事はありませんよ。…ただの、魔術師です」
「ま、魔術師!?」
「浅いものでしたからね」
 魔法使いを見るのは初めてだが、確か連中は他人を害する技なら幾らでもあるが、癒しの術をまるで持たぬいびつの輩と聞いている。毒を中和し、傷を跡形も無く治すなど、ほら話にも聞いた事が無い。…それも、一瞬の内に。
 だが眼の前で微笑む人物が、行使者と思えば自然と腑に落ちる。
 …ますます、暗殺者の自分とは遠く離れた人に思えた…


 ミシリ、ミシリ、ミシリ。木の板の軋む音と複数の話し声が聞こえて来た。特に声は怒りを含んでいる。
(しまった!)
 そう、自分は追われているのだ。だがこの人を巻き込む訳には…悲壮な決意を胸に、自ら投降しようと寝台を降りようとした、その時。
「何処へ行くのです?」
 白い腕に遮られた。

「あなたは追われているのでしょう?」
「…はい…」
 今までに殺した顔が不意に次々浮かんで来た。皆、無念の表情を浮かべて…これほど道を外す前に、この人に会いたかった。今の自分は余りに腐っている…
 細い手に力が籠る。
「今、出ていったら掴まるのは分かっているのでしょう!」
 真摯な表情。細い眉がつり上がり、優しい顔立ちを険しくしている。
 何がこの人を怒らせているのだろう…ぼんやりと思った。

「…しかし騎士殿、これはあまりな無体ですぜ…」
「何を言う、罪人を庇い立てする気か!」
 押し殺した様な会話に、複数の足音。…シドの身体が硬直した。
「早く!時間がありません!」
 何だか良く分からない内に寝台の上へと戻された。呆然とする少年の眼の前で、白い魔術師が酷く急いで布団を裏返す…表に、血が着いていたのだ。
 じゃらりじゃらり…ガチャ、ガチャガチャ。鍵の音が次々聞こえる。…宿の亭主が客室の扉を全て開けているのだ。音がひたひた迫る中、白い魔術師必死の形相で、布団でシドを覆い隠そうとする。
「あ…短剣…」
 床に落とした得物を思って、シドが小さく悲鳴を上げる。気付いた魔術師早口で、何やら呪文を唱え…どう言う手品か証拠の品を見事に隠した。
 最後に瞬時、優しく微笑みかけ…自分も布団を目深にかぶり、すっかり眠った振りをした。
 …間一髪間にあった。
 ほんの一呼吸後に。…扉が荒々しく開け放たれた。

「起きろ!愚民めが!」
 ずかずかと、足音も荒く騎士が二人も入って来た。
「な…何なのです?…一体…」
 魔術師は眼をこすりこすりさも眠たげに半身を起こす。声にも見事に睡魔の影。…だが布の下では細い手が、怯えるシドをしっかり抱えていた。
「賊がこの宿に逃げ込んだのだ!」
「賊…?」
 首を傾げる…振り。
「そうとも!やんごとなき御人を闇討ちした卑劣漢!」
「そんな…事が?」
 不安そうな声。自分の罪がこの人に知られてしまった…
 だが。優しくかすかに…騎士に不審がられぬよう…撫でられた。
「そうだ!暢気に寝ている場合では無いぞ!」
「いえ、そんな…知らなかったものですから」
「とにかく調べさせてもらう!」

 ガタン、ガタン。それなりの上宿だけに、調度品はなかなか多い。衣装箪笥から始まって、机の下やら棚の影やら二人の男が荒々しく探る。無遠慮な連中は、ついに寝台へと近付いた。
(駄目だ…!)
 心臓の音が早鐘になる…

 そっと、頭を撫でられた。
 はっとすると…今度は肩を、強く抱き締められた。

 寝台の下をカンテラで照らし、さらに散々抜き身の剣で何度も払った後、漸く気が済んだかぶつぶつ言いながら出ていった。暫く、近隣の部屋からやはり家捜しの音が何度も響いて客が怒鳴り返す声すら聞こえていたが。
 やがて、それも絶え。
 行き以上に不機嫌な足音が、階段をいらいらと駈け降りて行った。


