二章 龍紋 (1)


 道は、広くなった。
 旅の始めは獣道をようよう歩いていたのが、今は明らかに人が踏み固めた常用の道、金剛の先導なくとも容易に進める。が、逆に昂の足の運びは重くなりがちであり…
「どうした?」
「何でもない」
「疲れたか?」
「ううん、平気」
 事実、ここ暫くの昂の健脚ぶりは賞賛に値する。暫く剣の稽古を休んでいるとは言え、ここ数日ばかり食事と睡眠とわずかばかりの休息時を除いて歩き詰めだが歩みも呼吸も乱れがない。始祖龍の清水を飲み始めて数週間、外見には変化の無いものの体力の進歩は目覚ましい。無論、昂自ら励んだ鍛練の成果も大いに関与しているのは言うまでもないが。
「何だ、人家が近くなって自分の身のみすぼらしいのが気になって来たのか?」
「違うよ、何言ってるんだよ…」
 どうやら昂の真意を知った上でとぼけているらしい金剛に食ってかかるが、はたと気が付き慌てて自分の姿を返り見る。服は異界に渡った学生服のまま、稽古で当たってよれよれの泥だらけ、その上に防寒具代わりに借りた金剛の雨避け、これがまた年季物でみじめったらしい。金剛が身に付けると肩位しか隠れない代物だが、昂には半端に大きくたっぷり過ぎ、いかにも借り物の間に合わせじみている。
「湯も久しく使っていないしな…」
 金剛の何気ない一言に、昂はいよいよ青くなる。もはや当初の悩みの因になど構ってはおられぬ。
「僕…ひょっとして、ううん、絶対臭うよね?」
「失敬な、そらならお前以上にわたしが臭う筈だぞ!」
 ひょいと伸ばされた太い腕が昂の頭を掴んで引き寄せたので、思わず偉丈夫の外套に深く顔を埋める格好になってしまう。
「う!…あれ?」
 本当に失敬ながら、『数週間以上風呂に入っていない』と言う事実から昂が頭に描いたのは剣道の小手であった。経験の無い方には想像が付かず申し訳無いが、あるいはまた経験者には恐怖の記憶を呼び覚まさせて申し訳無い事だが、剣道の小手、それも共用の物は臭気のかたまり所の騒ぎではない。これと実力伯仲なるは四六時中長靴を履き続けた後の足位だが、小手は当然腕に填める物、うかつに事後の処理をおざなりにすれば夕餉はその臭気の手で以て食さねばならない。夏場一日中汗を吸った柔道の道着も物ならず、汗の上に汗が垂れ汚れをみだりに吸い、しかもその湿気で小手自体が幾分変質し、当然の帰結ながら雑菌も思う様増殖し、すえた臭いと呼ぶより完全に鼻腔粘膜を突き刺す殺人的臭気を放出する地獄の器物と化すのである。
 だが、現実は想像より静謐であった。使い込まれた男の外套は、無論無臭ではないものの大した異臭もせず。
「う〜ん、埃っぽい気はするけど、意外と汗の匂いってしないんだね」
「意外とは実に失敬だな」
 そう言えば、稽古の最中に助け起こされた時も特には感じなかった。
「季節のせいかな?そんなに暑くないし」
 昂の故郷は6月だったが、この地はどうやら晩秋らしいから…
 ふと気付くと、金剛がくつくつ笑っている。
「あれ…僕、変な事言った?」
「いや何」
 笑いながら昂の方を向く。
「それなりに敬して貰えていると思っていたが、わたしの自惚れだったかな?」
「え…?」
「龍の寿命は人とは比較にもならぬと言った筈だが?当然身体の仕組も異なると思わんかな?」
「あ!」
「龍は死ぬまでに人の何十倍もかかる。臭気に耐えられなくなるまでの期間もまた然り、と言う訳だ。…と、どうした?」
 青かった少年の顔が今度は真っ赤に染まっている。
「じゃあ今僕凄く…金剛は鼻も良いし…」
 一瞬でかの小手の如き臭気を全身から放つ自分の姿が描かれる。そして、その一番の被害者と目される金剛、霊獣の頂点たる龍族だけに感覚全てが人間を凌駕しているが、嗅覚もまた遠くの水源を匂いで探り当てる程鋭敏である。
 自分の臭いは存外本人には分からないと言う。自分では確かめようもない昂としてはつい最低最悪の事態を想定してしまい、終いには茹で蛸の有様。
「ご免なさい!僕、臭いなんて自分では全然気が付かなかった…」
「おいおい、人の話は最後まで聞け!」
 予想に反して金剛はますます楽しげにからからと笑う。
「お前の飲んだ始祖龍の清水がただの水だと思っているのか?」
「あ!」
「自覚は無いだろうが、既にお前は随分と龍身に近づいているのだ。元より体臭の薄い方であったしな、わたしの鼻を以っても大した荒探しはできんぞ」
「そうなんだ…少し便利かも…」
 自分でも少々しまったと思ったこのつぶやきは、今度こそ爆笑を誘った。
「至宝の清水が匂い消しに重宝とはな!」
「ご、ご免なさい、大変貴重な物だって事は分かっているから…」
「いや、龍王御自らのお褒めの言葉、いやが上にも箔が付く!」
「もう、悪かったから!」
「『少し』便利、というのが少々悲しいが…」
「分かったって!しつこいよ!」
 ぷうと頬を膨らませてそっぽを向く。暫くにやにやしながら楽しげに見守っていた金剛だったが。
「さて、そろそろ龍王の剣も近いな」
 さらりと本論。少年が再び硬直する。


