四章 腐鬼 (2)


 ぎらり。
 土地が変わったからと太陽まで変わる筈も無いが、実際今の日差しと来たら、妄執に取りつかれた人間の、獲物を狙うまなざしにも似て悪意すら覚える。既にあれから一週間、昂や馬を案じて速度を緩めたために旅程は酷く長引いたが、それでも目的地は目前に。立ち枯れした林の隙間から覗くのは山、高さこそ低いがその尖端より黒煙たなびく様が眼を引く。記憶の底からかの土地に、なりこそ小さくも確かに古い火霊の山が存するを思い出す。本来火気強大、常に溶岩を湛えながらもみだりに辺りを灰燼と化す事も無く、むしろ当地を温暖に維持しつつ近づく闇の眷族には守りの壁となる、言わば鎮守の山であった筈。しかし、今は?
 異様に煙が黒い。しかも金剛の龍の視力は今、明らかな毒の色を見てとった。火山の炎は浄化の炎、常ならば毒を中和し無害な白煙のみを吐き出すと言うのに。周辺の異常は火気の暴走ばかりではない、この瘴気の蔓延も要因である。
 傍らを、見る。…既に少年は瞳も虚ろ、馬上で姿勢も保てず獣の首にもたれ切っている。みずみずしい肌が乾き、ほんの少しの摩擦で切れてしまうが痛々しい。異常の火気も勿論悪かろうが、ここに来て毒の浸食がまだ小さき龍王をはっきりと蝕み始めている。馬達の方はと言えば無駄な消耗を用心して避け続け、主を案じる余裕すら残してはいるが。
(業と人里を避けて来たが…)
 盗人どもを敵にまわすはなまなかな魔獣相手より厄介であるからと、野宿だけですませてきた。実際、ほんの少しばかり街道へ、近付いただけで怪しい集団に囲まれた事すら幾度かあった程…しかし、街を避けるもそろそろ限界である。既に火気の源は突き止めた。その異常の因を探るには情報も欲しい。
「昂」
「…あ…?」
 どこか遠くからの様なぼんやりした応え。頭をもたせたまま瞼だけをよろよろ開けて。
「あ!な、何!?どう…したの?」
 そこでようよう自分が馬上で眠っていた事に気付いたようだ。慌てて飛び起きだらりと下げていた手を戻し手綱を取るが、急な姿勢変更に却って目眩を起こしたようで、ぐらりと身体が傾ぐ。すかさず、光陰が馬体をよじらせ何とか持ち堪えさせた。一部始終に金剛の眼が一層厳しくなる。
「今宵は宿を取ろう」
「うん……え!宿ってそんな!」
 今度こそ眼が覚めた昂が食ってかかる。
「刺客が来ようとお前の事はわたしが守る」
「そうじゃなくて!…狙われるのは金剛なんだよ!」
「お前の回復の方が先だ」
「ぼ、僕は平気だから!」
「…ならば鐙のその様は一体どう言う訳なのだ?」
「え…」
 何かの拍子に抜けてしまったのだろう、鐙はただの飾りの如く無為にぶらぶら揺れている。無論龍馬たる光陰の事、鐙なぞ使わずとも主の意を確かに汲むのだが、既に乗馬生活も久しい昂の事、この様な失態は初めてである。
 漸く自分の恐ろしい程の不調に気付いて蒼ざめてしまった少年に、さらに自分の見立てを伝える。火山の事、闇に属する毒気の事…
「火気に気を取られて不浄の気にまで思いが至らなかったのはわたしの失態だ。ほんの数日で…」
 馬を寄せ、冷たい汗を流しながら辛そうに上体を支える少年の、頭をそっと撫でつつ半ば強引に馬にもたせかける。本当に、身体を起こすだけでも命すら削られて行く様にすら見えるのだ。
「ここまで弱るとは…すまぬ」
「そんな…僕が弱いのが、いけないんだから…」
「そんな事はない」
 きぱり即答。
「お前の成長ぶりがわたしの予想を遥かに凌駕していたためだ。変化(へんげ)の苦しみに耐えて始祖龍の清水をよく飲み干した。毎日の様に龍王の剣を振るった…」
 少年が急にむせた。前屈みの姿勢が悪かったのだろうか。
 咳が止まらぬのを見て虎の子の水筒を取り出す。飲用の水の栓を取り飲ませてやろうと…
「だっ…だめっ、ケホッ!最後、の、水っ!」
「飲め!」
 有無を言わさず注ぎ込む。乾きに過敏になった喉が束の間潤され、咳の発作も収まった。
「ありがとう…」
「いや、構わぬ。…お前は急速に龍身に近づき、五感も鋭敏となった。が、ために闇のかすかな毒をも強く感じてしまうに至ったのだ」
「毒…?」
「龍王は龍界を闇より守る霊獣の王、魔族の気には殊の外敏感に反応する。元々闇の瘴気は天の龍族をひどく蝕むのだ。ただでさえ火気で苦しめられた上になまじ龍身への途上にあるお前の身体、繭から取り出した幼生の如く毒に対して剥き出しになっている。だからこそ、わたしが魔族の所業と気付くより先に、お前の身体の方が悲鳴を上げたのだ」
「でも…毒、なんてそんなの…気付かなかった…」
「お前も成長の途中だ、まだ探知の術はこなせぬだろう。むしろわたしの方こそお前の身体の変調に早く気付くべきだった」
「そんな…それより、金剛、は?…毒で、辛くない?」
「わたしは長年魔族と戦って耐性が有る。そうでなくとも成龍の方が毒にも強い」
「そうなんだ…」
 少年の眉がきゅっと寄せられ唇をそっと噛む様に見えたのはいまだ年若い自分を腑甲斐なく思っての所業だろう。
 だが。
 …その危険を承知で無理に連れ出したのは金剛である。


