一章 遭遇 (1)


「酷く永い永い苦しみの時だった…この日を待ちわびていたぞ」
 目前の偉丈夫に少年は眼を丸くする他無い。初めて出会う…それでいて懐かしい低い、声。
 …予兆が無かったと言えば嘘になるが。




 昂は当年とって十五歳、高校生である。これと言って飛び抜けた面は無いものの明るく元気良く、勉学はともかく体技についてはむしろ得手、剣道の腕前は早々に勧誘を受ける程。実際現在は校内の武道館にて毎朝素振りに精を出す毎日だが、彼には一つ、変わり者の一面があった。
 毎朝毎夕、通学路の湖に通う事。

 町の東には小高い山がある。昂の自宅も中学も町の西寄りに位置したため暫く縁も無かったが、小学生の時分には寄り道して山中冒険したものだった。酷く、否、異様に木々の生い茂った場所で昼間も暗く、ぞくぞくするような心地がするのが大好きであったのだ。幼き者にはそれなりの異世界であり、なおかつ恐怖が起これば急ぎ駆け降りて両親の待つ家に帰る事のできる、今風に言えば都合の良いダンジョンであった。
 なかでも昂の一番の気に入りは山頂の湖である。五歳ばかりで県外より越して来たため詳細は不明のもの、山には飽きる程の長い石段あり頂には祠あり、湖には注連縄がぎちりと張られ何やらいわくありげな雰囲気を醸し出している。噂によればここにて神隠しが相次ぎ、また不審な死者も出たとの由。それをまた頑迷に面白みの無い大人連中がやれ湖から有毒ガスが出て幻覚を見せるだの何だの『科学的』かつ『合理的』な説明をでっち上げたが付近で鳥が死ぬ様子も無く、ガスとやらなど皆無であるは火を見るより明らか。いずれにせよ、実際は湖と言うより池と呼ぶが相応しい小さな水溜まりは無粋な大人が知らず施した演出がために言わば無類の秘密の場と化していた。他の生粋の地元っ子が皆恐れて近付かぬため尚更。
 昂の高校は奇しくも山の麓にある。校舎からでも木々の繁りが確かめられる程に近く、行き帰りに寄っても大した時間の損失にはならない…そう踏んで、昂は新たに加わる習慣がため、毎日の早起きを決意したのである。
 諸人同じであろうが楽しみのための苦行は苦行にならず、知人皆々驚く程に昂の早起きは続き、結果先に述べたる剣道部の朝練も少しも休まず通っている。さらには思わぬ副産物、早起きがために早寝をも心した甲斐有ってか授業の居眠りも皆無となり、成績まで下の中から中の上へと親も驚く急成長。順風満帆とはこの事である。
 ふと、あの山頂の祠のせいかと思い付き、帰りにまた彼の山の上に明るい気分で登って見た。

(いつもいつも有難うございます。僕、今幸せです、とっても)
 祠の前にて拍手一つ。格別信心の深いとは言えぬが無みの若者より律儀な昂、常日頃から手を合わすだけは合わしている。とは言え何事か述べるは初めてで、増しては願い事に有らず礼のみとは珍しさもあり照れ臭い。
 再度一礼す。…賽銭入れも鈴も無く簡素と言うよりは寂しげな祠ではあるが、礼を尽くすは気分も良い。ただの神頼みと違い不思議の清々しさが生じる、が。
 ふと一抹の…寂しさとも空しさとも言えぬ空虚な思いが胸をよぎる。…何かが足りない。
(何が、不足だって言うんだろう…?)
 漠たる思いのまま、今一度祠に手を合わす。
(僕に足りないもの…下さい…)
 少しだけ、笑った。願い主にも定かで無いものをねだられては、神様もさぞかし難儀をするだろう、と。

 不意に、風も無いのに注連縄が揺れた。さわさわ…さわさわ…辺りの梢が不思議に騒ぐ。
 何か、奇妙に湖面が煌めき細波立つ。
『昂…』
 何処か遠くから自分を呼ぶ声が聞こえたような…それも、何処か懐かしい…

 不意に我に返る。
「な…」
 無意識に、注連縄に手をかけていた。注連縄…それは聖なる世界と俗世とを厳粛に分かつ標(しるし)。それを、自分は軽々しくも越えようとしていた!
 …現代っ子と言えども。何かとてつもなく恐ろしい様な気がして。一目散にその場を後にした。

 暫くは湖参りを控えよう、取り合えずはそう決めた。
 と言っても。『暫く』がどの程度続くか、自分でも自身が無かったが…




 六月も疾うに半ばを過ぎたと言うのに雨の兆しが少しもない。振り返れば去年も一昨年もその前年も梅雨らしからぬ天気が続いた。町の年長者はひそひそと、若者達は冗談混じりに皆言う。
 町の龍神様は何処へ消えたものやら、と。
 …その時は昂も一緒に笑ったのだが。

 後になって思い出した時には…



 昂はいつも通りに山頂にいた。
 やはり『暫く』の湖参り断ちは大して続かず、それどころかあの吸い込まれる様な恐怖すら月日の中ですっかり忘れ去り、いつしか小休止の前より頻繁に通い詰める様になっていたのだ。
 何故、自分があの場所に引かれるかもまるで考えずに…

