犬頭獣人 (4)


「族長、こんな場合ですから…よろしいですね?」
 問われて、少し考えて。結局婦人は首を縦に振る。
「勇士殿の武勇に免じて話すが…我ら一族の真名の掟は、軽々しく語れるものでは無いんだぞ」
 陽気な青年にしては随分と念を押して、話しだす。


 キュノケバロイの一族が、赤子の内には名を持たぬのには訳がある。子どもの気質を捕えてから、より相応しい名を選ぶ…と言う合理主義と。
 それと…呪い除け。

 今でこそ、魔術師達は名も知らぬ相手に魔法を望むだけかけるが、遥か古代に於いては真名を知らずして術中にはめる事など不可能であった。真の名前…真名こそ当人その人の身体より、余程魂を支配しており。それを迂闊に知られれば、命さえ失う恐れがあった。だからこそ、昔日には上は王侯貴族下は貧民に至るまで世人皆々殊の外、名を秘して滅多に語らなかった。
 それも今は昔…今この世を濶歩する、種々の魔法の使い手は真名を知らずして、相手を自分の如意にする。さればこそ、誰も真名を隠す事も絶えたのだが。
 実は。真名の神秘は生きている。

 遥か天上の神々の座所、それすら超えた高みの高み、そこに一つの石板がある。ある者には小さくまたある者には大きく見えるその不可思議の板、そこにはおよそ全ての存在の、真の名前が連ねてある。そこには不可視の精霊がいて、常に世界を見渡して新たな名前を刻んでいるのだ。
 魔術師は知らず。実はその操る所の魔法の言語、その文言のまにまに密かに挟みこまれたるは。その精霊呼びだし狙う相手の真名を知る神秘の言葉。ただ己の職務にのみ従うその精霊も、いにしえよりの取り決めにより、その文言にだけは逆らえない。だからこそ、何も知らない魔術師でも、誰かれ構わず魔法の餌食と成せるのだ。…もっとも真の神秘を知らぬがため、折角得た真の名も、呪文唱え切らぬ内に忘れ果ててしまうのだが。

 さて。
 この獣人の一族には、また他の秘密があったのだ。


 かつて、この地が戦火に燃えた時。この森の奥に逃げ込んだ一族がいた。
 争い事を嫌い、静かに暮していたのだが、もはや殺戮の徒となり果てた軍隊は視界の全てを破壊しつくす。森の奥に逃げ込めば闇の魔性に襲われる、だからと言って外に行けば…人の姿のけだものに、何もかも奪われしまう。
 随分と悩んだ末。一族の長は決断した。…自分達を、一時別種の生き物に変えよう。森の魔性にも破戒の徒にも害しえぬ様な、凄まじく生命の強い存在に…
 尋常な民なら到底諾う事などあり得ぬとてつもない世迷事だろうに、生憎この一族、長も民も格別の魔法の才あった。その能を以ってすれば全く不可能とは言い難く…
 また。この一族、かつては五千を超える数の一国の民であったのが。たった一年ばかりの短きに、戦で三千を優に超す民を失ったとあれば。
 とても、誰も。尋常な心ではいられなかったのだ…

 幸い…あるいは悪い事に。当時森の奥にはまだ真正の狼がいた。他国に残る様な、犬より少し大きい程度の獣ではなく、神代の時に遡る、高貴な血筋の生き物が。能く人語を解し治癒の魔法に通じ、不如意に地上を去りし神々になりかわり人の世を見つめ、そして闇の到来にて歪んだ森をあるべき姿に戻すべく、確と治めるを天命とする。ただただ地を這うより能の無い、愚かな人間が軽々しく触れるは許されぬ存在だったが…
 戦は、心を壊す。理性を歪ます。
 長は…平時にはあれ程沈着に民を引きいたあの長は。ただ死ぬよりは…と、恐ろしき儀式を行い。