 昔、人間が鉱山を掘るにあたって金糸雀を使うと聞いて憤慨した事がある。
 鉱山の危険は落盤鉄砲水と様々だが、毒気の発生も恐ろしい。色の見えず音もせず、下手をすれば匂いもせずにひたひたと迫る危険。かような折に小鳥連れであれば、まだ人には害の無い内に真っ先にか弱き鳥が息絶えるがために見えぬ危機をば察せられる。中でも金糸雀は格別繊細な上に始終歌うと来るから、それこそ弱ったかどうかが実に明解。誰が編み出したか確かに巧妙の策ではある。が。
 暖かな日差しの元、和やかに憩う鳥達を死地へと運ぶ。誰にその様な権利があると言うのだ。危機も気付かず死ぬ位ならばそもそも鉱山など行かぬが良い。か弱い命を贄にし何の命ぞ。弱き者を危難より遠ざけ守るがより強き者の勤めであろう。強き者こそ、弱きを無駄に死なす事の無きよう、気を配るが必然だ、と。
 だが、今の自分はどうだ?


 馬を駈けさせながら脇を見やる。小さな黒髪はたてがみの中に沈み、とうに意識を手放している。それでいて決して良い眠りではなく、微かに覗く首筋に奇妙な汗の玉がじっとりと浮かぶ。譫言こそ無いが、悪夢には違いない。
 実の所、今日の今日までこの地に瘴気の満ちつつあるのに気付かなかった。昂のあまりな衰弱ぶりが流石に不審で、念には念を入れて探査したために漸く毒霧を見い出せたのだ。もし昂の感覚が鈍であれば、大した備えもなく不浄の直中へ踏み込んでしまい、自分もまた毒の餌食となっただろう。
 蛇蝎の界に暮らして早数百年。龍身を封じられて久しく、また度重なる戦闘に魔族の臭気にも馴化して果てたようだ。封印のためとは言え、これ程衰えていたとは。しかも自分は何をした?あの、今となっては忌まわしい、若かりし頃の自分は…

 ふと見ると、昂の身体は馬上にも関わらずさほど揺れぬ。光陰が主のため足取りにも細心の注意を払い、なおかつ能う限りの速力で駆けているのだ。いまだ、年若いと言うのに。
(わたしは畜生風情にも劣るのか…)
 自嘲の笑みが浮かぶが、ふと少年の自分を案ずる時の表情を思い出す。怪虫に倒れた時、小さな子どもの様に泣きはらして、しがみついて…年甲斐もなく甘くほのかに酸い感情が立ち上る。穏やかな想いが暗い自虐心を押し流して行く。
 そっと昂の顔を覗くと、気のせいだろうか先程より優しく、微笑を湛えている様に見えた。
(また、助けられたようだ)
 本人は例によって無意識だろうが。
(…今は昂の身体を治す!過ぎた事を思い煩うは無益、これからが肝要だ)
 思いも新たに、いよいよ馬足を速くした。



 かなり辺鄙な土地であるのに、簡素すぎる家屋ばかりであるのに、やけに広い村。経験浅くまた疲労の極みにあって意識も朦朧としていた昂にも、違和感だけは感じられた。とても歩ける状態ではなく、光陰の背で中味の抜けた麻袋よろしくぐったり伏せて、金剛が薬種問屋らしき相手とやり取りするのも半ば夢の内で聞いていた。だが、村の中心とおぼしき通りを馬にゆられて行く内に、どうにも物売りの多すぎる場所に思えて来た。街と違い、またかの怪虫に襲われた村とも異なり、客を呼び込む商人以外は皆奇妙に乾いた力無い顔で、服装にしても質素と呼ぶより粗末に近い状況。
(何故だろう…商業で潤っているみたいなのに)
 だが考えるには少年の体力は余りに些末であった。どうやら今夜泊まるらしい、酒場兼宿の建物が随分と大きい…そう感じたのが最後の記憶であった。



