治癒の魔法 (1)


 幼い少女が走っていた。

 髪の色は金、明るく艶もあって手入れを施せばさぞや美人に見えるだろうが、如何な事情かざんばらばらばら顔の横で暴れるままのみだれ髪。いや、この少女とて常には可愛いお下げに編んでいたのだ…
 ならば何故?

 …髪に隠れた頬の上、真っ赤に酷く腫れている。
 打たれた痕を隠していたのだ。


「…うっ…」
 少女は涙のこぼれ落ちそうになるのを必死に堪えていた。
 一応は冷やしたものの、頬はまだまだズキズキ痛む。勝ち気だ跳ねっ返りだと言われる程、歳に似合わぬ気丈振りだったが殴られればやはり痛い。それでも安い同情など死んでもご免だ。
「ほんとに…可哀想って言うならさ!治してよ!」
 この痛みを、悲しさと悔しさを…全て。

 何せ。
 こんな幼い少女に拳を振るったのは…
 彼女の実の父親であるから。

「うっ…うっ…ちくしょう!」

 こんな些細な痛みにも結局涙を流す自分の弱さを呪いながら。
 少女は人気の無い道を走っていた。


 この少女の名を、ニーナと言う。



 日も高く昇ってから、ニーナは漸く村に戻って来た。
 擦れ違った近所の女房達が、ニーナのぼうぼう頭を見て一様にぎょっとする…だがそれだけ。
 誰一人、「何があったか」などと尋ねはしない。
(気にするもんか!どうせ…あたしの自業自得なんだから…)
 それでもニーナは唇を噛んだ。

 ニーナの父親はとにかく最低な男だった。
 …かつて西の遠国で高名な親方の元で修行した、貴人方にも覚えの良い職人と言う触れ込みで、何分田舎であったから村の連中ころりと騙されたが…実は全て大嘘だった。実際の腕は三流所、おまけに飲ん兵衛で恐ろしく横暴で、些細な事で激高しては相手構わず殴る蹴るの大狼藉。
 だと言うのに。ニーナの母親の両親は、この男に口先三寸で丸め込まれ。
 嫌がる娘の尻を叩いて嫁がせたのだ。

 嫁を取るなりたちまち本性を現わした男に毎日毎日こき使われて殴られて。元々身体の弱かったニーナの母親は…床に伏せ続けた挙句に儚くこの世を去ってしまった。
 こんな男の元へ後添いに来る娘なぞいよう筈が無く。それでも荒れ放題の家を案じて、男が留守の隙に近所の女房連中が手早く家の雑事を手伝ってはくれるのだが…皆、済めばそそくさと逃げ帰る。
 無駄に長居をして癇癪者の要らぬ恨みを買いたく無い、それが主なる理由だが。
 もう一つ。彼女達は…もう一人の癇癪者をも殊の外敬遠していたのである。

 利かん気の暴れ者、それがニーナについた徒名である。

 まあ可哀想な子だねえと声をかければ怒り出し、近所の子どもと遊ぶにもたちまち手が出てすぐ泣かす。冷やかし半分にニーナのお下げを引っぱった、村長(むらおさ)の息子なんぞ…その場で瘤が三つも出来る程、したたかに殴られ逃げ帰り、暫く怖さで表を歩け無かった程なのだ。

 …顔はまあ、おっかさんに貰った様だけど、心は全く父親似さねえ…

 そんな風に誰かが言う度、物凄い剣幕で殴りかかるものだから。終いには一番お節介焼きの女房すら、酷く敬遠する様になっていた…
 少女は酷く、孤独だった。


 飲ん兵衛で自堕落な父親だが、三流とは言え職人である。今日はもう、品物を届けに街へ出かけている筈だ…家には誰もいない。それでも嫌な場所には違いは無いのだが、ニーナの帰れる家は一つしか無いのだ。むっつり押し黙ったまま、とぼとぼと帰途に付く。
「お、すげえ頭だな!化け物かと思ったぜ!」
「お化けのニーナ!お化けのニーナ!」
 口さがない近所の餓鬼どもが、一斉にはやし立てる。今日はその声が殊の外頬の腫れに響いたが、き!っとばかりに睨み返す。
「おーおー、お化けが睨んだぞ?」
「やるってのかよ?」
 多勢に無勢とは言え、本気のニーナはなかなか手強い。第一、彼女はまず手加減と言うものをしない…殴る蹴るは勿論の事、引っ掻いて噛みついてまるで猫との喧嘩になってしまう。
 辺りにちょっとした緊張が走った、のだが。

