◆プロローグ◆


「お師匠!お師匠!なあ、お師匠ってば!」
 まだ幼い金切り声が辺りに響く。町中ならさぞかし近所迷惑だろうが…まあ、ここは人里離れた山中である。
「お師匠〜!!」
 声の主は、ほとんど泣き出さんばかりだ。砂埃を盛大に巻上げながら…ここ暫くいやに晴天続きなのだ…『師匠』を呼びに走っている。年端も行かぬ少年が、何か恐ろしい事にでも遭ったと見えて、頼りの大人を必死で呼びに駆けている…むしろ微笑ましいような眺めだが。
 もし、傍観者がいれば「おや?」と思うに相違無い。

 少年の風体が尋常では無いのだ。

 いささかくたびれた、元は白かったろうにいささか灰色がかった衣服。ぶかぶかの汚れだらけなのは別段珍しくは無い。この辺りは聖都市オムファロスにも巨大商業都市シャーデンにも遠く、平和とは言え富貴には程遠い。子どもが粗末な衣服を着て、手足を剥き出しにして走り回るのは至極日常的な眺めである。では、何がおかしいか?
 …肌が、異様に黒い。
 『異様』とは穏やかならざる物言いだが、実際彼の黒さは際立っている。南方の民族とも明らかに違う色、何よりの奇妙は手の平までもが黒色の事。見る人が見れば即座に判じる、少年の釣り上がった眼、頭布で半ば隠されてはいるが長く尖った耳…つまりは妖精、それも闇の種族の血を引く生まれなのである。
 人里離れているとは言え、ここも人間の領地である。その人間の眼を嫌ってか、そろそろ夏だと言うのにやたらに大きな白山羊の外套で全身を覆っている。…慌てて走ったせいで、酷くめくれてしまっているが。
「…何です、どうかしましたか?」
 おっとりとした、声。少年の駆けて来た先、苔むして辺りの緑に半ば紛れた扉がゆっくり開き、中から人影が現われた。
 手に開いたままの書物を抱えた、背の高い、ほっそりとした人間の男。…若い。少なくとも見た目には、だ。開いた扉からわずかに除く室内の、壁に立てかけられた奇妙な杖…魔法文字のびっしり刻まれた樫の杖。その杖の示す職能と、不思議に老成した落ち着きが、年齢の正確な推察を拒むのだが…
 とは言え。髪こそ雪の様に真っ白だが、老人のものとは明らかに異なる艶があり、しかも見事に癖が無い。その上質の絹糸を思わせる長い髪を、肩より少し下がった位置で軽く一つに束ねている。顔立ちも端麗、目鼻立ちも涼やかだが敢えて難を言うならば、男にしてはあまりに色白過ぎる事。細身の長身と相俟って、下手をするとひょろりと見えてしまうのだが。付け加えるなら視力も弱く、いつもまるで飾りの無い、縁の丸い大きな眼鏡をかけていて、余計にぼんやりとした印象を強めてしまっている。
「シド、どうしました?そんなに慌てて」
 静かな語り口。容姿に似て幾分中性的であるが、かと言って甲高い声とも違い、穏やかでどこかしら聖職者を思わせる。そんな彼の声は、何とはなしに聞く者の心を落ち着かせてくれる…筈だった。
 が。余程の恐慌状態らしく、子どもの興奮状態は治まらない。
「どうしたもこうしたもねえよ!早く!」
 いきなり腕をむんずと掴んで。…黒い、不思議な紋様の入った長衣が引き吊れる。なかなか価値のある衣装だが…実際、少年も普段は皺など付けぬよう、本人よりも余程気を付けている…それをまるで構わない様子、やはり余程焦っているのだろう。
「早く、と言われても…まずどういう事なのか…」
「とにかく!早く来てくれって!大変な事態になってるんだよ!」
 激しく地団太を踏んで。…小柄な子どもの身体は、比喩で無くぴょこぴょこ跳ねる。
(大変な、『事態』、ね)
 ざっくばらんな筈の少年の珍しい物言い。密かに微笑を浮かべながら、その熱意に根負けし…分厚い書物にリボン状の栞を挟む。丁度、幻獣グリフォンに関する文献蒐集、それが佳境に差し掛かっていたのだが、どうやら軽い助言で済む『事態』では無いらしい。
「分かりました。…今行きますよ」
「早くってば!!」
「はい、はい」
 子どもが疾風の様な速さで駆け出す。背丈は自分の半分も無いのに、どうしてこうも速いのか。何時もの事ながら感心しつつ…白髪の魔術師も小走りで後を追って行った。


