一章 遭遇 (2)


 鳥が鳴いている。巣に帰るのだろうか、心持ち哀切を帯びた鳴き声が慌ただしげに遠ざかって行く。今は何時なのか…
「!」
 がばと飛び起きる。辺りは深い森に覆われ、昂のいる場所のみ不思議に開けて湖がある。だが森も湖もずっと大きく本物らしく、空気の匂いすら異なる。そもそも注連縄が何処にも無い。
 心細さに動かした手が何かに触れる。厚手の、古風に簡素な外套。毛布代わりに掛けられたその布地には覚えがある。あの…自分に強く呼びかけた男の纏いし物。慌てて辺りを見回すが、誰もいない。
 鳥の声も何時の間にか絶えた。

 寂寥が突如として襲う。
「あ…」
 名を呼ぼうとして絶句する。まだ名も知らぬ…
 寒気。身中の奥より震えが走る。ここはどこだろう、今は一体何時だろう…
 半ば条件反射で腕時計を確認すれば、秒針も止まり微動だにせず。はたと気付き身の回りを確認すれば持っていた筈の鞄の類が皆無。明らかに異質な空間の中で、学生服と腕時計の、身支度ばかりがそのままなのが却って孤独の感を新たにした。
 ふと鼻の奥がつんとする。涙がこぼれ落ちそうなのに気付き、慌てて堪える。
「馬鹿昂、男だろ!」
 自分で自分を叱咤してみるが空しい。
 何処へ消えたかあの偉丈夫は…

「待たせたな」
 忘れ得ぬ、声。弾かれた様に顔を上げれば、当の人物がそこにいた。何やら薪だの何だの大荷物を抱え、わざわざ探しに出かけたのだと知れるがそれはそれ、昂の第一声は怒気含みだった。
「どこ行ってたんだよ!」
 精一杯睨みつける。
「いきなり訳の分からない所に連れて来て、しかも置いてけぼり…」
 八つ当たりする内に、視界がぶわっとにじむ。
「この、大馬鹿野郎!」
 叫びと同時に、今度こそ大粒の涙がこぼれ落ちた。が、言われた当人はいっそ楽しげだ。笑いを含んだ眼で昂を観察しながら、そのそばにどかりと腰を降ろす。
「おや?お前は存外泣き虫だな?これはしたり、手巾を余分に持つべきであった」
「うるさい!泣いてなんかいない!」
 叫び返した所で、自分が相手の術中に見事はまった事に気付く。先の、胸の締め付けられるような寂しさは露と消え、心に平静が戻って来た。だが小さな子どもの様に宥められた事、そして何よりこの尋常ならざる状況ゆえ、相手を信頼する気にもなれず。
 息を大きく吐いてから、用心深く尋ねた。
「僕の荷物はどうしたの」
「元のままだ」
「…どういう、事だよ?」
「あのまま、お前の元いた場所に捨て置いた…必要無いからな」
「何だって!」
「お前は暫く旅をする。その旅にお前の世界の物は無用の長物」
「ちょっと待てよ!旅って何!?ここってどこ!?荷物置きっ放しじゃ…」
「盗まれる心配はないぞ」
「じゃなくて!ああ、頭がごちゃごちゃする!」
 いらいらと髪を掻きむしる昂を、静かにじっと見つめる男。
 暫し過ぎ、怒りの発作の過ぎ去った少年が、弱々しく尋ねる。
「あんたは…誰、なんだよ…」

 返答はない。あのまなざしが、一層深く少年に向けられるのみ。
 狂人という語が思い浮かぶが、昂の心の何処かがその考えを強く否定している。確信と言って良い。

 この男は自分に深い関わりが有り絶対の必然により昂をここへ連れ出し、そして昂は今、逃れられない事態に覚悟を決めねばならぬ、と言う…

 常識的に考えれば犯罪に巻き込まれたと表しても過言ではないのに、彼の意に反してその心の奥底は理不尽な程に諦観していた。むしろ昂は、事態そのものよりも自分の心の反逆にこそ動揺していた。
「せめて…名前、だけでも…教えてくれたっていいじゃないか…」
 抑えようもなく言葉が震える。言ってみた所で、昂は返答を強制できる立場にない。
「名前、か。無論、わたしも持ってはいた」
 期待しなかった応えが即座に返り、そしてその言の過去形に気付き首を傾げる。
「持って『いた』?昔は、って事?…じゃあ今は?」
「今のわたしは名無しの宿六に過ぎぬ。真名を封じたゆえ」
「封じた…?」
 重々しい沈黙が流れて行く。