 そして後悔する。

 …やはり長も民も神ならぬ愚かな人間であったのだ。
 術の発現は誰にも思いの寄らぬ程、凄まじく強く辺りを覆い…数百ばかりいた、不滅の高貴な狼達の命を残らず吸い尽くし。その人には過分の神秘の力、それが全て民へと注ぎ込まれ…
 気付いた時には、かつて人であった者達全て。…獣の姿と変わっていた。

 神々の使いの神秘の獣の絶えた跡には。意に反して天命を全うする事なく世を去る不条理に苦しんだ、狼達の哀しき断末魔…呪詛が。黒い毒の霧の如くに漂うばかり…


 人間どもよ、もがけ苦しめ泣き喚け…お前達、屹度故郷に帰さぬぞ!
 永劫永劫末代まで、この地獄の地にて果つるがよかろうぞ!


「爾来、我々は皆、かつての狼の呪いを受けながら生きている」
 …想像もつかぬ話だった。この雄々しき獣人達のその姿が、古き罪業の報いとは。そして、今もその定めに…苦しめられていたのだとは。
 だが…
「呪いと言えど、結局は真名を縛るものだ。名を持たぬ内は…呪いも意味を成さない」
 赤子は少しの呪いにも耐えられぬから。幾らか力をつけて後、初めて真の名を授ける。
「え…でも!」
 呪いからは逃れたとて、名を持たねば…
「ああ。神々の恩寵もまた、真名を通じて授かるものだ」
 真名と言う符牒を持たぬ者は、悪魔からも神々からも隠されてしまうのだ。

「こいつはとにかく弱かった。この弱さでは、呪いに押し潰されて…この地を離れられないばかりか、『持って行かれる』恐れもあった。ここでは神々の奇蹟よりも魔性の力の方が余程強いからね」
 それに、と若者が続ける。
「名を一旦付けたら…一生この森に縛られ広い世界を見に行く事もできない…」

 キュノケバロイは。
 交易の時でも森を幾らも離れず、食事を進めても座りもせで、立ったままで話し恐ろしく急いで戻って行く…
 戻りが遅れれば。おそらく古き時代の呪詛により、命失う事となるのだろう…


 呻く事もできずに衝撃に耐える少女を見て。若者が幾らか表情を崩す。
「実は他にも理由がある」
「他に?」
「ああ。…俺達の名は、その気質を見て決める。それは知っているだろう?」
「は、はい」
「今、こいつに名を付けるなら…どうだ?」
「…!」
 一転して。若者はにやにや笑っている。

「でも…でも!」
「長は無論、滅多な名は付けたくないと思っている。だけど、名付けにも決まり事があってな、」
「決まり?」
「親は名を自ら考える事は出来ないのさ。周りが言う名の中から、選ぶ事しか出来なくてな」
「え〜!?」
「だから…長がどう頑張ろうと、今名付けるのはマズいのさ」
 少女のみならず…子どもも母親を見上げて驚いている。

「母様…」
 母は無言で息子の白い毛を撫でる。気品のある顔立ちに、今は少し照れの様な色が浮かんでいる。
「まあ、もっとも。…赤子の命の恩人には、名付け親になる資格もあるんだがな」
「え?」
「そうだよ勇士殿。勇士殿にはこいつの名を考えて、付けてやる事もできるが…どうする?」
 にやにやと笑いかけられて。
 酷く困った。

 何せ、今は身体も弱いし繊細な子どもなのだ。あまり大仰に名付ければ名前負けして悩みそうだし、かと言って詰まらぬ名にするのは論外だ。
 名を授ける重みに改めて思いが至り。悩みに悩んだが結局辞退した。
 子どもは随分と残念な様子だったが…


 名残は惜しいがルキアには曲がりなりにも家がある。腐れ親父の顔なんざ一生見たくないが、母の身の方は心配である。暇乞いを告げる段になって…
 改めて。子どもの淡い毛並みが気になった。


