八章 水霊 (5)


 苦しい…そして酷く暗い。
 身体は鉛の様に重く、何処もまるで動かせない。
 おまけに酷く寒い。

(凍える…よ…)

 自分が何処にいるかも判らない。


 メロウの水珠は確かに見つけた、だがそこには罠が仕掛けられていた。
 『お前は王とは言えまだ幼龍』…全くその通りだ。

(僕…し…ぬ……の…?)

 そんな…!

(こわい…よ…)

 おまけに、悔しい。

 かつてのサラマンドラの長を犠牲にしてまで得た命なのに。
 龍族全てを救いたいのに。
 そして金剛を…

(僕…僕…)

 生きたいと、心の底から強く願う。
 必死で、暗き闇を浮上しようとする…

「昂ーッ!!」
(…!)

 昂を引き上げる様に。
 真摯な叫びが聞こえて来る。

(ラ…ジャス…?)



 弱りしと言えどもやはり魔獣、迫り来るサラマンドラに気付きて毒放つ。一撃、二撃…しかしラジャス素早く身をかわしかわし魔獣の懐へと、昂の元へと。
 その昂の瞼が漸くにして、わずかに開いて行く…
「昂!」
 喜色のラジャスが瞬時そちらへ気を取られた。

 ブシャアアアアアア!!!

「ぐッ…!!」
 汚れの毒液、炎の化身に!
「ラ…ジャ…スッ!!」
 じゅうじゅうと肉の焼けるよな不快な音。いや焼けるのでは無い、炎熱の火蜥蜴の身体が毒に侵され溶かされているのだ…!
「あ…そん…な…」
「…へ…っ!」
 どろどろと、鱗も何も剥がれて行く…それでも辛くも毒逃れた、紅の翼にて昂の元へと懸命に!
「これ…ぐらい…どうって…」
「だ…め…だよッ!」
 身動きもままならぬ消耗の中、昂が懸命に叫ぶ。
「君の…身体…」
「喋んなッ…て!」
 言う間にも肉の一部がずるり取れて水の中、まるで酸に落ちた石灰の如くに溶けて行く…
「ラジャス…」
「昂…剣…だ…ぜッ!!」
 苦痛の無理に隠して笑み浮かべて。
 ラジャス、龍王の剣を拘束の中の手に触れさせる…!

 光が。
 瞬時、全てを覆い尽くした。



「ラジャス…無理…しないで…」
「そりゃこっちの台詞だろ!」
 …剣を通して発現した、昂の鱗気の輝きに。不浄の魔獣の触手すらわずかに緩み、その隙に満身創痍のラジャス魔獣の毒に触れるも構わずもぎ取る様にして主を奪い返したのだ。辛くも救出されし昂、今や灼熱の獣の背に在った。
「だから!オレの事なんざ構うなよ!お前、自分が死にそうだっての判ってんのかよ!」
「だって…」
 剣こそ落とさず握り締めているが、昂は飛翔するラジャスの背で己の姿勢を保つ事すらまるで不可能。火蜥蜴の頭上の冠に、もたれかかる様にして倒れている。己の現状すら、どの程度判っているやも怪しい様子。
 だと言うのに。半ば無意識で…癒しの鱗気を発しているのだ。
「とにかく止めろって!オレはこれ位…」
 ラジャスの台詞は別な叫びに引き裂かれた。

 キャアアアアアア………!!

「…な!!」
 あの凄まじい奮闘を見せたメロウの長が。
 世界の終わりの様な悲鳴を挙げながら…水の中に落ちて行く…

 亡者玉を固く戒めていた筈の大蛇の如きメロウの胴が。
 魔獣によって無残に千切れていたのだ。

「あ…あ…」
「畜生!クソババアが!!」
 いまだ状況も確と判らぬまま、茫然自失の昂乗せ。ラジャス瀕死の水霊の元へと…
「死ぬんじゃねえよ…お前、昂の使役になるんだろッ!!」
「え…」
「メロウなんだよ…あの皺くちゃババア、若作りしてたメロウの長なんだぜッ!!あの化け物のためによ、わざわざ本性現わしたんだぜ…!」

「…そんな!」

 だが、絶望を覚えるには尚早過ぎたのだ。



 ぬ…音も無く近付く気配がある。
「…!」
 辛くもラジャス察知して、かわしはしたが亡者玉の攻撃である。思わず振り向いた昂も驚愕に言葉も出ない…

 メロウ決死の拘束逃れた魔獣がさらなる変化を遂げ。
 おぞましい事に…今や毛むくじゃらな巨大な脚を幾つも振りかざし。
 その姿はまるで…

「蜘蛛が…二匹…かよッ!」
 吐き捨てる様なラジャスの言葉に、不吉な脚のその奥で、三つの眼球嘲笑した。


「おのれ…」
 既に蜘蛛との死闘に吐く息も荒い豪傑にも。湖の異変は見て取れた。
「ならばますます…」
 この面前の蜘蛛だけでも始末を付けねばと、愛剣構え直せし時だった。

「…ッ!!」
 激しき音、遅れて激痛。
 メロウ達の恐慌の叫び。
 …そして。
「金剛ーッ!!!」
 少年の声の悲愴な叫び。

 …蜘蛛の恐るべきその脚が、なんと。
 龍の勇士を貫いたのである…!