 ここは湯治場らしい。例の火山を湯元とし、知る人ぞ知る名湯だとか。
 良くも悪くも温泉街らしく猥雑な活気に満ちた場所ではあるが、金剛の目指したは幾分赴きの異なる宿である。主人に医術の心得あり、ひたすら養生の場を供する静かの宿。中華の薬膳にも似た暖かな料理に特別選んだ鉱泉を飲用に添えられ、昂も漸く一息付けた。さらには既に金剛と、顔馴染みの主人が窓も小さく鍵頑丈、目立たぬ部屋に専用の湯、さらには離れの厩をも供してくれ、追手に殊更気を揉む必要も無く。
 口は堅いが話好きと言う変わった性分の宿の主人は、こたびの旅と関わらぬ金剛の幾分古い武勇伝を聞きたがって時折部屋を訪れた。ついでに主人に体調を診て貰いつつ、昂は久しぶりにゆったりと寛ぎながら治療回復に専念していた。



 そんなある日。
「…、…」
「…!…?」
 扉の向こうで何やら人声がする。そろそろと身を起こして見ると、寝室と居間との間の扉はぴたりと閉められている。
(あれ?いつもは少しは空けてあるのに…?)
 病人の眠りを妨げたくはないが、かと言ってあまり疎外を味わわぬようにとの配慮で。
 ほとんど開け放してあるため気付かなかったが、この扉、室内の物ながらかなりの厚み。扉の四方に自然と生じるはずの隙間も、丁寧な採寸のためか光もわずかしか漏れぬ。
 不意に不安を覚え、悪いとは知りつつ抜き足指し足扉に近づき耳をそばだてる。

「では全く人柱ではないか!三年ぶりとは言え以前と様相が変じ過ぎたとは思ったが…」
「おっしゃる通りで。奴等も一昨年位はまだ数も少なくおとなしいものでしたが、どう言う訳でしょう、急に数を増して…恥ずかしい事ですが、手前どもも貧民達をこっそり遠くへ逃がす程度しか…」
「しかし!元を絶たねば!…どうにもならぬ…」
「左様でございます…」
(何だろう?この街、やっぱり何かあるのかな?)
「…つまり、わたしに退治を願いたいとの心積もりである、と?」
(…え!)
「そっ!そんな滅相もございませんよ!…ただ、」
「腕利きへの口利きを期待している、と」
「…手前どもはお客様方に奉仕するが勤めでございます。かような下心、忌むべきとは分かっておりますが…しかし…」
「ふむ…」
 考え込むように間が生じた。
(何だか…深刻だよね…)
 知らず顔も蒼ざめる。ここにもどうやら何らかの怪物の強襲を受けているようだ。
(例の火気の乱れと関係あるのかな?或いは…魔界の手の者、とか。それにしても『人柱』って?)
 わざわざ病人を遠ざけた気遣いを無にしてしまった事に気付き、そっと寝台へと戻ろうと歩き出すが、いかんせん灯明皆無の暗闇故、すぐに派手につまずいてしまった。
「痛ッ!」
「昂!?」
 思いの他響いた音と昂の小さな悲鳴に重い扉が直ぐさま開かれる。
「あ…ご免なさい…」
 逆光で金剛の顔は一層厳しく見える。立ち聞きを恥じて昂の声は消え入りそうだ。扉に手をかけた体勢のまま、身じろぎもせぬ相手を見れば尚更。
 ややあって、男は頭を巡らし、不安気に様子を窺っていた宿の主人へ向き直る。
「すまぬが、暫く日数が欲しい。今夜の所は戻って貰えぬか?」
「はい…承知しました」
 二人の客に型通りの辞儀をして、主人は退出して行った。


「ご免…」
「…怪我はないか?」
「え?」
「転んだだろう」
「あ、ええと…」
 慌てて起き上がり全身を確認する。毛足の長い絨毯のお陰か、挫いた様子もない。
 金剛もふっと表情を和らげた。
「まだ病み上がりだ。もう寝た方が良いだろう」
 予想に反して立ち聞きに対する説教は始まらない。思い切って尋ねて見る。
「あの…さっきの話、退治って?」
 途端にみるみる険しい面となる。
「早く、身体を回復させる事だ」
 そのまま踵を返し居間へと戻ると見えた…
「ちょっと待ってよ!余計気になるよ!…僕らに手助け出来ないの?」
「…ここの主人に口止めされている。旅人の懐が頼りの街だけに、事をみだりに公にもできぬ」
「みだりにって…僕が言いふらすとでも思っているの!」
「そうは言って…」
「教えてよ!ここの人達、あの光陰や磐石の古郷の皆と同じに苦しんでいるんでしょう?あの時は金剛、助けようって思ったじゃないか!」
「今度の件は違う!あの虫どもより遥かに忌まわしい物だ!話すだけでもお前の身体に触る!」
「もう大分戻っているよ!第一、僕には龍王の剣がある!」
「いい加減にしろ!病み上がりの身にはきつ過ぎる試練…」
「『試練』て、言ったね?」
 偉丈夫の顔が瞬時に蒼ざめる。
「ねえ、金剛隠しているよね?…『誓約の儀式』って、僕が何か『試練』に打ち勝つ必要があるんじゃないの?」
 瘴気の残した傷は深く、身体はまだ痩せたまま。纏う衣装も全くの寝間着だが。
 …瞳は強く射抜く。
 金剛は、王者の片鱗を目のあたりにした。

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(C)獅子牙龍児
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