八部衆


 拙作には「八部衆」と言う言葉こそ登場しませんでしたが、その構成メンバーが出て来たので、簡単に。ちなみに筆者は敬虔のケの字も無い宗教ミーハーに過ぎぬので、不快に思われる方もおられるやも知れません。
 また、仏教スキーの方々には周知の事実ゆえ、トバして戴いて構いませぬ。

八部衆とは


 「天竜八部衆」とも言い、釈迦如来の眷族で仏法を守護する八種の天部(=神々)。全てインド神話…と言うか「バラモン教」が起源で、通常は「天」、「竜(龍)」、「夜叉」、「乾闥婆」、「阿修羅」、「迦楼羅」、「緊那羅」、「摩ご羅伽(←「ご」は目へんに候と書く漢字、JISに無い…)」を指します。ちなみに種族名であってどれも特定の個人(個神?)の固有名詞ではありません。
 実際の作例を見れば分かるように、ほとんどが半人半獣の奇怪な容姿であり、本来邪神とされていた存在が仏の教えに帰依して仏教の守護となった…と、通常説明されますが、元来は尋常な神であったのが時代が下るに連れて暴虐性が強調されてしまっただけだったり、あるいは姿が奇怪なだけであったり…敵に回すと怖そうなメンツではありますが(^^;)



 サンスクリット語の「デーヴァ」を音写したもの、天部(神々)一般を指します。天部にはインド起源に限らず種々多様な神格が取り込まれ、その姿も獣頭だったり獣身だったりと色々ワンダフルですが、通常「八部衆」の一員としての「天」は何故か尋常な人頭人身、しかも男性の姿で表わされます。

竜(龍)
 インド神話の「ナーガ」の事。雨を降らす能力があり、鱗があって長く巨大な身体を持ち、蛇族に王として君臨する…中国の「龍」と共通する特徴が幾つもある反面、「毒がある」「首の脇にふくらみがある」「鳥(と言っても勿論特別な鳥)に容易く喰われてしまう」「地底世界に住む」等々、首を捻りたくなる記述も。実は「コブラ」の様な強力な毒蛇、特に「キングコブラ」を神格化した存在です。実際インドでの作例は如何にもコブラと所縁ありげな造形ですが、日本では全く中国の龍そのものの姿で表わされます。
 ちなみに、同じ「八部衆」に数えられる「迦楼羅」とは過去に少々因縁があり…と言うか完全に恨みを買っており、強大な「ナーガ」と言えどもあっさり食べられてしまいます。その辺りを同情されてか、仏典には「迦楼羅」に喰われそうになった「ナーガ」が仏の慈悲にすがり必死で祈ると、哀れんだ仏の法力によって救われると言う、完全な被害者役で登場します。この辺も中国の「龍」とは大分違いますね(笑)龍スキー…と言うか鱗虫スキーにとっては何とも寂しい限りです。
 蛇足ながら、中国の「龍」の原形は「鰐」(!)だそうです。確かに脚が四本だとかあの歯列だとか立体的な面相だとかデカい鼻だとかエラい声で吠えるだとか、似ていない事も無いような…本来は角も無かったんだとか。古い時代の図案化の際に頭上の書き加えられた補助的な記号が、後代になって意義が忘れられて角と看做されたのでは…と言う説もあり。

夜叉(やしゃ)
 サンスクリット語の「ヤクシャ」を音写したもの、一種の鬼神を指します。「外面似菩薩 内面如夜叉」の言葉に代表される様に、陰性の邪悪な存在と看做される事が多いのですが悪魔や妖怪の類とは少し異なり、本来は森林に住み自然を操る精霊の様な存在だった様です。人間でも神格でも無い事は確かなので、実際インド神話では数々の悪さ(含む殺人、××)をカマしてもおり、特にインド神話・文学上で「悪魔の島」して登場する「セイロン島」、その島に住まう「悪魔」がずばり「夜叉」とされています。
 とは言え必ずしも絶対悪でも軽んじて良い存在でも無い模様。魔法の様な神通力を駆使する様は言って見れば日本の「カミ」、善悪の彼岸の価値観ではやはり敬意を表するべきなのでしょう。また「自然=資源の宝庫」と言う発想からか、自然を支配する存在として財宝の主ともされ、時には人間に恩寵を垂れる事も。ちなみに女性は「ヤクシー」、「夜叉女(やしゃにょ)」と言い、大変美人でセクシーです(^^)とは言え日本では男性の夜叉の作例ばかり、しかもまンま「鬼」って感じですねえ…
 ちなみに仏教では「多聞天」の眷族。「多聞天」は「毘沙門天」とも言い鬼神の主とされ、配下には「夜叉」を始め「羅刹」など錚々たるメンバーが名を連ねます。

