八章 水霊 (6)


 …ふわりふわり、たゆたう心地が夢の様。全ての不快、さらりと消えて。
 身を包む空気も不思議と柔らかな…

 そんな穏やかな覚醒が訪れた。


「あ…」
 恐る恐る眼を開ける。長く閉じた瞳には、黄昏の淡い光すら眩しく眼を細める。
 それでも何とか、葦か何かで編まれたらしい柔らかな小船に寝かされている事だけは判じがついた。
 そして。耳に届くさんざめく声…
「まあ!当代様!」
「お目覚めですわ!」
 メロウの侍女達、悪戯好きの水の乙女達。
「こら!お前ら騒ぐな!まだ本調子じゃねえんだぞ!」
 …これは考えるまでも無く、炎の眷族ラジャスの声。
「お前こそ、声がどうにも騒がしいぞ?小犬の如くに吠えるは止せ」
「こ…小犬だあ〜!?」
 くす…昂は笑み浮かべる。

 身を貫かれし金剛に、鱗溶かしたる火蜥蜴ラジャス。
 両者ともに元通りの様だ…
 だが。
 あの瀕死の有様だった、メロウが長…メリジェーヌは?

「メ…!」
 跳ね起き様として、ぐらり目眩に倒れるが。
 さっ…と。その身を支える腕がある。

「まあいけませんわ昂様。大事の御身体ですのに…」
「え…?」

 青鈍(あおにび)色の不揃いならで、翡翠を名人細工したよな見事な鱗。それがさながら夜会服、しなやかにメロウが長の肌覆い…その鱗、顔の頬まで及んでいるがそれすら不思議の化粧にも見え。
 身のここ其処より生える鰭、毒魚の如き尖る様は変わらぬが…これもまた、艶やかに七色に輝きどんな宝珠にもまさって華添える。
 手の指に、鉤の爪…しかし色艶全く見違える、これも宝石職人が匠の技かと見まがう程に麗しく…

「あの…メリジェーヌ…なの?」
「ええ」
 翡翠の美女が絶世の笑み。
「勿体無くも当代様が使役と下りました…メロウが長にございます」
 たおやかに頭(こうべ)垂れる様…昂はただただ呆然と眺めていた。


「当代様?どうされまして?」
「だって…あんまり奇麗になって…」
 ぼんやり言いかける昂、失言に気付いてたちまち真っ赤。
「あのご免なさい!そうじゃ無くって…」
「ふふ」
 しどろもどろの少年をいささか楽しむ風で笑ってみせ。
 だがしかし、また再び真顔となる。
「判っております、貴方様の端女(はしため)は、ようく存じておりますの」
「え…?」
「だって」
 不意にメロウ、余裕の色をぱらりと捨てた。

「わたくしの…あんな姿を眼にされても。わたくしの醜い手に触れて下さった…」
「そんな!」

「そんな、だって!何処が醜いって言うの!メリジェーヌの一生懸命の姿だよ、それを…」
「ええ、ええ…当代様のそのお言葉、メロウの身には何よりの果報にございます…」
 ぽたり…ぽたり…翠の瞳の眼(まなこ)より、清らかな涙こぼれ落ち。
 全て。メロウが住処の湖の中に紛れると見えた…
 が。

 メロウが長姫手を伸ばし。ひらり水より掬い上げれば…これは如何に。
 たおやかな白い手の平に、きらり輝く無数の真珠…

「癒しの真珠と申します、どうかお納め下さいませ」
「メリジェーヌ…」
「どうかそんな顔はなさらずに…」
 少し困った様な、恥じらう様な…何処か少女めいた表情にて。
 そっとメロウ、贈り物をば昂の手の中へと潜り込ませる…