「…もう、心配はありませんよ」
 無礼な闖入者が開け放しのまま放置した扉を閉めがてら、辺りの様子を探って来た魔術師が戻って来た。
「ここのご主人が閂を閉められる音が聞こえましたし…」
 ふと、言葉が途切れる。
「どうしました?」
 魔術師が、答えの無い相手を案じてか、寝台の上の布をそっとめくる。
 シドは、まるで動けなかった。

 安堵、などと言う感情は何も無く。身体が鉛のようで指一本動かせなかった。…震える事すら出来ない。
 さっきは、どんなに恐ろしくとも魔術師が傍にいた。白い、優しい腕がしっかりと彼を護っていてくれた。
 だが今は。すがりつこうにも何も無い…

 シドの死神はひとまず去った。だが、いずれ必ず追い詰められる。その時は…?
 いや、それより何より。今度こそ、この人の元に留まる口実が無くなったのだ。
 声も無く…何年振りかの涙がこぼれた…

 不意に。ふわりと抱き締められる。柔らかい夜着ごしに、静かな心の臓の拍動が聞こえて来る。
 とくん…とくん…。酷くゆったりとした、穏やかな音。その優しい調べに、身体の鉛が消えて行く。
「疲れたでしょう?…今日はここでお休みなさい」
「でも…」
「今夜はもう、何も出来ませんよ。眠れば良い事も浮かぶものです」
 紡がれる言葉が、子守歌の様だった…



「ご免なさい、起きて下さい」
 そっと、揺り起こされる。何だか不思議にさっぱりして、どうしてこんなに気分が良いんだろう…と寝起きの頭で怪訝に思った時…
「あ…!!」
 眼が覚めた。

 窓からは明るい光、もうすっかり朝である。一度もうなされずに熟睡した事に驚きながら…傍にいる筈のあの人の姿を探る。
 魔術師は…昨日と様子が違っていた。全身を黒い、魔術師の長衣ですっかり包み。…顔には、眼鏡。
 血の気が失せた。昨夜は暗くて、しかも眼鏡も無い状態では分からなかったかもしれない。だが、この日差しの下、シドには面布の一枚も無いのだ。
「だいじょうぶですよ」
 恐る恐る見上げると、にっこり笑みを返された。
「でも…俺は…」
「だいじょうぶですよ」
 魔術師が、白い髪を束から一房、抜き取り…昨夜と違って、緩く結んであった…指で軽く弄んでそっと放した。ふわり…絹糸の輝きを残しながら肩へと落ちて行く。
「私の髪、白いでしょう?」
「あ…はい」
 まだ二十歳頃と見えるその顔立ちに反して、酷く白い。白いけど…
「この髪を厭う人も随分いるのですよ」
 ほんの少し、眉根が寄せられる。
「そんな!俺とは違う!だって、だってその髪は…」
 こんな人を苦しめる人間がいるなんて。
「奇麗だよ!凄く、凄く…まだ誰も踏んじゃいない、初雪みたいだよ!」
 自分でも驚くほど激して発したその言葉に、淡い忘れな草色の眼が大きく見開かれて。そしてゆっくりと閉じて。
 すうっと。滴が頬を伝った。

「あ、あ…俺…」
 恩人の涙に完全に動転するシド。だが白いその人は首を振った。
「違います…」
「でも、でも…」
「違うのですよ」
 ぎゅっと。抱き締められる…

「…ありがとう…」
 震える声で、吐息のような声で。…何だか、どきどきした。
 ぼうっとしている内に、すっと温もりが離れた。
「ちょっと、待っていて下さいね」


 魔術師が去った後の部屋は酷く空虚に見えた。多分、本当にすぐ済む様な用時だろうとは思ってはいるが、それなりに広くて家具も大きな部屋に一人、何をするでも無くただ待つのは辛い。
 ぐるっと、辺りを見渡してみた。ふと、魔術師がここにいたのはただの夢で、眼が覚めた今全てが砂の城の様に消えてしまったかの不安を覚える。