「いにしえの剣と聞いて、お前はどう思ったかな?」
「え…え!どうって…」
 一番の懸案事項に関わる質問に、戸惑いながらも真面目に答える。
「多分、名剣だと…大きくて、切れ味が鋭いような…」
「ふむ。大きくて、鋭い、か。随分月並だな、わたしの聞いた話はもっと驚くべき話だったぞ」
「え?」
「何、まだ剣を見い出す前、わたしが子どもの時分だが、剣の話を方々の者から聞き出したものだった」
「どんな…話?」
「うむ。まず父から聞いた話では、長さは六尺余り、つまりお前より丈があると言うものだったな」
「そんな…」
「驚くのはまだ早いぞ。村の長老に尋ねた所、『斯様につまらぬ物にはあるまいぞ、屈強の勇士が七人集まり、七夜かけて鍛え、七人がかりでやっと持ち上げられ、龍王様の手に渡ったその後は一振りで七の七倍の魔族を倒した希代の業物じゃ』との事」
 少年は身震いする。
(そんな剣、僕に扱える…いや、持てる訳がないじゃないか)
 偉丈夫の眼が質の悪い笑みを浮かべている事など、震える少年に気付ける筈もない。
「またこんな伝説も聞いた。かの剣は大地を砕く…山を崩し谷を刻むと」
 噴き出すのを堪えながらそっと少年を見ると眼は見開かれ瞳の湖に既に堤防決壊の兆し。
「う、嘘、でしょ?」
 震える声。だが、少年を心底慈しんでいる金剛には実に悪癖があった。
「嘘ではない。その剣で裂かれたという地をわたしはこの眼で見たのだからな。広く、そして長い長い峡谷で、龍身に戻ったわたしの身の丈より幅があり、長さと来たら行けども行けども端がなく、さしものわたしも途中で引き返した程」
「そんなに…そんなに大きいんだ…」
「うむ、実に、大きかった」
 実の所、少年の認識と自分の言葉に微妙なずれがあるのだが、あえて気付かぬふりをする。
「また、こんな話もある」
 途端に昂の頭が跳ね上がる。言わんとした事を飲み込んだようだが、顔が如実に語っていた。
(まだ続くの?)
 一応の考えもある金剛は、心の中でこっそり笑って素知らぬ顔でうそぶく。
「柄も刃も業火に包まれていると…その熱さに耐えた者にのみ、使用を許すと」
「あ…」
「あるいはまた、猛毒を発すとも…蛇の毒よりまだ酷く、触れるな否や皮膚はただれ崩れ落ち、肉は焼け骨は痛み…余りの臭気に喉鼻はおろか白眼も黒く変ずるとか…」
 少年の身体がいよいよ小さく縮こまる。額と言わずこめかみと言わずじっとりと冷や汗。金剛も流石に惨いとは思ったが。
「なに、単なる試練に過ぎぬものだ。苦しみは一瞬の事、耐え凌げば必ず剣の助けで事無きを得ると言う話だ」
「単なる…試練…」
 昂はもはや気が遠くなって来た。
(そりゃ、金剛なら何でもないだろうけど…)
 実際そんな試練が課せられたら自分とてとても無事では済まない事が良く分かっている金剛は敢えて昂の誤解を正さない。何も知らぬ少年を弄ぶような嗜好を全く持ち合わせていない訳でもないが、だからと言って理由無くここまで追い込む程に悪人でもない。予想以上の効果を確認した偉丈夫は、完全に足の止まってしまった少年の肩を強引に掴むと、さっさと歩き始める。
「さて、少し急げば何とか今日中に間に合う。行くぞ!」
「でも、でも僕…」
「いいから来い!」
 掴んだ肩が可愛そうな程震えていて、少々薬が効きすぎたのをほんの少しばかり後悔する金剛であった。

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(C)獅子牙龍児
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