「金剛!金剛しっかりして!!」
 人身にとりては絶対絶命、それでも流石は百戦錬磨、呻き声を上げつつ脚を抱えて反撃の機会窺う様が見て取れる。それでも昂の動揺、とてもでは無いが収まらない。
「馬鹿、落ちるって…」
 シュン…風切る音に咄嗟に上昇。見下ろせばやはり例の亡者玉が変じた毛蜘蛛、ほんの先刻まで龍の主従おりし場に汚らわしき脚薙いでいた…紙一重の脱出である。
「畜生!ババアの踏ん張りも伊達じゃ無かったって訳か…ああなっちまった途端に元気になりやがってよ…」
「金剛…メロウ…!」

 たとえ龍王の称号持つ身とて…少年の眼には耐え切れぬ涙浮かぶ…
 だがその顔さらに蒼白となる。

「ラジャス…あの蜘蛛は…」
「ああ、お前が危なくなってからよ…どう言う訳だが示し合ったみてえにやって来たのさ!」
「示し…合う…」
「何だ、どうした昂?」
 ラジャスが慌てて振り返る…

「うっ…ぐッ!」
 豪傑の苦悶、突如激しく!
 人身と言えども龍の英傑、その漲る鱗気が…
 化け蜘蛛に吸い上げられて行く!
「何だと!あの蜘蛛まで…」
 罵倒せんとした口が驚きに開く。

 金剛襲いし巨大蜘蛛、その身くまなく覆いたる…奇怪な剛毛が。
 次々その身を離れて川の中、そのまま…
 …湖の、あの亡者玉の変化蜘蛛へと…!

 変化の蜘蛛、龍王昂に加えて豪傑が鱗気を受け取って。
 いよいよ激しく禍々しく…巨体を増して嗤っている!

「まさか…どっちの蜘蛛…も!」
「!…そうか!」
 ラジャスも同じく合点する。
「あいつら…元は一つの化け物って訳だぜ!」



 かたかた、かたかた…ラジャスの背の昂がすっかり震えている。
 無理も無い、王と告げられてから間も無いのだ、こんな恐ろしき事に遭遇しては…そう早合点しかけたラジャスだったが。

 ずるり、少年の身体が落ちかける。

「おい!昂!?」
「あ…だ、だいじょうぶ…」
 声が酷く弱々しい。

 そうだ、水底で口にした水珠にはあの魔獣の毒が塗られていて。そして昂自身があの汚らわしき腕の虜となってその命すら吸い上げられていたのである。その身に無体に染みこんだ毒の深さはどれ程か…
(早く…治さなねえと…)
 水霊、剣士ばかりで無く。龍王その人の命すら今や風前の灯火。
 龍王の剣ならば…と思っていたのだが。その使い手の命危うき今…
(畜生!こんな時、金剛の旦那だったら…)
 あの老練な豪傑であれば。何がしかの策が立てられるだろうか…ちらり、その様相を見る。
 苦悶の表情、生きてはいる。しかし物言える状態とは言えず、ましてや逃れる事なぞ全く不可能。
 背の上の若き龍王、以前にも増して吐く息に苦しさが混じる。そう、この昂の毒を抜かぬ事には…

 自分は?駄目だ。今の昂にラジャスの炎は苛烈過ぎる。
 ならば…
 治癒の名手揃いの一族統べる、メロウの長ならば…?

(くそったれ…!)
 瞬時よぎったラジャスの思案、金剛ならば怒髪天突く勢いにて止めるだろう。昂の身すら危うくなると。
(けど…それ以外、何があるってんだよ!!)
 さらにぐたりと力無く、最早声すら発せず震えている…昂。
(畜生…畜生…畜生ォッ!)

「おい昂!剣、絶対落とすんじゃねえぞ!」
「え…?」
「まずはババアからだ!あいつを…お前の使役にしに行くぜ!」
「メロウの…人を…」
「お前の使役になりゃあよ、皺くちゃババアだってちったあ持ち直す!奴の治癒の魔力はべらぼうだからよ…お前の毒も金剛の旦那も何とかなるかも知れねえ…」
「え!」
「だけどよ、」
 振り向くラジャス、紅の冠頂く顔が苦渋の様。

「その前に…お前が危なくなるかも知れねえ…」

「…!」
 少年大きく息を飲む。その顔さらに増して青くなる。
 それでも。
 昂は確と頷いた…

「…よし!行くぜ!」

 紅蓮の翼、ばさり一層羽撃いた。



「掴まってろよ…!」
 まだ、火蜥蜴の身はあちこち傷がある。それでも構わず急降下、瀕死のメロウの長の元へ…
「…!!」
 させじとばかり毛玉蜘蛛、毒液鋭く吹き付ける…何とか避けたが近付けない。
「この!ちょっとでも奴がひるめば…」