「あの…」
「何でしょう、何なりとおっしゃって下さいな」
 おっとり優しく言う族長は、一点の曇りも無く母親である。今は、フランネルに対して疑念も無いが…
「あの、差し出がましいようですが…その子の服、」
 長い長い袖を指す。
「お気持は判りますが、もう少し外気に晒した方が…少しは鍛えないと…」
 少女は皆まで言えなかった。

 長の婦人が…ふらり傾いだのである。

「族長!」
「長!」
 次々獣人達が駆けつけて、婦人が地に伏す事は免れた。子どもの白い顔とはまるで違い、美しい濃い毛で覆われているから…顔色は勿論判らぬが。
 真っ青であるのは間違い無い様子。
「あの…すみません…」
 ルキアも傍まで駆け寄って、優しい人の容態を窺う。
「いいの…いいのよ…」
「わ、私が余計を言ったばかりに…」
「いいの」
 族長は。長い長い息を吐いた。


「私のあの人は…この子の父親はね、素晴しい戦士だったの」
 ルキアも頷く。これ程の婦人の心を射止めたのだ…仁智勇兼ね備えた武者であったに違い無い。
「でもね…この地に恐ろしい兵がやって来たのよ」
「この、獄樹海に!?」
「無論、正攻法では無いわ。奇妙な魔法を用いてやって来たのよ…」
 婦人の顔が、酷く歪められる。その兵、余程の悪行を成したに違い無い。
「彼等はね、私達の秘めた魔力に気付いて。それを奪おうとして…」
「な…」
「あの人の元に必死で駆けつけた時、あの人はもう…」
 嗚咽が混じる…
「それなのに、それなのに…あの人の力を得ようとして。汚らわしい兵達は…」
 気丈な身体がぶるぶると震える。
「あの人の、あの人の銀色の毛をそいで…その上に皮まで剥ごうと…」
「族長さん!」
「駄目なの、思い出してしまうのよ…!」
 まばらにしか、毛の生えずに所々肌が覗ける子どもの腕。それは…
 あまりに無残な想人の最期に似て…


 一同声も無く。ルキアに至っては罪悪感に押し潰されそうで。
 沈黙が重く辺りを覆う。

 …が。不意に意外な声がしじまを破る。
「母様、母様!」
 子どもが、先刻まではごくごく小さな声しか出せずにいた、あの小さな小さな子どもが。
「ぼうや…?」
「母様!ぼくね、きっと頑張る!ぼくね、ぼくね、きっときっちり毛もぼうぼうに生えて見せるよ!」
 …当人は至って真剣なのだが。
 一拍置いて、凄まじい笑いの渦が辺りを取り巻いた。


「ど、どうしたの…!?」
 あまりに一度に笑われて。元々気の弱い幼い子どもは、もう眼に涙を浮かべている。
「いいのよ、ぼうやはとても良い事を言ってくれたの」
「そうだそうだ!お前、絶対何が何でもしっかりモジャモジャ毛ェ生やせ!」
 小犬の様な頭を荒っぽく撫でてやると。
 最初は泣き出しそうだったのが、じきに照れ混じりの笑顔に変わる。


「でも…貴方に名前を貰いたかったです、ぼく」
 名残り惜しげに…白い小さな幼い子ども。
 それでも母親のスカートの陰に隠れず、堂々と言える様になっただけ、大進歩である。
(これなら…その内本当に大化けするかもな)
 今日はとても良い日だった。生涯できっと一番常世に近い思いもしたけれど。
 終わり良ければ全て良し、だ。

「あの…」
 さらに何か言い募ろうとする未来の偉丈夫。もじもじするばかりで、なかなか言葉が出て来ない。
『だって貴女、自分の英雄に声をかけられたら、誰だってそうなるものでしょう?』
 ちょっと、こちらまで照れ臭くなる。
「ん?」
 優しい気分で…何年振りかの、柔らかい声音で。そっと子どもの勇気を後押しする。

 ようよう、決心がついたようだ。

「あの、ぼく、貴方に約束します!『誓約』します!」
「お…おいおい…」
 真名の無い人間は『誓約』だってできないんだぞ…と言ってやるには相手があまりに真剣で。
 周りも驚いたが圧倒されて。
 子どもは今一度、大きく深呼吸して。そして…

「ぼく、絶対絶対、貴方の様な立派な男になって見せます!」

 ……………………………………………男ォ!?!?!?!?