「だって」
 今度は辛そうに眉寄せて。メロウが長は昂の首元ついい…と突つく。
 それは昂も見覚えある、水底の貝が抱えていた真珠…何時の間にやら細い鎖、真珠を昂の首より吊している。
「こちらの如意の水珠、わたくし自ら確かめて、手ずから渡せばと…今も悔やまれてなりませんの」
「そんな、だって僕もう平気だよ?」
「いえ」
 きっと、こればかりは譲れぬとばかり。翠の細き眉、きりきり上がる。
「どうか御忘れ無き様…昂様はまだお若くていらっしゃる、斯様に鱗気御発現、度々では…お身体に悪うございますのよ?」
「そんな事…」
 常々言われる事ではあるが、やはり昂に自覚乏しい。
 確かに精一杯、皆の救われる事を望みはしたが。だからと言って…

「だって昂様、あんまり尊き御気を過分に頂戴しましたから…わたくし力が余って余って、蜘蛛を両方仕留めてしまいましたわ!」
「えええ!?」


「メリジェーヌが…一人で…?」
「まあ酷い!昂様ったらいじわるでいらっしゃる…わたくしの様な端女(はしため)に、そのよな才なぞ無いとおっしゃるの…?」
「あの…そうじゃ無くて」
 どうやら調子を取り戻したらしい…大袈裟に拗ねてみせる翠の美女に苦笑しつつ。それでも生真面目に答えを言う。
「だってメリジェーヌ、戦いなんて好きそうじゃ無いのに…」
 くすり、メロウの長は笑み浮かべる。

「あらあらまあまあ当代様、きっとそうね間違い無くて?水の眷族柔(やわ)の一族、ただ流れるだけの水を扱う女性(にょしょう)なぞ、弱くて弱くて話にならぬ…そう思っておいででしょう?」
「え…と…」
 くすくすくす、弱り顔の昂を見て、翠の美女は楽しそうに笑っている。
「ふふ…よろしいですのよ昂様。でも」
 笑みに不意に神秘が加わる。
「こんな一介の端女(はしため)にも、出来ます事がございますの…」
「え…?」

 水の乙女の翠の腕、ひらり動けばその手の平に。ぷるり、水の球が出現する。
 まるで見えぬ器に納めた如く、形保つも不思議の様…昂驚きの眼(まなこ)にて見つめるばかり。
 そんな主の様にふわり笑み、翠の美女は手品師よろしく勿体ぶって、球に向かって何やら仕草…
 と。
 …瞬時に水が凍り付く。
「あ…!」
 さらに驚く少年に茶目な微笑をそっと贈り、美女はついいと麗しの爪、軽く氷の球を弾くと見えた…

 ぱきり、ぴしり、ぱりり…

 砂の様に細かな氷の欠片達、黄昏の光を受けてきらきら輝きながら。
 昂の眼の前湖水の中へと散って行く…

「…弱き水、女の身にも出来る事はございますの」

 昂、深く頷く。
 あの恐ろしい蜘蛛が…メリジェーヌの渾身の術にて砕かれる様がありありと脳裏に浮かび上がる。


「ありがとう…」
「いえ、いえ!当代様の御命令とあらば是非も無い事ですのよ?皆を救えとおっしゃるのですもの、わたくし真実働きまして…」
「おいおい、お前ばかりの手柄にするな!」
 笑いながら金剛の声。見れば、蜘蛛に害された場所に水草の類を包帯代わりに巻いてはいるものの、足取り声もしっかりと、偉丈夫らしき覇気が頼もしい…メロウの治癒の技ゆえだろう。
「ええ、本当に昂様…金剛様も獅子奮迅、わたくしが凍る檻に閉じ込めました、あのにっくき蜘蛛ばらをば…金剛様が見事砕いて討ち取られて」
「うわあ…!」

「おい待てよ!それこそ不公平じゃねえか!毛玉が二度と暴れねえ様にオレがまとめて焼き尽くしたってのによ…全く無視たあいい度胸だぜ!」
 不満たらたら火蜥蜴の声。苦笑しながらそちらの方へと顔向ければ…


