三章 怪虫 (4)


「どうしても行きなさるんで?」
 旅籠の主人や近所の村人、それに駆けつけた村長が不安気に見送る。虫は退治して欲しいが、思わぬ長雨の交流で、二人をすっかり家族のように思う様になった村人達は、二人が返り討ちに逢う事の方が恐ろしくなっていた。何人もの血気盛んな若者達が助力を申し出たが、これは丁重に断わる。金剛は龍身に戻れぬとは言え龍族屈指の力を誇る雷龍の英傑、人なら死ぬ様な傷も物としない。昂も自分と腕には自信がないが、剣の何よりの支えがある。昂がもう一度、龍王の剣を振って見せて、漸く一同の不安を治める事が出来た。
 後は、手筈通りに歩くのみ。


 元々数の少ない歩行者を狙うと言う事で、無理に誘い出す必要は無いだろうが、逆に何時何処から現われるか見当がつかない。ここは、金剛の鋭い五感が頼りだ。
「…昂!今すぐ…」
 低く抑えた緊迫した呼び声。皆まで聞かず抜剣した。
「わたしの後ろに着け!」
 背中合わせになる様に構える。まだ昂には気配も感じられないから余計緊張が走る。
「む…?」
 金剛の声にいぶかしげな色が混じる。
「昂、気を付けろ!一匹回り込んで…」
「あ!」
 突如、黒い物体がとてつもない速さで急降下して来た。


「まだ来るぞ!気を緩めるな!」
 金剛の叱咤に答える暇も無い。五匹を斬った所までは数えていたが、後はひたすら無我夢中。足元には奇妙な臭いの黒光りする破片が幾つも転がり、たまに両断したつもりでも死んでおらず足に噛みつきそうにもなるため四方のみならず上下にも眼を配らねばならない。しかも闇甲虫の羽音は酷く煩く耳障りで、ともすれば集中が切れそうに。
 ただ龍王の剣は、流石『渾沌の牙』などと剣呑な真名を持つだけあって切れ味は恐ろしい程。しかも、いくら斬っても衰えない。とにかく当てさえすれば良いのだが、敵の動きは余りに早い。
 ふと、無数の虫で暗かった視界が急に晴れた。
(全部倒した…訳、ないよね)
 慌てて左右を見渡すが、陰気な林の貧相な樹木ばかり、足元とはぴくりともせぬ怪虫の残渣ばかり。かえって動揺する心を深呼吸で無理に落ち着かせ、慎重にぐるりと向きを変えると…
「金剛!」
 何時の間に離れてしまったのか、視界の遥か遠くに悶える偉丈夫の姿。いや姿は見えず、全身を不吉に黒い闇の眷族に覆われ…

「うおおおおおおッ!!」
 少年の咆哮。胸が張り裂けそうな不安をそのまま速力に変え、地を蹴り羚羊(かもしか)のように駆け寄る。その間にも化け虫の攻撃いや増し、もはや衣服も見えぬ様相の男の影が崩れる。昂の脳裏に白壁の染みが、幼子の痛ましき最期の幻影が…同様に全身を裂かれる金剛の姿が思い浮かび、恐怖の念が少年を絶叫さす。
「金剛ーッ!金剛を離せ!離れろ!!」
 常からは想像も付かぬ程、昂の怒りは凄まじく、知らぬ内に全身より憤怒の鱗気をたぎらせていた。その気迫に、樹木に巣くう貝殻虫の如けき執念でぴたりと張り付いた虫の幾つかが、浮き足立つ様にふらりと飛び上がる。そこを龍紋の刃、一閃。たちまちにして七体が黄色い体液と長い臓腑を吹き流しの如く伸ばしつつ、悪趣味な大地の飾りと果てた。
 それでも張り付く殺意の虫、多数。勢いに任せ一断すれば、剣の切れ味に金剛までも深く傷つけてしまう。焦燥に拍動は早鐘となるが、何より早く金剛を救いたい、その一心で剣を振り上げる。
 振り降ろす、勢い良く!だが、滑る様に撫でる様に。無我夢中の剣技は絶妙の威力を生みだし、奇麗に虫の甲のみ裂け剣の軌跡を追ってぼろぼろと死骸が落ちて行く。苦しき焦りは電光の速さを、必死の願いは神技(しんぎ)の巧みを。不安に涙すら流しながら昂は、自覚もないまま次々と害虫を肉片へと変えて行った。

