ブラッカ・ブラッカ (1)


 本当に突然の出来事だった。

 眼の前に突如出現した魔法の『扉』…声を上げる間も無しに、いやさ口を開くいとますら許されず…不可視の力に不如意に掴まれ投げ出された。
 どすん、結構な高さから安い麻袋か何かの様に落とされて。それでも痛みに堪えて必死で振り向くと…今まさに、魔法で生じた仮初(かりそめ)の通路が音も無く閉じて行く所だった。慌てて駆け寄ろうにも『扉』は高く虚空に浮かび、少年の身体には如何ともし難い。
 ただ唯一かすかに希望と言えるのは。閉じ行く『扉』から兄弟達の悲鳴と怒鳴り声が幾つも聞こえて来た事である。演技にしては余りに焦燥に満ちていて、この『事故』が彼等の仕組んだ罠だと言う不安を和らげてくれる。
 とは言え…未熟な術者の開いた『扉』は。焼けた鉄板の上の水滴さながらに消えてしまった。

 衝撃よりも。いや、想像を超えた事態に心が麻痺して果てたのかも知れないが…とにかく魔法貴族の本能とも言える好奇心が先立って、急ぎ辺りを検分する。視覚補助の呪文を唱えようとして、そこで始めて魔法の杖さえ持たずに飛ばされた事に気が付いた。急に心細さに襲われて…遮二無二周囲を見渡して。

 いや。そう何度も見ずとも良かった。…こんな場所は他には無い。

 その事実に…少し安堵した。ここは禁じられた場所、如何な悪意の意図であれ、『故意』にこの場と館とを繋いだと知られれば、如何な高位の貴族であろうと苛烈な裁きが下るであろう。兄弟達も、そこまで危険を犯すとは思えない。
 そして。完全に絶望した…

 ここは、人の生き延びられる場所では無い。


 その場を。『静寂の森』と人は呼ぶ…



 いっそ杖が無くて良かった、不用意に魔法言語なんぞ唱えずに済んで良かった…そうは思いながらも。視覚補助の初級の魔法すら、使えずにいるのは相当の苦痛である。かつて『幻影の間』でこの森の姿は繰り返し叩き込まれたが、やはりあれは『幻影』であった。本物のこの『森』の恐ろしさはやはり歩いて見なければ判らぬものである。
 とにかく樹木が呆れるほどに巨木揃い、しかも枝がまた随分と高い所ばかり、あたかも己の方が縮んでしまった錯覚すら覚えてしまう。その馬鹿に高い枝どもが、これまた恐ろしく長く張り出して凄まじく葉を繁らせている。蟻の這い出る隙も無い程密の…木もれ日、等と言う風流とは全く無縁の森である。
 それでもわずかながら天窓の様な穴がぽつりぽつりと開いてはいるが、森の眼も眩む広さに比ぶればあまりに些細な小ささで、差し込む光も地上を照らすには程遠い。恵みの日差し幾許なりともあらば下草も生えようが、これではどうにも…奇怪極まる姿の、茸とおぼしき類意外何も見えず。同じく樹木の新芽もこの闇の下に生ゆるは困難か、木々の間も凄まじく広い。
 そんな中に十二の子ども、少年が唯一人。
 凄絶なる孤独…

 それでもどうにもしようが無く、少年は震えながらも歩を進める。無駄に動いて良い事なぞ何も無いが、助けの来る保証の万に一つも無しとあらば…望み薄なれど出口を求めて歩むは自然の道理。漆黒の闇の中と言えど実際光もかすかにあり、ほんの辛うじてだが足元は見える。巨大極まる樹木の肌、その荒い樹皮のその上を、怪しき燐の光が隙間無く覆う…マギス七不思議の一つたる、奇妙の輝きホスホル光。こんな暗い森の中、日輪にすら見捨てられし暗闇を、唯一照らす不可思議の光。しかし酷く青白く幽鬼の如き不隠の光が、時折ふと思い出したかの様に怪しく明滅繰り返しつつ、ぞろり…ぞろりとゆっくり動いて行く様は…あれは光り苔ならで純然たる虫の一種と知った上でも背筋凍りし眺めである。
 あんな恐ろしい明りなら、むしろ真の闇の方がずっとまし…
 まだまだ幼い者が却って寂寥かきたてられるも無理は無い。…それでも泣きも騒ぎもせず。
 いや、出来ず。


 『静寂の』との枕言葉は伊達ならで、酷く広い森ながら獣の影は全く見えず鳥の鳴き声一つも無く。…人と見れば無闇に集る、小さな羽虫の類もまるでおらず。
 それがため、小さな子どもは声も出ず。一言、掟破りに発すれば最後…鬼か何かも魔物にたちまちに、襲われ食われてしまうのではと、本能的に恐怖に震えていたのである。