乾闥婆(けんだっぱ)
 サンスクリット語の「ガーンダルヴァ(ガンダルヴァ)」の音写。インド伝統医学「アーユル・ヴェーダ」の書籍をひもときますと、「ガーンダルヴァの気質を持つ」云々…と突然当然の様に登場して、「『がーんだるhぁ』って一体!?」等と言う素朴な疑問なぞまるで構わず話がガンガン進んで行く…つまりインドでは説明するまでも無い存在でして。でも日本ではかなり知名度も低いと思われますのでクドクドしく参ります。
 最古のヴェーダ(=インドの宗教文献)たる「リグ・ヴェーダ」にも登場する歴史ある存在ですが、当時は神々のパシリ(をい)的な地位でした。主たる仕事は天界の神酒ソーマ(ソーマ草なる植物より製した、幻覚性のある飲料)の番人、その他天上の馬の世話なども行っていました。また水と縁のある種族だったと見え、同じく水と関係の深い天女アプラサスを妻とするとされ、さらには「嫁ちゃん美人やからきっと面食いや」と言う邪推なのか(^^;)好色な存在とされました。しかし酩酊を起こさせる「ソーマ」の守護、美女で芸事にも達者な天女「アプサラス」の伴侶…と言う辺りが人々の想像力を刺激してか、時代が下るにつれてより派手な存在となります。
 ヒンズー教の時代となると、「ソーマ」を好み常飲していた(…それってア○中じゃ…)「帝釈天」の眷族とされ、また「ソーマ」のもたらす酩酊感と妻が天女と言う連想からか天上を飛翔しながら神々のために音楽を奏すると言う華々しいイメージに。また幻術を使うとも言われ、蜃気楼の事を「ガーンダルヴァの都市」と言う事も。ついでに「好色」「美女好み」の属性がさらに発展を続け、女性の守護者と看做されて遂には「処女」を護る(!)とされたり、「恋愛結婚」の代名詞になったりその帰結としての(笑)受胎を司り子どもを守護するとも看做されました。楽神と言いながら結構お忙しいですな(^^;)色々調べては見ましたが、半神半人ならぬ半神半獣の容姿はどうも端麗とは言い難いらしく…と言うか難だかモノ凄いらしく(汗)、さらにペルシャ辺りに伝播すると今度は一度に十数人を喰うと言う(ひー)紛う事無き魔物とされてしまいます。
 仏教では基本的にはヒンズー教の楽神イメージを引き継いでいますが、密教あたりだとペルシャでのエピソードを引きずってか十数体の鬼の首級を武器にブッ指した(・・;)スゴい姿で表わされます。で、その鬼は子どもを食らう鬼だった…と言う形で子どもの守護を司るとされた理由付けに使われています。神話スキー的には広がり過ぎた設定(←「設定」って言ってエエんかい?)をうまい事まとめたなあ、とかなり萌え(笑)
 「神」では無く「半神」と言うのがあるいは響いてか、日本における像はやや特徴に乏しいのですが、大体面相はやや憤怒相、甲冑を着込み、(省略される事もあるが)飛翔するための翼を持つ事が他の天部との識別の目安かと。あ、密教形の図象では例の「鬼の首級」がよく登場するのですぐわかります…が、鬼の首と言ってもバリエーションのためか結構人相穏やかなのも混じっていまして、却って乾闥婆の方が怖いです…(汗)
 ちなみに仏教では四天王の一人、「持国天」の眷族とされます。