 台詞終わるか終わらぬか。またしても眩しき突然の閃光…!!
 昂が再び剣を通して力を発揮させたのである。


「…はあっ、はあっ…!」
「馬鹿野郎…ッ」
 一瞬の鱗気の発動で蜘蛛形に変じた亡者玉は幾らか退き、ラジャスに至っては身の傷全て癒える所か翼にも活力増していた。
「おね…がい…はや、く……」
 メロウの長はまだかすかに痙攣を繰り返している。落ちた場所が慣れ親しんだ古き住処の湖水であるのはまだしもである。
 それでも。千切れた胴からどくどくと、蒼の体液流れ出す…

 如何に治癒に優れたる種族と言えど、血潮欠いてはどうにもならず。

「いそ…いで……」
 火蜥蜴の背にもたれたまま、顔すら上げられぬ死の瀬戸際。そんな昂にまたしても…火霊山での記憶が胸を刺す。
(けど…お前しか、いねえんだ…!)
 背に乗る者の苦痛を思い、知らず涙すらにじませながら。ラジャス能(あた)う限りの速さでもて、湖中に沈み行くメロウの元へ…
「おいお前ら!長の真名を言え!」
 慌てふためくメロウの侍女達にラジャス鋭く問うたのだが、しかし水の乙女の大恐慌とても治まるもので無し。各々に金切り声あげ泣き喚き、まるで話にならぬ様。
「てめっ…!長と昂と旦那の命の瀬戸際だぞ!!答えろよ!!」
 真名が無ければ誓約の儀も成らぬ、焦燥火蜥蜴の身をも焼く。
 だと、言うのに…!
「ラジャス…」
 苦しい息の合間を縫って、昂の細い声がした。

「ど、どうした昂!?」
 慌てて振り向けば毒に蝕まれし身を辛くも起こし、指で前を差し示している。その先辿れば…瀕死のメロウ。
「声…聞いて…」
「声!?」
 そんなまさかと思ったのだが。血も減じて意識も無い筈のメロウが長の腕、すううと昂の元へと伸びて行く。
「昂…様…」
 死に行く老いを思わせる、酷くかすれたしゃがれ声。
「メロウ…!」
「我が…真名は…」
 鈴振る声は今何処(いずこ)、いやさかばかりで無く…
「そんな…お前、喋れる状態じゃ…」
 驚愕のラジャスの前、メロウ懸命に言葉綴る。
「メリジェーヌ…それが当代様の…端女(はしため)の名…」
「メリ…ジェーヌ…!」

 懸命に、懸命に。昂も必死で手を…
 恐ろしき青鈍(あおにび)色の鱗の肌、それも半ば剥がされ蒼の体液どろりと流し。さらには手の先鉤の爪、毒蛇の如き形相の者が差し伸べる様は悪夢にも似た姿であったが。
「あと…すこ、し…ッ!」
 昂はそんな些末なぞまるで頓着しなかった。
 ただひたすら、皆を助けるがため…苦痛の身を押し手を差し伸べる…

 それが龍王としての覚悟の程。

 だからラジャスも最早迷わなかった。


 ジュウウウウウウ…!
「ラジャス!!」
 昂の悲鳴!そう、使役の儀式がため、両者近付けるがため…火蜥蜴敢えて湖中へと身を躍らせたのだ。
「駄目!君の身体…溶けてるよッ!!」
「黙ってろ!」
 男の声で怒鳴る…幼蜥蜴。
「駄目って言うならッ…はや、くッ!!」
「ラジャス…」
 全身焼かれる激痛耐えて、火蜥蜴治癒の技持つメロウの元へ。
 その意気鱗の長も心得て。死力尽くして腕引き寄せ、昂の手を…己の額に…
「我が龍王…昂の名の下…我が身我が命…尽きる、まで…」
 剣がポウウと輝き始める。
「如何なる…時…も…我が命に……従い…」
 途切れ途切れ、定めの文言告げるも辛い苦痛の龍王。恐らく腕を保つもやっとの事、その震える手を同じく瀕死のメロウ忠義で支える…そしてラジャスもまた。
「恒久の…忠誠……」
「昂…!!」
 息がさらに荒い!水の火傷の痛みも忘れてラジャス昂の身を案ず。
「お前…くそっ、後少しだ…ッ」
 こんな状態の少年が、誓約の衝撃に耐えられるのか?如何にメロウと響き合う、水気の相持つ龍王と言えど…
 だが、昂は若くとも龍王だった。

 額にびっしり玉の汗、それでも懇親の力にて身を起こし、大蛇姿の…人が見れば醜いと誹る、その本性の容貌に。少しも厭わず眼を向けて。
「誓う…べし……」


「汝……メリジェーヌ!!」


 誓約の光。
 眩しさに泣き騒ぐ侍女達すらぴたり黙り。
 輝きの中の聖なる沈黙の中…

「メリジェーヌ…」
「昂!しっかりしろよ!!」
 泣きそうなラジャスの声も遠い中。それでも憑かれた様に命令を。
「どうか…皆を……救って…」
「…心得ておりますわ!」
 先刻と打って変わって生き生きと。麗しい声が頼もしく答える。
 それが、限界だった。

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(C)獅子牙龍児
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