 あながち、嘘では無い。



 風は無い。どちらかと言えば不気味な程に無風である。それが何とした事か、奇妙に寒さが襲って来る…恐怖故の、錯覚の一つであろう。だが正当の魔法貴族の子弟と言えど、たった十二に何が出来よう何が判ろう?ただでさえ、物質的には全く恵まれた育ちなのだ…急に、暖かな寝床を思い出してしまったのだ。
 そうなると、もう堪らない。
 急に不安が膨れ上る。このままではこんな薄ら寒い固い土地で毛布も無しに野宿する羽目になってしまう!…『野宿』と言う具体的なイメージに、子どもの恐怖がさらに激しく喚起される。
 …真の生命の危機に比べれば、何程の事も無いにも関わらず。
 しかし十二歳の小さな世界の内側では、それは例え様も無い程の恐怖に思えたのだ。小さな身体はがたがたと震え出し…突如として闇雲に走り出す。無論、方角など何も考えず。

 頼りになる唯一の明りが薄ら寒いホスホルの燐光だけと言う中、幾らも行かぬ内に少年の足が何かに取られる。それはもう、見事な位にもんどり打って…身体が冷えた所に凍てついた固い大地、小さな身体をしたたかに打って眼には火花が飛ぶ有様。恐怖の上にこの痛み…
 子どもに身に。この理不尽に対する…怒りがふつふつと沸き上がる。
(こんなの世界で一番酷い事だよ!)
 常には滅多に激せぬ穏やかな性質だったと言うのに、世ほどに激痛響いたか…この世でこれ以上の痛みなど無い!とまで思い込み。自分を転ばせた真犯人、地を這う『ルルラ』の蔓をきっとばかりに睨み付ける。
 彼も、まだ…十二であったから。

 全く、愚かであったのだ。


 『ルルラ』は樹木をきつく巻き込みながら蔓を高く長くずううんと伸ばし…子どもの頭上遥か上空に、花を美しく咲かせていた。そのたおやかな名に相応しき花々…稀少な自然の『天窓』から、陽光が花を労るかの如く優しく差し込み、闇の中に照らしだし…忘れられぬ清らかな眺め…
 吟遊詩人がこぞって謳う、その姿あたかも造化の神が手ずから作り賜うた花綱…フェストゥムの如し、と。細く滑らかな茎からは何処か貴婦人方の衣装の華やぎ、クレープ飾りにも似た葉の数々が。さざ波の形を奇麗に描く複葉が柔らかに枝垂…それはそれはたおやかに美しい。それでいて、この恐ろしき『静寂の森』の呪いにもあえで凛と花を咲かせて見せる、それだけの強さも備えているのだ。
 優しい名に…強靭なる蔓。それにも一つ、理由がある。

 …かつて、悲恋の果てにこの蔓にて命を絶った少女の、清らかなまま旅立ってしまった娘…
 花の季節に散った者、その名を永劫に留めんとして。唯一末期に立ち合った、この麗しき蔓にその名を移したのだ…


 それなのに。
 少年は…子どもは。
 …哀しくも美しい、その花を見上げて睨み付ける。
 ただ、自分の足を取って転がした…それしきの事で。

 あるいはそれ程までに追い詰められていた…



(こんな…花なんて!)
 自分がこんなに不安で痛くて寒い思いをしているのに…平然と咲く花が酷く憎く思えて来た。理不尽な怒りだと、心の何処かが諌めていたが耳貸す余裕など無い。マギス生まれならば誰もが知る、あの哀しき物語に良心ちくりと痛みつつも…小さな小さな子どもの手で、恐ろしく太く重い蔓を、巨大な樹木の幹をぐるりと巻いたルルラの蔓を、無理に掴んで引いて行く。
 幹からすっかり蔓を剥がしてしまって、そうしてあの優しき花すら…地に落とそうと謀ったのだ!

 無論、無謀にも程がある。ルルラの『花綱』、柔らかな曲線を描きながら幹をそろそろと登っているが…たおやかに見えてもやはり蔓は蔓、実際その強靭さから、他国では攻城の用具としても用いられるとも言う程。
 だからこそ、小さな子どもはまるで辺りを構わず無我夢中で蔓と格闘をせねばならなかった…

 額の汗を拭う。もう、すっかり肩で息をしている。それでも全くもって愚かしく、森を逃げ出す算段もせで取り組んだ甲斐あって。蔓は既に二巻き外れている。…賞賛に値する、とは言えないが。
 そうして一息付いたその時。奇妙な音が背後に迫るに気が付いた。

 ざざ…ざざ…何か大きく思い物を引き擦る様な、あるいは。地を這う様な。咄嗟には何の音とも判じが付かず。
 …恐る恐る振り返ると…

 山の様な黒い影が、口からだらだらと涎を垂らしつつ近付いて来る。



 ヴォルムギス…知識の中からその名を拾い出す。だがそれは全くの無益、呼び名が判ってもその化け物が姿を消す訳で無し。
 「巨大な芋虫」…大体学者と言うのは悲しい程に事務的であるから、ヴォルムギスを捕まえて、そんな描写を平気でするが。いや確かに大きな芋虫には違いは無いが。
 大きさが、違い過ぎる!