 …名状し難き沈黙…



「あの…?」
 首を傾げる子どもの周りで大人達が恐慌を来す。あのたおやかな中にも芯の強さを窺わせる族長も、あの陽気で頼もしい若者も。だがこの武名高き獣人が、珍しい程に動転しているのも。その因を思えば…
 そりゃこんな姿だけど、ガリガリだけど、伝法の跳ねっ返りだけど!だけど!だけど!!

 情けない。穴があったら入りたい!


 だが。子どもは真実純たる子どもであった…

「あのね、ぼく、貴方みたいな『ブント』になりたいなってずっと思っていたんです」
 ブント。それは…古い言葉で、『まだら模様』を意味する言葉。
 獣の世界では、それは確かに価値ある言葉だが。
 …不幸な事に、下を向いたまま話す彼には周りの状況何一つ見えず…
「模様は生まれつきだから、きっと無理…」
 皆まで言えず口をつぐんで眼を見開いた…
 獲物に襲いかかるラミアの如きの形相で、彼の『英雄』が迫って来る!
「歯ァ、食いしばれェェェ!!!」

 ぐしゃり、と。少々嫌な音がして。
 真っ白な子どもの未発達な鼻が、奇妙な形に押し潰された。


 ぐいっと、フランネルの襟を乱暴に掴む。
 …子どもの純粋は判っている。判ってはいるが、耐え難い事は耐え難いのだ!
 小犬の様な眼を一杯にして。不安に揺れる瞳が痛々しいが…
「お前、そんなに俺に名付けて欲しいンなら…」
 地獄の釜鳴りのよな剣呑声。
「今ここできっちりきりきり付けてやる!いいか、耳かっぽじってよっく聞け!」
 噛みつかんばかりに。歯をぎりぎり言わせて!

「お前の名は今日から『ムミョウ』だ!いいか!俺より強くなるまで、お前の名は『ムミョウ』だからな!」

 ムミョウ。
 それは
 いにしえの言葉で…名前が無い、誰でも無いこと…



 …今日の気分は最悪だ。
 最後の最後にあんな事になるなんて。
 今日の事は全部まとめて忘れてやる!



 …実際、少女は真実忘れ果てていたのだ。
 だから。
 再び『ムミョウ』と出会った時に仰天する羽目になるのだが…それも、ずっと先の別の話。


Fin.


後記:
 お、終わった…(汗)
 40キロ(バイト)になった辺りでは「じゃあ後記は『フルマラソン完走です♪てへっv』で決まりだな(死)」とか余裕カマしておったのですが…

「42キロ所の騒ぎじゃねぇぞゴルア!」

…つー感じ…(遠い眼)

 しかもさあ…どーしてオチをつけるだよ!!(怒)
 鳴呼…アレさえ無きゃさ、「あー、途中ダラダラやったけど、最後だけはエエ話やったなァ〜」ってなモンで平和やったのにのう(号泣)
 しかし、ま。結局アノ結末は端からの決定事項だったので。すんません。


 まあ、長年暖めて来て暖まり過ぎて酸っぱくなって来た事々は全てくまなく書けたので良しとしましょう。
 とりあえず、コレはそのまンま某長編に繋がってしまうので、『少女ルキア』が主人公のシリーズはこれで打ち止めでヤンス。

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(C)獅子牙龍児
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