阿修羅(あしゅら)
 サンスクリット語の「アスラ」の音写、時に約めて「修羅」とも呼ばれる、もはや説明なぞ無用な超有名人(?)。「アスラ」の語は「ア=非」と「スラ=神」から成り、「非天」即ち神では無い「悪魔」である…と言うもっともらしい講釈が日本でも定着していますが、これは言わば衒学的悪趣味、かつてキリスト教社会に魔女狩りの嵐吹き荒れた際、魔女に女性が多い理由付けの一つに使われた「女性(femina)は『信仰(fe)』が『少ない(minus)』から」の類でありましょう。言に古い時代の「リグ・ヴェーダ」辺りでは「アスラ」の語は暴風雨の神々等の言って見れば「荒神」に冠された言葉であり、非倫理的な「悪」のイメージは皆無。それが時代を下るに連れ、太古の文献を言葉に忠実に解そうとするあまりに前述の「非天」解釈の様ないささかトンデモ説が飛び出して来た訳でして。で、結果悪魔の類とされた訳です。
 その悪魔が仏教に取り入れられて勇猛な守護となったのですが…別の宗教を取り入れる際、相手方の神々を勝手に悪魔に落とすで無く逆に相手の悪魔を敬すべき存在に引き上げる事は仏教の美点とされますが、結局「非天」のイメージのまま輸入する辺り、結局は「アスラみたいな悪魔でも仏教は飼い馴らせるんだぞう」と言う体の良い宣伝に使われてしまった気が。…うがち過ぎですかねえ?仏教に入って「八部衆」にも組み入れられたのに「悪魔」と言う前身は忘れて貰えず、仏典に於いても英雄神帝釈天との戦いを引きずっています。まあ、そのエピソードも結局日本人の判官びいきの琴線に触れ、また興福寺の阿修羅王像があまりに繊細だからでしょう、若者に特に人気があるようですがね。…つーか筆者も興福寺の阿修羅像のファンですが(^^;)
 像は言わずと知れた三面六臂、また有名過ぎる興福寺の像は例外中の例外で通常憤怒の表情を浮かべています。

迦楼羅(かるら)
 サンスクリット語の「ガルーダ(ガルダ)」の音写。羽根が極めて美麗である事からの「金翅鳥(こんじちょう)」と言う名も広く知られた、インド神話の高名な巨鳥、鳥族の王。「ナーガ」を常食する事でも知られ、どうやら人畜を害する毒蛇を食する鷲を神格化した存在の模様。
 「ナーガ」との因縁はヒンズー教の伝説、一応「ナーガ」の側に元々非があり、ちょっとした(割りと不正な)経緯から「ガルーダ」の母親が「ナーガ」族の奴隷とされた事から始まっています。ある仙人に妻が(!)二人(!!…バラモン教、ヒンズー教のの仙人と言うか聖職者は妻帯するんですな…王族と同じで、血筋を残すべきと考えられた様です…でもやっぱ仙人の嫁チャンって違和感バリバリや…)いて、その妻達が(張り合っていたんでしょうな)負けた方が相手の奴隷になると言う、凄い賭けをしてしまいます。そこで一方の妻が実子の「ナーガ」達を使って工作し、まんまともう一人の妻を奴隷としてしまいます。ちょっと酷い話ですが、別に息子を使ってあれこれしてはいけない…と言う付帯条項も無かった訳で、負けた妻は無く無く裁定に従います。そこで収まらないのが負けた妻の子、「ガルーダ」。当然母の解放を「ナーガ」に懇願します。
 しかし賭けでも謀略を練った「ナーガ」の事、すんなりウン、と言う筈も無く。天上の神々にのみ許された、不老不死の霊薬の甘露「アムリタ」を取って来たら許してやる、ときつい条件を突き出します。勇猛果敢で母思いの「ガルーダ」の事、遠い遠い天界まで自力で舞い上がり、次々襲いかかる神々を打ち負かし…なんとあの雷神「インドラ」にも勝ったとか!…とにもかくにもひたすら前進、遂にヒンズー教の最高神の一人、「ヴィシュヌ」と一体一で対峙すると言う、頼むだれかこの辺忠実にアニメにしてくれや!と叫びたくなる燃える展開に(^^;)しかしいっかな勝負は全く付かず…相手の力量に感じ入った「ヴィシュヌ」が、「アムリタ」を提供するから自分を運ぶ乗り物になってくれとの和平交渉を持ちかけます。素人の外野にはちょっとズルい条件の気もしますが、何と言っても母恋し、それにあの「ヴィシュヌ」の申し出ですから名誉に感じ、喜んで受け入れます。で。帰って来た「ガルーダ」は早速「アムリタ」を「ナーガ」に渡し、遂に母親を取り戻します。
 が。物語にはまだ続きがあるのでした。神ならぬ畜生が「アムリタ」を飲むとは如何なものか…と神々も思ったのか、天界で死闘を繰り広げた「インドラ」が密かに一計を案じて「ガルーダ」と密約を交し、今まさに飲まんとしていた「ナーガ」から「アムリタ」を奪い姿を消します。哀れ「ナーガ」、まだ残ってはいないかと、「アムリタ」があった辺りの草を必死に舐め…結果草の縁で舌が裂け、爾来「ナーガ」ら蛇族の舌は皆二股と成り果てた訳であります。しかも例え解放されても一時とは言え母親が奴隷とされたのは全き事実、いまだに怒り収まらぬ「ガルーダ」は「ナーガ」とその一族を見るや瞬時に取って食らう様になりました。身から出た錆とは言え、「ナーガ」も哀れなものです。
 ちなみにインド神話の書籍ではさらりと流されてしまうのですが、「ガルーダ」も「ナーガ」も各々の母が同じ男性に嫁いだ訳で、異腹とは言え両者兄弟では無いですか!まあ異腹の兄弟で争うと言うのはバイブル等にも見られる位ですから仕方無いと言えば仕方の無い事ですが、実は両者の母達は実の姉妹だと言うから二度びっくり。現実問題として鳥と蛇はともに卵生、哺乳類などと比べれば進化系統樹上でも余程近い種族であります。その辺りに着目して…進化云々はともかく、卵生と言う共通点は古来眼を引いたでしょう…「兄弟」にして「従兄弟」としたかどうかは分かりませんが、非常に近しい間柄が喰う者と喰われる者になってしまうと言うのは神話とは言えそら恐ろしく感じられますな。…て、人間だって現に殺し合ってますけどね(鬱)
 さてこの英雄叙事詩そのもののエピソードも預って「ガルーダ」はかなりの人気者です。悪役にされがちな「ナーガ」と異なり常に善玉、イイモンで登場、「ヴィシュヌ」の眷族として背負って飛ぶ姿も大変に堂々としたもの。その姿はインドではほとんど鷲そのもの、ただし簡素ながら衣類を纏い(当り前や)脚が長く太く人間の戦士の如く、また翼とは別に人間の腕を持った形に描かれます。日本における像ではもう少し擬人化が進み、首から下は有翼の甲冑姿の人身、頭部だけが嘴を持ち猛禽の眼を持つ姿に表わされ、むしろ所謂「烏天狗」に良く似ていますが、そもそも「迦楼羅」こそが「烏天狗」の造形のモデルとの説も。