 だって、ありえないじゃないか。

 そう思うと、後から後から暗い靄が心にかかり、シドを苛んで行く。何だか本当に夢だった気がして来て、ならばせめて心に留めて置こうと、魔術師の笑みを必死で思い描く。瞼の裏に浮かぶ白い髪を、意識でそっと辿ってみると…何だか不思議な心地がした。
 こん、こん。不意に慎み深いノックが聞こえた。

「お腹空いたでしょう?暖かい物もあった方が、と思いましたから」
 上着の内側から、真鍮のロケットの様な物を取り出し、机の上に置く。二言三言魔術師がつぶやくと、風船の様に膨らんで結構な大きさの蓋付き器になった。
 眼を回しかけているシドの様子に、おかしそうに笑う。
「驚かせてしまってご免なさい。なるべく人に見られずに済ませたかったもので…」
 魔術師が蓋を開けると、やはり真鍮の食器が並んでいて、まだ湯気を立てているスープや肉のあぶり焼きやジャガイモなどが盛られている。…思わず唾を飲み込んだ。
 ぐううう…盛大な音。白い魔術師も朗らかに笑う。
「遠慮なんてせず、たっぷり食べて下さいね」
 思わず顔中で喜びを表現してしまったシドだったが、そこではたと気が付いた。
「あの…これ、一人分じゃ…」
「ああ!あの、私は下で済ませて来ましたから」
 慌てた様子で魔術師が手を振る。だけど、シドだってそこまで子どもでは無い。心の感覚では随分長く感じられたけど、窓から差す日の落とす影はまだ大して変わっていない。それに、一人客の魔術師が、昨日の今日で食事を二人前注文したら、怪しまれるのに決まっている。
「あの…私には携帯食もありますし、本当にあまり食べられませんから…」
 でも。うまく言えないが、たとえ魔術師が料理の大皿を前にしていたとしても。
 …この食事だけは一緒に食べて欲しかった。

 真鍮の皿の上に、焼きたてのベーグルが乗っていた。そっと手を伸ばして、細心の注意を払って奇麗に二つに割ると。
 …ためらいがちに差し出した。
 これは、自分が稼いだ物では元々無くて。それを、呪われた闇妖精の血が流れる殺人者の手で渡すなんて無礼も良い所だ。
(それでも…)
 思わずぎゅっと眼をつぶった。

「ありがとう」
 ふっと、手の上の感触が無くなって。慌てて眼を開けると小さくちぎった一切れが、ちょうどあの人の口に入る所だった。色が白いだけに唇が赤過ぎるかと言えばそうでは無く。むしろふわりと淡い桜の色に良く似ていた。
 白い瞼を閉じたまま、丁寧に味わって食べ終わると、あの笑顔をまた見せてくれる。
「暖かで、おいしいですよ。覚めない内にどうぞ」
 シドはただこくんと頷く事しか出来なかった。

 …その朝の食事は、本当に暖かだった…


「何処か、行く宛はありますか?」
 首を振る。…久方ぶりでぐっすり眠れて、暖かい食事をたっぷり取れて。頭は幾らかはっきりしている。この街に残る事は勿論、ギルドの本拠地も危険極まり無い。だが、旨く行商人の荷馬車にでも潜り込むなりなんなり脱出の手段が無い訳では無い。もっとも行った先にもギルドの手配が回っている事もありえるが、その時はその時だと言う位には胆が座って来た。
 一生涯分の幸福を味わえて。もう思い残す所は無い。
 それでも。気付かれぬ様に唇を噛んだ。