 赤き赤き見事な体躯に素晴しき翼。
 朦朧としたあの時分にも不思議の翼は惚れ惚れする程見事であったが…それをさらに越え。
 水に焼かれた、あの酷い傷など何処にも無く。
 火蜥蜴と言うにはあまりに強靭、威厳すら帯びた火霊の長が其処にいる…

「ラ…ジャ…ス…?」
「ああ!」
 ニヤリ、笑みが返される。


「判るか?これだってよ、お前が誓約した時の…物凄い鱗気の余波食らった、その御陰だぜ?」
「僕…の?」
「そうさ」

「それに…」
 不意にラジャスが真顔になる。
「オレ自身が望んだからな」
「ラジャスが…?」

「お前を…護りたいって、な」
「…ラジャス!」


「へへっ!」
 照れた様に首を逸らす。そんな仕草をして見ればやはり子どもの面影ある。
「その、つまりさ!お前のためだったらオレ達もよ、幾らだって強くなれる…そう言う事さ!」
「ラジャス…」
「だからよ、要するに…」
 口ごもりながらさらに言葉を綴ろうとするのだが。

「昂様が当代様で、わたくし真実嬉しくて!」
「そうだ、いい加減に王としての自覚を持て!」
「そうですわ、何時までもこんな火蜥蜴なんぞに言わせ放題ではいけませんわ!」
「全く至極だ、上に立つ者らしく堂々と態度を保つのだ!」
 メロウと偉丈夫、示し合わせての如くの畳みかけ、ラジャスふるふると肩震わせる…
「この…おい昂!こんな奴なんざうっちゃってよ、さっさと先行くぜ!」
「え、あの…ラジャス…」
 まずは行動の若さの火蜥蜴、驚く主も構わず翼広げて葦の小船へ…

 と。
 飛翔の風切り音がぱたりと跡絶え。
 そして…


「…なんで…」
 ラジャスは先刻以上に肩ぶるぶる。
「どうしてだよ…ちくしょう…」
 悔しさあまって泣き喚く…きんきんと甲高い、子どもの声で。
「どうしてもこうしてもあるまい、先刻の姿は仮のもの、お前の真の姿に戻ったまで」
「うう…」
「まあまだ嘆いているなんて!今し方の様子なぞ、お前には過ぎた武者姿、今の小さな子蜥蜴のなりこそ余程似合っているので無くて?」
「もう、そんなに言わないでよ」
 苦笑しながら手の中の、くたり伏せているラジャスを撫でてやる…当人は不本意だろうが、昂にして見ればこんな姿も全くらしくて実際好きなのだ。
「ね?…ほら、ラジャスも元気出して」
「ちくしょう…ババアの若作りはボロが出ないってのによ…」
「ま〜あ!」
 メロウ達が大袈裟に、小さな子蜥蜴の無礼を咎めだて。

「ふふ…まあ子どもはしようの無いこと…でもねえ、お前は随分と、女を見る眼も無い様ね」
「…何だと!?」
 ぺしゃり、へたり込んだ姿勢一転、尻尾を立ててぎりりとメロウを睨み付け。
 …もっとも、本当に小さな小さな子蜥蜴だから…昂は笑いを堪えるのに一苦労。
「わたくしの今の姿…これを若作りとは心外よ、だって」
 メロウが長、艶やかなる笑み。
「わたくし…今は全く若いのですもの」
「…はああ!?」

「わたくし本当に若返りましたの…昂様の御力で」
「え…」


 ころころと鈴転がすよな笑い声。だがしかし、そんな蠱惑の様にも真摯の思い見え隠れ。
「昂様、本当に…貴方様の御力はいにしえの方々にも優る程の御発現ですの。さればこそ、取るに足らぬわたくしにも、あのよな怪異倒すが出来ましたの」
 ふわり、静かに昂の方へと屈みながら…真心の笑み浮かべ。
「老いさらばえた端女(はしため)に真の若さを再びお授けに、そして寸足らずの者には勇なる姿を…」
「誰が寸足らずだ!!」
 くすくすと、小さななりで威嚇の構えの子蜥蜴笑いつつ。
 切ない程の真直ぐな瞳を向けて来る…