 最後の一振り。男の顔と首の辺りに食らい着いていた怪虫を一気に誅してしがみつく。
「金剛!金剛しっかりして!」
「…なに、かすり傷だ」
 一拍置いて、返事が返る。思いの他明瞭な声だが、やはり幾らか弱っていた。
「何がかすり傷だよ!こう言うのは重傷って言うんだよ!」
 安堵感がかえってやり場の無い怒りを催し、男の頑丈な肩を無闇に叩きながら喚き散らす。しかし、改めて先程の不安が蘇り、抱きついたままむせび泣いてしまう。
「もう…死んじゃったかと、思った…」
「おいおい、ひとを勝手に死人にするな」
 あやすように昂の背中を優しく叩くその台詞は、少し笑いを含んでいて少年も良く知る口調であった。だが、いつもの覇気がない。そこで、はっとする。
「金剛!」
「…何だ?」
「手当、傷の手当しなきゃ…」
 そして初めて自分が救急用具を何一つ持っていない事に気付いて青くなる。


 ここ蛇蝎界では子供どころか赤子も同然の昂、その己を金剛は良く支えてくれた。知らない事は教えられ、足りない事は補われた。荷物も装備も皆、金剛が当然の様に持っていた。だから今まで何も考えずに過ごして来たが。
 戦いともなれば、怪我は当然だ。それなのに今朝方、親切な旅篭の主人が足りない物は無いかと念押ししてくれたのに何も思いつかなかったのだ。
 内心どうにも間抜けだと思いながら、仕方無く昂は金剛に問う。
「あの、包帯…か、何か、持っていない?」
 少年の質問に、偉丈夫は鷹揚に笑って答えると、やおら半眼になり全身の神経を高める如く気合いを発す。
「むッ!」
 すううと、衣の数々の裂け目より霊妙なる白煙が立ち上り、と見る間に闇虫の顎に食われた傷がするすると治って行く。驚きに涙も止まってしまった昂の眼の前で、たちまちにして傷が全快した、と見えたが。
 男の顔が歪み、大きな上体が倒れて来る。慌てて抱きとめた昂は、背中の肩近く、いまだ塞がらないばかりか暗紫に変色した傷に気付く。
「金剛…この傷、だめだよ!おかしくなってる!…ああ、どうしたら良いんだろう…」
 不安にまた涙を流し始めた少年に弱々しく微笑みかけると、掠れた声で頼む。
「流石に疲れた…まずは、横にならせてくれ」
「うん…」
 涙でぐちゃぐちゃになりながら、重い男の身体を細心の注意を払ってそっと横たえる。楽な様に、右腹を下にして。
「心配するな。今し方、わたしが自ら傷を塞ぐのを見ただろう?龍族の生命は太く強い。大概の傷は瞬時に癒せるのだ…」
 苦しげに息を吐く。その様子に昂の声は震える。
「でも…この傷は…」
「毒だ…。闇甲虫の主な武器はあのおぞましい顎だが、闇の眷族らしく毒も稀には使うのだ。しかも悪い事に、親と言うべき百足より受け継いだ物を、な。…百足の毒は奇妙な代物でな、人間にはさほど効かぬのに龍の一族には酷く祟る。龍身ならいざ知らず、人身ではかなりの痛みと麻痺を伴い、傷を切り広げて毒を絞り出すかそれとも…」
 金剛のゆったりとした語りが突然破れた。少年が、前触れも無く男の深手に口を付けたのだ。
「す、昂!?」
 傷を吸い上げられる感覚があって、それから少年が遠くへ唾を吐き出した。毒を吸出しているのだ。何度も何度も…都合七回程吸うと、傷の変色は眼に見えて引いていった。
「まだ…痛む?」
 眉根を寄せ、不安気な表情で窺う少年の口元に、不釣り合いなどす黒い染み。その対比が痛々しくて、金剛も眉を潜める。しかし昂は誤解してしまう。
「だめなの?」
「いや…」
 恐ろしい怪虫には鬼神の如き奮戦振りを示した小さな龍王が、自分のものならぬ傷一つでこれ程不安になる。安心させるためにもう一度笑う。
「済まない。もう痺れもない…」
 また、白煙が吹き出し、傷口を狭めて行く。ほんのわずかな痕を残して完全に塞がった。そのまま起き上がり、懐を探って旅篭で貰った汗取りの布を取りだし少年の口元の汚れを拭う。
「あ!…ありがとう」
 慌てて受け取り、自分で拭く。金剛はさらに装備を探り水筒を取り出し、うがいもさせた。
「口に傷などなかったか?」
「うん、だいじょうぶ」
「そうか…。人間には致命でないとは言え無害ではない、そうでなくともお前はただの身体ではないのだからな。早くに回復したが、胆が冷えたぞ」
「でも金剛だって…あの時本当に、金剛が駄目になるかと思ったよ…」
 きゅっと寄せられた眉根が痛々しい。宥める様に優しく語りかける。
「確かに、必ず守ると言いながら逆に助けられてしまったな」
「うん…」
「だから、改めて誓おう。わたしは、容易には死なぬ。わたしが倒れるのはお前が倒れる時、わたしは必ず生き延びる」
「うん!きっとだよ!」
 少年の顔に、漸く笑みが戻って来た。