 学校帰りで制服鞄もそのままだった。だが午後練がほんの一時間ばかり長引いて、晴天続きの空梅雨の中だと言うのに奇妙な曇り空、夏至間近い日長と言うに既に夕闇…山頂には、常に無い不可思議の空気が漂っていた。
(何だろう…)
 不意に心の臓の拍動が、どくどく激しく鳴るものだから…制服の胸元を無意識に掴む。
 と。まるで昂の動揺見抜いたかの如く…突如辺りが暗くなる。夕刻の薄闇よりまだ闇く、あたかも日蝕の如く…
 はっと上空見上げて見れば、墨流したかのよな雲の内、稲妻幾つも走り抜ける。…遅れて、雷鳴。
(あ…傘、持ってこなかった…)
 否、それは本音では無い。辺りの奇妙の闇さ、不可思議の空気、これは決して雷雨の前兆などではありえない。風が全く凪いでいるのに、辺りの林姦しい。…いつぞやと同じ!
 必死に警鐘ならす理性の呼び声に従って、何とかその場を離れようとした。…が、何故か。身体が動かない。
 と。今度は目前の湖、突如波紋を広げ出す。雨粒遂に降り出したかとも思ったが、波紋は何故か唯一点、湖の中心のみを起点に広がっている。初めは細波程度であったのが、次第に波高く…湖面泡立つ。
 そして。かすかに…呼び声。
『…昂…』
(逃げ…なきゃ…)
 だが、目前の情景よりも…むしろ自分の心の奥底に、あの唯中へ入りたいとの思い膨らむ事に戦慄した。
『昂…昂』
(駄目…だ…!)
 後ろに、と思う足はしかし。意に反して前にゆるゆる進んで行く。
 今はまさに昼と夜とのあわいの刻。…逢魔が時の差し金か…
 夢遊病者の足取りで、右手は遂に注連縄へと。
『…昂…!』
(…!)
 圧力すら持った声。以前から…思い起こせば遥か昔の幼き頃より、境を越えたい思いが在った。その危険な願いを一つの呼び声後押しする。
 注連縄握る右手が震える。行くべきか行かぬべきか…葛藤渦巻く逡巡の時。だが…
『…昂!』
 声。知らぬ筈の声でありながら…何処かで確かに覚えが在る。
(誰…)
 何故、懐かしい…?
『昂!』
(会いたい…)
 不意に膨らんだ思いのまま、矢も盾も無く…無意識のまま注連縄越えていた!

 途端、眼の前に眩しき光の柱生じ…網膜焼く激しさに思わず腕で庇い、暫し間…何事も無い様子に恐る恐る光の消えた世界を見やると…
 人影独り。それも、湖面に確と立つ…


 おおきい…
 突然の出来事に白くなった頭で感じられたはただそれだけであった。格別威圧にも見えぬのに酷く圧倒され一言も発せぬ。それでも相手は辛抱強い性質か、昂の眼が見開いたまま徒にくるくる動くも咎め立てせずじっと不動のままであったから、少しずつその容貌が判じて来た。
 壮年と呼ぶよりは初老に差し掛かった様相。いや、盛りを過ぎたでなく、歳月じっくり層を成し、熟した上にもさらに充実を重ね余人の追従を許さない。
 野趣溢れた、それでいて粗野に陥らぬ優れたる景色。三国志で比すればさしずめ関公、髭も髪も長く深く、大海の如くしずかに波打つ様は齢千年の樹(き)よりなる森の様。ついで蛇足ながら、かの関公とは異なり、純粋に過ぎる様子は窺えぬ。義に生きつつも清濁併せ飲む気質と見える。
 まさしく偉丈夫と称すが相応しい堂々たる体躯。小柄とは言え150には達する昂が、いかに爪先立ちをしようとも肩にも届かぬ、いや幅に至っては倍程も。
 いやいや。これら全て末梢に過ぎぬ。かの漢(おとこ)をかほど偉大たらしめるその因は、全てその眼(まなこ)にあった。

(何で…どうして、そんな眼で…!)
 一度瞳を合わせたが最後、逸らす事叶わず。真摯でありながらさらに不可思議に深い感情と幾つもの想いが昂に向けられていた。もう少々齢を重ねていればその幾許なりとも解する事出来ように、その時昂が感じたはただただ強く射抜かれた心地のみ…


「永い…月日であった」
 深い、樹木よりも海よりももっと深い声が響く。慈愛と峻厳とが二つながら存する声。耳よりももっと奥まで染み通る。
「お前はずっと外側にいた。私の呼びかけは届かなかった。もう何百年も…」
「何…百年も…?」
 男は、深く頷く。
「そうだ。私はお前の名前を探し、永きに渡り呼び続けていたのだ。一時はもう無理かと諦めかけたが…」
 暫し瞑目して、息を大きく吐く。彼の中での、長い歳月を思い返すかの如く。
「だが遂にお前は来た。私の望みは、一族の希望は潰えなかった!」
 ふいに言葉に力が籠り、刮目して昂を見据える。その眼圧に瞬きも出来ず。
「いざ、旅立たん、我らの…」
 力強い腕と共に強い言葉が発せられた。
「昂よ!」
 初めて肉声にて呼ばれた自分の名に不可思議の圧力と目眩を覚えつつ、放心のままその手を取る。後は、全てが白濁して消えた…

進>>


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(C)獅子牙龍児
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