「おーい!大変だあ!!」
 誰かが叫びながら走って来る。皆そちらに気を取られ、思わず走り出していた。
 わずかな逡巡はあったが…ニーナもまた、好奇心に負けた。



「おい!何があったんだ!」
「山崩れか?それとも…何処ぞで火事でもあったのか?」
「いやいや、そんなありふれた事じゃあねえぞ」
 「知らせ」を持って来た男はたちまち囲まれ質問攻めに遭っていた。
「俺どころか俺の死んだじいさんだって生きてりゃきっと眼を剥くさ!」
「おい!勿体付けんじゃねえ!」
「いや…俺だってよ、並の事だったらでっかい声で言えるけどよ…」
 急に声を潜めた男に、皆も釣られて不安になる。
「一体…何だってんだ?」

「驚くなよ」
「だから、何がどうしたってんだよ」
「それがな、麓の馬車屋で聞いちまったんだが…」
「何を」
「お天道様もびっくりだ、とんでもねえ『お客様』がこっちへ向かってるんだとよ」
「…誰なんだあ?」

「まさか…領主様か?」
「おいおい、こんな田舎だぜ?そんなやんごとなき御方がお越しになる筈があるめえよ」
「その通り、その手の『御方』じゃあねえさ」
 男はさらに声を小さくし。
 皆が一言も聞き漏らすまいと、一斉に耳をそばだてる。

「ほらよ…あの、化け物山に馬鹿に古い『お屋敷』があるだろ?」
「…!」
 符牒の様な台詞だったが、村の一同即座に青くなる。

 村からさほど遠からぬ、小さな山の上。恐ろしく古びた…奇怪な館が建っている。
 洞窟の中に半ばめり込む様にして建つその館、古さもあるがとにかく奇妙、作りは無秩序迷路の様。
 蜘蛛の巣が酷いのはまあ手入れされぬからとも言えるのだが…この蜘蛛ども、何故にか凄まじく巨大。
 いや、館の中ばかりで無く。山に入って気が触れたと言う憐れな犠牲者の話など、枚挙に暇が無い程で。
 平凡ながら平穏な日々を送る村人達にとって、唯一身近な魔境であった。
 そして。
 そこにかつて暮らしていたのは…

「何処をどう突ついたんだか」
 男はさらに声を潜めてひそひそ声。
「あの『お屋敷』の事を聞きつけやがって…丁度良い按配だと思われちまったって話でよ」
「うへえ…」
 村人達は口々に、呻きとぼやきを漏らしつつ。真っ青な互いの顔を見合わせる。
「じゃあよ…その、何だ………『来なさる』ってのか?」
「ああ、今まさに馬車で『来なさってる』最中って訳さ」
 忌み語の様に話題の中心を言葉にするのを避け。わざわざ恐ろしげに丁寧に言う。
 他所者が聞けば何の話かと思うだろうが、一旦事の次第を聞けばああ成る程と腑に落ちるに違いない。

 無論。他所者ならぬニーナには、『誰』が来るのかすぐ判った。
(魔術師が…あの『屋敷』に…)

 ただ。
 彼女は恐怖は感じなかった。


 昔々村の長老の祖父の曾祖父が子どもであった程の昔の時分、山の上には変わり者の魔術師が住んでいたと言う。
 …魔術師なんてそもそもが変わり者なのだが、あの魔術師は今でも語り草になる程酷かったとか。常にむっつりと押し黙り、その癖些細な事ですぐ激高する。それだけならばただの偏屈爺と捨て置けるが、生憎この魔術師は性根がどうにも曲がっていた。とにかく小さな事で恨みを抱き、しかもずっと忘れない。その上何せ『魔術師』だ…常人には思いも付かぬ復讐をやらかすのである。
 家畜全てを奇病にする、妊婦の子を石にする、狙った家を火事にする、あるいは誰かの気を触れさせる…等々。
 だからこそ皆は恐慌したのである。