 怪虫の巣も、さほど遠からぬ場所に見つかった。もはや原形を全く止めていないが、崩れた腐肉と錆び付いた剣の類が幾つも散らばる中、金剛のかつて見た通りの繭と幼虫が姿を覗かせていた。
 繭は数も少なく一瞬で始末でき、あとは巨大な蛆にも似た幼生ばかりだったが、これが口より盛んに百足毒を出す事もあり、疲労の色濃い金剛に変わって昂が一手に引き受けた。既に先程の戦いで身体慣らしは十分の龍王には容易い仕事である。
 念のため周囲を探ると、石組みで守られた泉の跡がある。しかし百足の屍体が乾きミイラと化していたのと同様、この場所も既に枯れ果て往時の面影はかけらも無い。これが金剛の言う所の、『不審の火気』の仕業だろうか。
 さて手筈通り屍体の危険を取り除き、怪虫発生封じのための火付けの救援を呼ぶのと自分達の無事と成果を告げるため、一旦村に戻る事になったが、そこで金剛が奇妙な行動を見せた。急に剣の柄を包んだ布を剥がし、難しい顔で装飾を眺め、また元に戻す。なるべく表情を悟られぬように留意したようだが、昂には確かに瞬間落胆の面持ちになるのが見えた。問い詰めてもはぐらかされてしまう。
 仕方無しに諦め、野宿の装備の無い今、夜になっては大事と村への道を急ぎ戻り帰った。


 当然と言えば当然だが、村の歓迎振りは目が眩む程。
 念のため証拠にと虫の堅く黒い甲を一部持ち帰ったが見る者など皆無、それより二人が五体満足で戻った事の方が村人達には重要なのだ。例の百足のミイラもそのままだしまだ他にも百足の死骸が無いとも言い切れぬので今後の打ち合わせも肝要だが、村を上げての祝宴が夜明け近くまで続き、戦闘よりも宴に疲労し翌日は日がすっかり暮れるまで死んだように眠りこけてしまった。
 結局まるまる五日も経ってから百足始末に人員を募って出かける事に。金剛の話では百足は本来油に富むので案外焼き易く、燃やす際にはむしろ延焼に注意すべきだそうだが、実際ミイラ化した屍体は松明の様に派手に燃え上がった。これもやはり例の火気の移動によるものか。
 その後数日を費やして旧村付近の沼も探索したが、幸いと言うべきか生きた百足は皆無で屍体も数匹ばかり、しかも例の虫の幼生までも多く乾き死にしている姿が見られた。繭も幾つかあったが中味が空な物は少なく、ほとんどが丸い棺桶と化していた。沼もすっかり潅木に覆われ新たな百足の恐れも無く、複雑な所だが異常な火気のご利益だろう。
 ともかく怪事は終わったのだ。

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(C)獅子牙龍児
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