緊那羅(きんなら)
 サンスクリット語の「キンナラ」の音写。音楽を司る存在なのですが…日本ではとにかくマイナーで、仏教関連書籍でも入門書レベルではほんとんど名前すら登場しません(涙)
 「キンナラ」は男性形で女性を「キンナリー」と呼び、女性が(例によって)大変な美女であるに対し男性は馬頭人身だか人頭馬身だか…とにかく半馬半人の姿だそうです。インド神話では見事な音楽で神々の耳を楽しませるそうですが、これまた飛翔しながら行うのだとか。半分馬で翼があって空を飛びながら音楽???何だか己の想像力の貧弱さを恥じてしまいます、が。この「キンナラ」、本来は声の美しい鳥を神格化したものだとか…

 …はあ!?

 コホン、失礼いたしました。イヤ確かに「乾闥婆」が音楽を「奏楽」するのに対して「緊那羅」は「美声」でもって神々に仕えるとよく書かれているのですが、何故に「鳥」を神格化して「馬」になるのでスカー。「馬」説を取る文献には美声の鳥云々には全く触れられず、逆に「鳥」説を唱える文献では「馬」のウの字も無く謎は謎を呼びなぞなぞ…。生憎手元のインド神話の書籍には「キンナラ」の登場するエピソードが皆無、インドでどの様に描写されたか皆目見当が付きません…。寺院のガイドブックも「キン=何か」「ナラ=人」と言う語義解釈を挙げて「人なりや何なりやで半神とされる」と大変に頼りない記述(涙)
 ただ素人考えながら多少のヒントが。一説によると「キンナラ」は「ヤクシャ」と一緒に生まれたとされるのですが、そもそも「ヤクシャ」は水のエレメントと関係が深いのです。で、水と「馬」と言うのは古今東西を問わず関係ありありでして。例えば西洋の伝説によく登場する水の魔物「ケルピィ」は全くの馬の姿、またギリシャ神話の海神「ポセイドン」は馬の創造者とされています。そんなこんなで「鳥」が「馬」に置換されたのでは…と言っても「キンナラ」自体を水のエレメントと結び付けた記述はどこにも無いので強引に過ぎますが。
 まあとにかく。「乾闥婆」と同様、主として「帝釈天」に仕えている様で、多分「奏楽」と「美声」で役割分担しているのでしょう。素人は「馬」からは荒々しさやら何やら(笑)をつい連想してしまいますが、余程善人なのかそれとも単に地味過ぎるのか(涙)、他の「八部衆」の様な暴虐さや倫理的にマズいスキャンダラスな生活(どんなや)を彷彿させる悪い噂は全くありません。真実「美声の鳥」がモデルとすれば、やはり平和的な性根なのでしょう。よく「八部衆」の事を「本来『悪神』だが、仏に教化され…」とする記述に出会いますが、「キンナラ」に限って言えばそんな十把一からげな言い方は如何なものかと。姿形が幾らアレ(^^;)だからって、ねえ…
 日本での像は少ないのですが、一般に頭上に馬のマーク(←マークかよ!)を付けただけ、全体的には甲冑姿の人頭人身、翼は省略される様です。
 仏教では「毘沙門天」の眷族ともされますが、そもそも「毘沙門天」が「帝釈天」の眷族なのでまあ「帝釈天」に仕えているとも言えるでしょう(←そんなえーかげんな…)。