 何と言っても顎が無体に凄まじい。かっと開いたその口が、全く人間の頭よりさらに大きく、また悪趣味な事に牙がびっしり密に生えている。何処か水晶のナイフを思わせる、きらり透明で鋭い無数の牙…呆れた事に、その一つ一つがサーベルタイガーの犬歯さながらの巨大さで。
 いや口だけでその有様、全身と来たら、もう…
 もぞり。巨大な黒い悪夢が、丁度糸で縛った腸詰めにも似た全身の肉を、ゆるゆる震わせながら。ずざざ、ずざざと迫って来る…

「…!」
 音にもならぬ悲鳴を挙げ、子どもは今度こそ一心不乱で走り出す。


 姿の通り、ヴォルムギスは這って進むより他能が無い。それでも全くもって不運な事に、例の虫は13齢。蛹に変わるその手前、既に人間の背丈よりもまだ大きい。毛虫の類とはまるで違い、蛇の様に凄まじい速さで迫り来る…!
 グルグル、グルグル…背後に聞こえる奇妙な音は、ヴォルムギスの鳴く声で。…実際は呼吸器官を震わせただけの代物だが、逃げる不安の耳にはまさに餌を前にした食欲の声そのものに聞こえてしまう。

 …恐ろしい…

 ただでさえ、13齢虫なのだ!普段は草木好むヴォルムギスと言えど、蛹と変わるその前に、肉を食わねばならぬのだ。殊に脱皮したての虫の荒さは言語に尽くし難く…実際、不用意に足を踏み入れ骨も残さず食された、そんな話は枚挙に暇が無いと来た。
 そんな恐怖の物語の、その一つを思い返してしまったまさにその時。背後に恐ろしい風が吹き付けて、同時に耳のすぐ傍で。キン!と甲高い音を聞く。…とても振り向き確かめる勇気なぞ無い。

 …恐ろしい…!

 間違い無く。それは人肉好む幼虫が、猛然と小さな子どもを食らわんとするヴォルムギスが。目測誤り空を『噛む』、その牙と牙との打ち合う音に相違無い。

 恐ろしい恐ろしい恐ろしい…!!

 だが。
 無情にも…再び足を取られてつまずいた。



 慌てて身を起こそうとするのが。…かの乙女の悲劇担う、ルルラの花を害さんとした天罰か。蔓がぐるり回って罠の様に輪になった、そんな場所に足がすっぽり入ってしまい、どんなに引こうがまるで抜けず。とにもかくにも闇雲に、足をばたばた思い切り、痛みすら覚えつつ力を篭めれば…漸くにして抜けたが。
 もう、巨大な顎はすぐそばに。腰が抜けて起きる事も出来ず…それでも必死で後退ると、背には巨木が当たってどうにも動けず。

 …絶対絶命…

 巨大な虫の荒い息、ふいごの様な音を聞きながら…じり、じりっと迫る音を聞きながら何も考えられず。閾値を遥かに上回る、あまりの恐怖が浸食して、もはや感覚全てがまるで麻痺…
 遠方よりかすかに。大きな羽音が聞こえて来ても、声すら出せずにただただ両眼を見開いたまま…



(…あれ…?)
 気付くと、ヴォルムギスが不思議そうに首を巡らせている。まるで、眼の前の『餌』の事なんぞ忘れたかの如く…そして。羽音の主が姿を現わした。
 ヴォルムギスの子煩悩な親…巨大なる蛾、ブラッカ・ブラッカ。
 …その偉容がために、魔法王国マギスの守護獣とも称される天空の覇者…


 心の麻痺があまりに酷すぎたか、マギスの空の長の姿を認めても、驚きもせでむしろ平静の中。
(ああ…あの凄い羽の音から、ブラッカ・ブラッカって名付けたんだ…)
 確かに全く独特の、一度聞いたら忘れ得ぬ音には違いが無いが。命の火急の最中において、何故にか詰まらぬ事で深く納得。まあ大概、人間と言うのはそんな物ではあるが。
 そうして幾らもしない内、ブラッカ・ブラッカはやにわに上空旋回始め。それはまさしく巨大蛾が、己の纏いし鱗粉を…人畜問わず睡魔に落とす、一名『眠り砂』とも呼ばれる毒の粉を…獲物に向かって撒く仕草。それが確かに判ったのに、少年は静かに安堵した。

 多分、愛息子の餌とするために、自分に鱗粉を吸わせんとしている…でも。
 同じ食われるでも眠ったままなら、苦痛もきっと少ないだろう…と。

 少年は真実幼かったから。掛け値無しの恐怖と絶望の唯中にあっては…そんな事すら情深い希望と思えたのだ。
 そして。聖なる虫の魔力を受け入れようと…そっと瞼を深く閉じた。
 …生き延びようとの努力も忘れて…

進>>


>>「アグライア春夏秋冬」目次に戻る

(C)獅子牙龍児
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送