「ですから。どうか御忘れ無きよう…当代様は、我ら鱗の民に過ぎたる程の王でおわすのです…」
「メリジェーヌ…」


「だからこそ、御無理は禁物ですのよ?どうか、このメロウが休息の館にて暫しお身体休めて下さいまし」
「え…でも…」
「良いのだぞ、昂」
「え!」
「お前は既に定めの試練を三つも果たしたのだ。今は急ぐ事も無い…水気の相持つお前には、この場にまさる安息の地はあるまいぞ?」
「え…本当に…」
「よっし!そう言う事なら!」
 再びラジャスがすくっと立つ。


「いいか昂!このラジャスがずっと付いてるからよ、安心して眠ってろよ!」
「え?え?」
「だからよ、メロウどもが寝てるお前に悪さなんか出来ない様にオレがしっかり眼、光らせとくからよ!」
「あの、ラジャス…?」
 子蜥蜴は冗談で無く本気の顔で言っている。

「ま〜あ!」
「なんて言い草あの蜥蜴!」
 たちまちメロウ達、当然の事ながら騒ぎ出す。
「酷くてよ、まるでメロウを悪し様に!」
「なんて事、不調法も過ぎるので無くて?」
 ひそひそと、火蜥蜴見ながら顔寄せ合い。
「ここは一つ、ちょっとばかり意趣返し…と言うのはどうかしら?」
「え、なあに?…あらまあそんなこと!」
「それは素敵、面白くてよ楽しくてよ」
「な…何だよ!」
 流石に多勢に無勢に気が付いて。小さな子蜥蜴じりじり後退。
「ふふふ…」
「うふふふ…」
「お…おい…」

「さあ!これでも浴びておしまいなさい!」
 メロウ達一斉に、湖水をかける仕草をして。
 ラジャス堪らずきゃっとばかり、頭を抱えて丸くなる…
 が。いっかな、何も起こらない。

「ラジャス…ほら、平気だよ?」
 昂の声にそろそろと、身を起こして辺りを見渡せば。
 あのメロウの乙女達、打って変わって神妙の顔、皆誠意を込めて火蜥蜴見つめている。


「そんなこと、出来る筈も無いでしょう…?」
「へ?」
「だってあの時お前だけ、龍王様と長姫様の御身がため…」
「本当に、命をかけてあんなに必死」
「火霊の身には湖水に勝る毒など無しと知っていて」
「それすら厭わず身を尽くした…」
「そんなお前に、またしても」
「水の深手を負わせるなぞ…」

「其処まで不人情だと思っていて?」

 七人の乙女達、翠の瞳に真摯の感謝を残らず浮かべて。
 いまだ眼をぱちくりさせている…小さな小さな火蜥蜴に。
 たゆやかに礼贈る…

「い、いやその…オレは…夢中だったしよ…」
 しどろもどろ、先刻の威張り振りは何処へやら、すっかりうつむきもじもじと。
 そんな様子に小さく笑い…
「やっぱり…ラジャスって子どもかも」
「はあ!?な、何でそうなるんだよ!!」
 じたばたばた、昂の言葉に地団太踏む、その小さな小さな憤慨の姿に。
 朗らかな笑い一同満たす…



「ま、とにかくさ…寝てろよ昂。オレも旦那もメロウの奴らもいる…安心して休めよ」
「うん…」
 ゆっくりと、葦の小船に横になれば湖面を走る風が心地良い。
 黄昏に輝く湖が黄金色に輝いて。
 久方振りに安らいだ気分で…昂は瞼をそっと閉じた。

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(C)獅子牙龍児
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