摩ご羅伽(まごらか、「ご」は「目に候」と書く漢字)
 「摩ご羅伽」は…モンブショーの「字義を捨てて音を取る」方針に従えば「摩候羅伽」とでも綴るべきですかね…とにかくサンスクリット語の「マホーラガ(マホラガ)」の音写、腹這いで進む大蛇を神格化した存在。本来「マホーラガ」の意義は「偉大なる蛇」、「ナーガ」にも用いられる名称でしたが、後にコブラ以外の蛇一般を指す言葉として独立し、単独で崇拝される様になったとか。その経緯ゆえか「ナーガ」に比べてエピソードに乏しく、個性がかなり不明…一応、具体的には「ニシキヘビ」を指すとか。
 仏教に取り入れられてからは何故か音楽を司る存在とされましたが、これも何処から生じた属性か寡聞にして知りません。
 ただし日本では「ナーガ」を完全に中国の「龍」と同一視したのに対し、「摩ご羅伽」は完全に半蛇半神の姿で表わされます。具体的には蛇頭と言うより頭上に蛇形を戴く程度ですが。



八部衆の像を見るには


 何といっても京都のは「興福寺」に勝る場は無いでしょう。ただしその構成員は多少異なり「五部浄(ごぶじょう)」、「沙羯羅(さから)」、「鳩槃茶(くばんだ)」、「乾闥婆」、「阿修羅」、「迦楼羅」、「緊那羅」、「畢婆迦羅(ひばから)」となっています(読み方には異説あり、とりあえず興福寺オフィシャルの図録の説を採用)。ただ違うのは名前だけ、実際には「五部浄」は天部、「沙羯羅」は「竜」の王(一説には「法華経」の「変生男子(へんじょうなんし)」で有名な竜王の娘の男子に転成した姿とも…でもそのパパ竜王の名は確実に「沙羯羅」なんスけど?)、「鳩槃茶」は夜叉の一人、「畢婆迦羅」は「摩ご羅伽」の代表だとか。つまり興福寺では種族名と個人(個神?)名とが並列されている様です。
 もう一つ、同じく京都の「二十八部衆」像も必見。「二十八部衆」は「千手観音」の眷族であって「八部衆」と直接の関連はありませんが、「夜叉」を除く七種が名を連ねています。ちなみに「竜」は「八大竜王」から二人、有名な「難陀竜王」に興福寺にも作例のある「沙羯羅竜王」、また「摩ご羅伽」の他に「畢婆迦羅」、また「五部浄」の姿も。ただし造形はやや似通っていて、遠目にも判別可能な像は鳥頭人身有翼の「迦楼羅」と三面六臂の「阿修羅」程度でしょう。また、ここでは省略しましたが、普通「二十八部衆」や「八部衆」の各々には「〜天」「〜王」と言う風に敬称が付きます。
 また、寺院に赴く時には(例えヲタでミーハーな意図であったとしても)信仰の場に足をふみいれるのだ、と言う事をくれぐれも忘れないで下さい。仮にも神聖な像に好奇の眼を向けると言う不遜を行うのです、まずは一端手を合わせて御挨拶し、しかる後に拝観する事。また知識をひけらかさない…よく、ヲタはヤッちまいます(^^;)ハイになって大声で騒ぐのはもっての他であります。