「わたしは、再び名を授からねばならない。また天空を駆けるがために」
「天空…?飛べる、の?」
「ああ」
 昂は眼をぱちくりさせるしかなかったが、眼前の男には実際人外の霊気がある。と同時に最初に出会った時分より幾分老けて見える事に気付いた。
(疲れてる…?)
「そうだ。わたしは力を使い果たした」
「え!?」
 心を見透かすように答えられて驚く。
「お前を探し出し、お前の元に行き、そして連れて来る事は生半ではなかった」
「…そんな事、頼んでない…」
 男の真摯な語りに、抗議の声も小さくなってしまう。
「勝手に…訳の分からない所に連れて来て…」
「そうだな、済まなかった」
 言葉と共に男は地に手を付き、深々と頭を下げた。予期せぬ行動に慌てて止める。
「よ、止してよ、大の大人がみっともない」
「いや、実際謝って済む事ではない。ここはお前の故郷から遥か彼方、如何な手段をもってすれば帰りつけるか見当も付かぬ遠い地だ」
「な…」
 異世界。そんな気はしていたが。
「それに、謝りついでに頼み事がある」
「頼み…?」
 熊を素手で倒せそうなこの男が他人の手を必要とするのか?
「わが一族の主となって欲しい」
「へ?」
「種族を統べる王となって欲しい」
「王!?」
 いよいよ眼が点になる。


「ちょ、ちょっと待ってよ!」
「…何だ?」
「あの…ひょっとして何か勘違いをしてるんじゃ…」
「…お前は自分を王に相応しくない、と思うのか?」
「う、うん…僕、普通の家に生まれたし、何も特別な所はないし…人違い、じゃないかな、って…」
 そこでさらに重要な事実に気付いた。
「それに、あの町…僕の生まれ故郷じゃないし…」
 口にした途端に、また寂しさが襲い来る。いきなりの狼藉で怒ったが、この男に付いて行くのは決して嫌ではなかった。己に欠けた何かが得られる予感がして…同時に異常な状況をさほど慌てずに受け入れてしまった理由の一つに、純然たる非日常への憧れがあったのにも気付いた。
 …『何か』を自分に授けて欲しい。いつぞやの祠の前、確かに願った…

「僕、違うと思う…思います…ごめんなさい…」
 何とも切なく辛い。よそ者ながら神聖な場所に入り浸り、重要な使命を持つこの人物を惑わせたのだと思うと。いや、この偉丈夫と別れねばならないと思うと胸の奥が酷く痛む。
「いや、間違っているのはお前の方だ、お前こそ王となるべき者だ」
 今度はゆっくりと噛んで含めるように。その声が酷く優しく耳に心地よく、一層苦しいが頑固に首を振る。
「僕は普通の人間です…ただ、違う世界に憧れていたから、多分あなたの呼びかけに間違って答えてしまったんです…」
 あの注連縄を越えるとき、不思議な高揚感があった。あれが偽物の感覚だと思うと辛い。自然、首が垂れる。
「昂」
 不意に呼ばれた名前と肩に置かれた力強い手にはっとする。男は何時の間にか昂のすぐ側にいて、一層真摯で慈愛に満ちたまなざしを向けられどきりとする。
「わたしは王を探し、そしてお前の名を知ったのだ。お前は昂だろう?」
 どうしてか、名前を呼ばれる度に不思議な浮遊感がして眼が眩む。
「はい…でも…そんなに珍しい名前じゃ…ありません…」
「それでもお前の名前は昂で、そして呼びかけに答えたのはお前だった。それだけで十分だ。そら!」
 気合いを入れるように、両の肩を強く叩かれる。はっとして、夢遊病のような心地は晴れた。
「まだ疑うと言うなら、もう一つ証拠がある」
 優しく緩んでいた男の顔が再び引き締まる。
「わたしの、名だ」
「名前…?」
「封じたと言ったが、むしろ奪われたと言うが正しい。わたしに再び真名を授け、我が膂力を解放できるは王以外にあり得ぬ」
「僕には…そんな事…」
「できる、お前になら」
「でも僕…!」
「昂!」
 鋭い呼びかけに射抜かれた如く動けずいる内にぐいと引き寄せられる。男の、黒とも茶ともつかぬ深い瞳がすぐ前にある。
「あ…」
「我が真名を唱えよ…昂!」
 強い意志、瞳から瞳に。何か不可視の力を発揮して、昂の戸惑いを手荒に押し流し。
(何…?)
 虚空に浮かぶ心地。その中で、一つの語が膨れ上り、理性の検閲を待たずに溢れ出す。

「金剛…」


 自分の台詞を解するより早く、景色は一変、大激変。
 あの湖での事件よりさらに眩しく恐ろしく、凄まじき光が噴き荒れる。網膜が焼かれる痛みにもどうしてか瞼は閉じられず、悲鳴を上げようにも舌も凍り、閃光が間断無く襲い掛かり全身に刺す様な激痛が広がる。男の身体は際限無く高く大きくなり行き、いつしか衣服は輝く鱗に変わり四肢には鋭い爪が生え顎は長く逞しく眼光いよいよ爛爛…
 白光眼を焼く空間に、高く浮かび大きく身体を伸ばせば、既に人の姿ではない。
(龍…龍神様だ…!)
 金色(こんじき)に輝く、優れたる龍。宝玉の赤い輝きを放つ瞳が辺りをねめ回し、大きく裂けながらも泰山の如き重きを偲ばせる頤(おとがい)を天地食らわんばかり広げて鋭い咆哮を放つ。その猛々しい様子、決して怒りに因らず歓喜のためと辛うじて知れるが、昂の震えは止まらない。
 光いよいよ激しく。金色(こんじき)の龍の身体から放たれるその眩しさは、少年の幼さの残る身体には到底受け止め得なかった。

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(C)獅子牙龍児
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