 確かに、大した『事態』ではあった。
「…はあ、これですねえ…」
「これですね、じゃないって!」
 子どもが鳥肌を立てながら喚く。無理も無い、少年の指差す先には無数の動めくぬめぬめした物体…馬鹿に肥えた蛞蝓が、それこそ無数にいるのである。どう言う訳か地中にぽっかり穴が開き、そこから皆顔を出している。外に出たがる様子だが、出口に一気に殺到したらしく互いに互いを邪魔し合い、どの蛞蝓も譲らずもがくばかりなので丁度太った磯巾着の様にも見える。
 魔術師が振り返る。ここは彼等の住まいの裏手、地上よりそう遠くない場所に家の煙突が見えている。…今はふざけた磯巾着でもいずれは個々に悪さをしだし、多分あの煙突の辺りから侵入を試みる輩も出るやも知れぬ。
「これは…困りましたねえ」
 子どもは真実泣き出しそうだ。闇妖精の血筋故、並より過酷な人生で胆は相当座っているが、どうにも蛞蝓ばかりは駄目らしい。誰かの故意か事故なのか、幼少時に寝床に連中に潜り込まれ、真っ暗闇の中ぬるぬるする物体相手に死闘を演じた事があり、爾来最大級の不得手としているらしい。
「だからさ、『火炎球(ファイアボウル)』でさ、ドカン!…て、感じで」
「…それは大袈裟でしょうに…」
 苦笑する。ここは地面も確かに湿っているし、木立からは離れていて火災の心配も少ないが、たかが蛞蝓相手に危険極まる攻撃魔法とは…
 取り合えず自分達の生活の安寧のため、また少年の感情に配慮しておもむろに魔法言語を唱え出した。
「太古の主よ、その腕を伸ばし…」
「…え!?ちょっと!お師匠それって…」
「…強固なる繭となれ、『地封籠(アルスケイジ)』!」
「あー…」
 不満の声を上げる少年と裏腹に、目の前の大地がみるみる盛り上がる。たちまち縄程の太さ長さとなり、見えぬ名人すらすら編むかの如く蛞蝓覆ってたちまち形組み上がり、あっと言う間にぬめぬめ虫は泥細工の向こう側。…見た目より強固な編みではあるし、魔法の作用で中の蛞蝓達はぐっすりお休みの筈だから後憂は絶てたと言えるのだが…
「始末しちゃった方が簡単じゃん」
 彼の師匠は杖も無しにすらすら唱えたが、『地封籠』は中級の魔法で技量も要し、少年にはとても扱えるものでは無く、当然解呪も出来ない。
「そう簡単に言うものではありませんよ」
 ぷうぷう膨れる子どもを宥める様に頭をそっと撫でてやる。…優しい所のある子だし、今の言葉も深い意図など何も無いのだが、少年の過去の殺伐が偲ばれて魔術師の白く細い眉が寄せられる。
「神官様の説法を借りれば『仮にも命』となりましょうし、第一こんなに急に発生するなんて妙ですよ。何か、自然の摂理から言って理由があるに違いありません」
「はいはい、自然殿はきっと俺に嫌がらせしたかったんだよな」
「シド、その辺にして置きなさい。…それにね、私達は生活も苦しいのですから」
「…は?」
「こんな生き物でも『素材』になるかも知れませんよ?」
「え〜!!蛞蝓がァ〜??…一体、何の『素材』に?」
「例えば…そうですね、巨大な蛞蝓…ジャイアントスラッグとか」
「…そんなの、需要ある訳ないって…」
 天を仰ぐ。…だが、世の中は分からないものだ…

進>>


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(C)獅子牙龍児
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