で、拙作ではどーなっているかと言うと(^^;)


 「摩ご羅伽」は「ご」がJISに無いから諦めた…と言うのは半分冗談で、拙作「華蘭」では鳥を主役に据えたがために蛇関係を味方に持って来るのが困難となり、結局「竜」ともども登場させない事に。個人的には竜(龍)、ドラゴン、および蛇系モンスタースキーですから使いたいのはマウンテンマウンテンですが、好きなだけに登場させるならきっちり派手に格好良い形にしたいので。龍や蛇系モンスターは別のシリーズで扱う予定ですし。それにつけても「竜」ちゅうか「竜王」の知名度人気の高さに比べて、「摩ご羅伽」のマイナーさは一体…つうかJISに何故に文字が無いのですかあ。「釈迦如来」の眷族「八部衆」にも「千手観音」の眷族「二十八部衆」にも名を連ねているのにい。とりあえず表記は「摩候羅伽」とでもして、どなたかコミックでも小説でも良いですから使ってやって下さい、イイモンとして。しかし「マホーラガ」はともかく「まごらか」は何だか五感が悪過ぎますなあ…
 「天」はあまりに広い範囲を示す名称ですし非個性的なので速攻パス(←冷たい…)
 「夜叉」は本来出番があった筈でキャラデまでしていた(笑)のですが、頁の都合と言うか長尺になり過ぎるので名前だけの登場に。一応、「鬼」と言うより本来の森林に住まう「精霊」、つーかエルフとかニンフとかのイメージになる予定でした。ところで近年の創作系(含む商業誌)では、大抵黒髪のロンゲのキャラが多い様な…拙作でもそーですが。ヒンズー教でも同じ暴れん坊の阿修羅や羅刹に比べて「陰性の悪」って感じに描かれてはいますが…どっかにマニュアルでもあるんですかね?
 「乾闥婆」は調べれば調べるほど一体どんな姿だか解らなくなったため、容姿の描写は逃げました(苦笑)ちなみに拙作中では妻が「水天女」と記述しましたが、あれは「天女」と言うと日本では天界に住む女性一般のイメージがあるため一応差別化と言う事で。実際「アプサラス」は水と関わりの深い存在です。拙作中に「香喰い」とあるのは名称の内の「ガンダ」が「香」を意味する所から香を食べて生きているとの俗説があるため。実際そこから「食香」「尋香」の呼称もあり。
 「阿修羅」は常に帝釈天と戦う存在…と言う事で完全に拙作の某キャラとかぶります(^^;)一度自分で書いてみたいのですが…今回は見送りました。
 「迦楼羅」は前述しました様に本来は「帝釈天」とは和解済で対立していないのですが…味方に勇壮な鳥族がどうしても欲しかったので。それにしても最近の創作系ではほぼ必ず!「迦楼羅」は美形で潔癖系になる様な…まあ、神話から言って曲がった事は絶対に許せない正義感ではありますし、確かに翼が比類無く美しいとは言われていますが。インド神話での頭どころか首や後頭部も完全に鷲状態、足もちゃんと鷲の爪があると言う、半人半鳥系キャラスキー鬼萌え(死)の姿は確かにウツクシイですが、日本の「迦楼羅王立像」なんぞを見てしまいますと美形ちゅうのはちょっと…と思う今日この頃。と言うより以前三十三間堂で某シュ○トのファンの女性があの「迦楼羅王」を見てよよと泣くのをマジで目撃しました(笑)。あとドウでもエエ事ですが、拙作中の「迦楼羅」族の娘「瑠達(ルーダ)」の名は「ガルーダ」から(殴)
 「緊那羅」は当初登場の予定は無かったのですが、色々調べている内に思い入れが深くなり…で、あんな事に(爆)まあ多分、日本一「緊那羅」を活躍させた作品と自負しております(苦笑)。ちなみに「緊那羅」は文献によっては「畜生」だが仏達を楽で供養するので徳が高く云々…と言う記述があるので、少なくとも仏教では音楽の才能は優れているけれど「神」では無く、低位の存在と看做されている様です。ちなみに拙作の「那羅王」「那利妃」はそれぞれ「キンナラ」「キンナリー」から(…)、娘の「那瑠姫」は「親がナとナと来たらラ、リ、で(以下省略)」とゆー、極めてぞんざいな理由です(涙)


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