 勿論昔の話だから、事の証拠こそ皆無だが。何せ、あの山の上の『お屋敷』が今でも残っている。
 子どもの内には好奇の心が恐怖に勝り、皆一度はこわごわ連れ立って、『屋敷』の中を探りに行く。さらに時折誰かが言い出し、たった独りで『屋敷』に行って帰って来る…胆試しをやる事も。
 ニーナは少女の中で独りだけ、見事成し遂げたつわものである。
 しかし。その時村一番の餓鬼大将が怯えて泣きだし散々な結果に終わった事もあり、その上ニーナが「あんな場所、あたしはしょっちゅう行っている」等と言ったものだから…嘘つき呼ばわりされた上、何かにつけて食ってかかられる様になったのだ。
 だがニーナは嘘つきでは無かった。
 幼い少女のニーナだが、胆はとにかく座っていた。その上幼い頃から世間を斜めに見ていたためか…酷く鋭い所があり。例の『魔術師』の噂だって、伝えられて行く内にどんどん話が大きくなるとすぐ気が付いた。その上その事指摘しても、皆ニーナを妙な眼で見るばかり…誰も真実なんて気にも留めない。
(きっと、ほとんど嘘なんだ…)
 負けん気と意地も手伝って、それに何より独りになりたくて。あの『屋敷』に通う内…村人が言う程化け物屋敷で無い事も、じきに自然と判ったし。あの恐ろしい大蜘蛛も、なりこそ大きいが存外気が小さく無害である。
 それをまた、ニーナは皆に伝えたのだが…悪餓鬼どもは無論の事、大人達も胡散臭げに見るばかり。

 そんなニーナにとっては。
 皆が口にするのも恐れる『魔術師』は、むしろ近しい存在だった。



 村の入り口の木戸の前。
 …老いも若きも勢揃い、怖いもの見たさの野次馬が固唾を飲んで見守っている。さほど待たずに馬車の音、招かれざる客を乗せし馬車の蹄と車輪の音。大人達はひそひそと言い合い、子ども達は各々頼む大人にしがみついて震えている。
(どんな奴なんだろう?)
 母は失い、父は…どうせ、いたってしがみつくのはご免だが…夜まで帰って来ない。恐ろしく癇癪者で通っているから、触らぬ神に祟り無しとばかりに誰も全く近付かない。
 ニーナは独り、無邪気な好奇だけを村に続く唯一の道へと向けていた。

 遂に馬車の姿が、皆にはっきりと見えて来た。

 がたがた、がたがた…箱型の、屋根所か壁まである物ではあるが、所詮は安馬車だからとにかく揺れる。おまけに今にも死にそうな、老いぼれ馬に曳かせているから…田舎道も手伝って、見ている方まで舌を噛みそうである。
(白髪かな?それともつるつる頭かな?)
 普通の魔術師だったら、大抵大きな都の魔術師ギルドで暮らしている。魔術師を恐れ厭うのは何も村人達ばかりでは無い、この大陸の住民は貴賎を問わず魔術を恐れるものなのだ。
 それを重々承知して、魔術師ギルドは多額の金銭を実力者達に納めているらしい…金で安寧を買うのだ。
 だと言うのに、わざわざギルドを離れて暮らすのは。つまりギルドの同族にすら愛想を付かされる偏屈と言う訳だ…多分、どうしようも無く古くよぼよぼの老人だろう。
(あの『屋敷』…もう探検なんて出来ないんだ…)
 虫の羽音の様な囁き声が辺りを埋め尽くす中、ニーナは一人違った理由でため息を付いた。


 がたがた、がたん!
 馬車はついに村へと到着し。老いぼれ馬は漸く安堵のいななきを上げる…
 野次馬達は。しん、と恐ろしく静まり返った。

 しわぶき一つ聞こえぬ中、恐怖に震えた様子の御者が降り、よほど慌てたか何も無い所で躓いた。
 普通だったら笑い声でも聞こえて来そうな滑稽だのに、耳が痛い程の沈黙である。
 泣きそうな顔で、それでも懸命に馬車の扉の鍵を開け。悲愴に声を張り上げ呼びかける。

「先生!着きましたぜ!」
「…そうですか、ありがとうございます」

 ほんの少し、辺りがざわついた。
 ニーナもまた、首を傾げる。
 あれ程静かで無ければ聞こえぬ程にささやかな声、馬車の中の『魔術師』の声は…少しも嗄れてはいなかった。
 だが何故、と思う間も無く。
 扉が開く…

 粗末な安い馬車の中から。
 黒く長い衣に包まれた、人の影が降りて来る。

 ざわっ…
 騒ぎはさらに大きくなって、流石のニーナも眼を剥いた。

 白髪と言うのは当たったが、どう見たって…二十そこそこの若者だった。

進>>


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(C)獅子牙龍児
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