「あの…もし良ければ…私と一緒に行きませんか?」
「へ?」
 空耳かと思った。
「私も魔法使いの端くれです。杖さえあれば、多少は戦えますし、いざと言う時でも『瞬間移動』の技が扱えます。家も、ここからは大分離れた田舎ですから…」
 心臓が、どくどく早くなる。たとえば辺境の農村ならば。さしものギルドも縄張り違いで手が出せない。
 嬉しい。…それが本当に許されるのならば。
「だけど、俺…選りに選って人違いで、貴族を刺した罪人だから…」
 シドの無実を証明する人間は誰もいないから…
「それも濡れ衣でしょう?」
「え…?」
 優しい眼が覗き込んで来た。
「…あなたを初めて見た時、眼がとても必死で真直ぐでしたから。そんな気がしましたよ」
「でも…俺は今まで本当に…」
「はい、お終い」
 白い長い魔術師の人差し指が、シドの口をそっと封じた。
「終わった事は、もう無しにしましょう。…あなたは、新しいあなたに変われば良いのですよ」
「新しい…俺?」
 そんな事を言われても、想像が付かない。6歳で捨てられて以来、ずっと街の日陰で暮らして来た。「名人」とまで呼ばれたが、所詮裏の社会でしか使えぬ技術。
「そうです、魔術師になりませんか?」
「え!俺が!?」
「ええ。…私も弟子を取るのは初めてですが、あなたならきっと良い魔術師になれますよ」
 そっと、春風の様な笑み。

 ずっと憎んで捨て去りたいと思った黒い血だけど。…闇の妖精には人間には及ばぬ魔力がある。無論、それは半妖精にも受け継がれる。

「本当に…?」
「ええ」
「俺を、」
「はい」
「弟子、に?」
「そうですよ」
 …信じられない。あのヘドロの中を泳ぐ様な日々から解放されて、こんな晴れた日のうたた寝の様な夢を、ずっと見続けられるなんて…
 幸せで、幸せで。…頭がくらくらした…



「シド、シド!もう、起きて下さいよ」
 名前を呼ばれて眼が覚めた。
「あれ…お師匠…?」
 いつも通りの魔術師が、腕捲りに前掛けを着込んでいる。
「今日はラベンダー摘みですよ」
「え…ああ!忘れてた!」
 ラベンダーは盛りが短い。薬にしようとするならば、花が咲いてからではもう遅く、蕾の出来た頃から良く見張っていなければならない。毎日まめに通っていて、明日は絶対頃合だと昨日大騒ぎしたのはシド当人である。
 ばつの悪い思いをしながら恐る恐る顔を上げると、魔術師がくすくす笑っている。

 その笑顔に見惚れながら…ふと、さっきの夢を思い出した。

「夢…」
「え?」
「あ、いや、さっき夢見ててさ、それが結構良い夢で」
「…ご免なさい…」
 さっと、魔術師の顔が曇ってしまう。優しい、優し過ぎる白い人。優しさのあまり、いつも胸を痛めてしまう…そんな所が好きだけど。
「いいって!別に大した事ないしさ」
「でも…」
 尚も言い募ろうとする魔術師を遮って、ケトルが大きな音で鳴き出した。
「お師匠、お湯お湯!」
「ああ、はいはい!」
 ぱたぱたと駆けて行く後姿を、少し笑って見送った。

 ミルクを暖める匂いと、茹で野菜の食欲をそそる香が流れて来る。カチャカチャ言う音は、きっと魔術師が食器を取り出す音。
 穏やかな、朝の風景。

「シド、もうできましたよ」
「はいはい、今行く!」
 走り出しながら、そっと幸福をかみしめた。
 …暖かな夢は、まだ続いている。

Fin.


後記:
 ちょっと甘いか?(^^;)
 それに妖精ってフツーは人間より長寿な分、成長も遅い筈やし、11でソノ道のイッチョマエってのは御無体な気が。

 まー、とにかく、本編自分で読み返しながら嬢ちゃんがシドの事をあんまり幸せ幸せって妬むモンやからカチンと来て、それで突発的に作成。って、嬢ちゃんの台詞だってテメエで考えたんやろが!(爆)
 ついで言うならシドに関してはもっとトラウマなエピソードもありますが…う〜む、いずれ書くべきか…


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(C)獅子牙龍児
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