四章 腐鬼 (3)


「何故、気付いた…」
「だって、おかしいと思った。金剛は厳しいけれど優しい。僕の身を何より案じてくれるのに、どうして強引に、あんな危険な虫退治をあんなにもあっさり引き受けたのかな、って」
「…」
「僕だって力になれるならなって上げたい。でもあの時の金剛、まるで僕の意志なんかお構いなしだった。何だか、異様に差し迫った事情があるとしか思えなかったよ」
「…感づかれていたとは、な」
「それだけじゃないよ」
 きっと、さらに見据える。むしろ必死の、涙を堪えるような眼で。
「闇甲虫と戦っていた時、僕に業と手柄を取らせたね?」
「何の事だ」
 究めて冷静で事務的な声。だが、長い付き合いで微妙な差異はすぐ見分けられる。
「とぼけないで!あの時、業と…沢山の虫の餌食になったね?」
「!」
 仮面が剥がれる。
「僕に、より多くの虫を倒させるために、ね」


「全部の虫を倒した後、金剛が剣の覆いを取って調べていた事も気になっていたから…何も変わらない剣を見て、金剛とてもがっかりしていたから。もしあの時、僕が剣を変化させていたら…どうなっていたのか、ずっと気になっていた…」
「昂…」
「僕、毒にやられて身体も満足に動かせなかった。また金剛に助けて貰ってばかりいる。でも、僕だって何かしたい、今の僕にもできる事はある筈だって思って…ずっと、考えていたんだ」
「ずっとだと!?休んでいたのではないのか!前にも言っただろう、今のお前は繭から剥き出しになった幼虫も同然だと!」
「あの時!僕、辛かったんだから!」
 突如悲壮な叫び。理詰めで偉丈夫を追い詰めて来た少年の声が、ここへ来て一変した。いっそ泣き出しそうな響きに、さしもの金剛も怒気を抜かれる。
「昂…?」
「だって、だってついさっきまで傍にいた金剛がいつの間にかあんなに離れた所に行ってしまって、あんなに…身体が見えなくなるまで虫だらけになって、倒れて!大怪我をして!」
「見た眼程の深手ではなかったのだ、実際すぐ…」
「嘘つき!毒は?毒の傷だけは治しようがなかったでしょ!第一…」
 少年の瞳が潤みだす。急に激昂した昂に戸惑いを隠せなかった金剛だが、それは昂にとっても同じ事、自分でも金剛をこれほど激しくなじる気持ちはなかった。だが、一旦堰を切った思いは止まらない。
「第一、傷は治せても、痛みを感じるのは…同じじゃないか!」
 血を吐く様な叫びとともに涙も溢れ出す。さらに言い募ろうと口を大きく空けた刹那、
「あ、れ…?」
 ぐらり。急に糸が切れた様に少年の上体が大きく傾ぐ。視界の中の絨毯の模様が、ゆっくりと大きく膨らんで行くのをぼんやりと眺めた…
 さっと、太い腕が差し出される。
「あ…金剛?」
 男には先程までの、売り言葉に買い言葉の怒りも無ければ言い訳じみた弁解に窮する様子もない。激しい感情の感じられぬ、それでいて深いまなざしで少年を見つめていた。
(初めて会った時も、こんな瞳だったね…)
 急な脳貧血で意識に霞がかかったままの状態で、そのまま寝台へと戻されてしまった。


「熱が、ぶりかえしたな」
「ご免なさい…」
「いや、構わぬ」
 静かな、労るような声に却って身が縮む。自分の言葉自体は実際ずっと言いたかった事ではあるが、今し方の様に暴走する感情のままに吐露したかった訳ではない。しかも自分の感情を制御できなかった事実でもって、結局自分が言う程本調子でない事を曝露してしまった。
「ご免…僕、頑張って良く治すよ。金剛が心配しないで済むように…」
「まだ、辛いか?」
「え?…横になっていれば、目眩もないよ」
「いや、わたしの事だ。お前は…今の今もわたしがお前のために傷付いていると、心を痛めているのか?」
 ゆっくりとした言葉とともに、大きな手が少年のまだ少しぱさついた髪を撫で下ろす。
(痛めているか、って?)
 痛むどころではない。
「辛くて苦しいよ…だって、皮膚どころか肉がざっくり斬れて、血が沢山出るんだよ?僕は臆病で意気地なしだから、転んだ位でも涙がにじむ事だってあるのに、刃物で間違って斬ったり火傷したりした時は、本当に痛くて傷が治っても痛みだけを思い出して忘れられないから…だからいくら金剛が強いからって、あんな無茶、しないでよ…」
 視線が金剛を離れどこか遠くへ向かい、興奮と熱で紅潮していた筈の顔が再び蒼ざめて行く。毛布の端をぎゅっと掴んで震える様は、見ている方が痛々しい。
 昂が傷つく金剛を案じるのはただの憐憫ではない。優しき魂は、相手の痛みをそのまま感じ取ってしまうのだ。いかに強靭の腕で庇ったとて、己の痛みを守るべき者が感受すれば何とする。
 ならば。
「昂」
「うん…?」
「全て…とはいかぬが、今わたしが話せるだけの事を伝えよう。あるいは、お前の心痛が幾許なりとも軽くなるやも知れぬ」
 一度深く息を吐き、寝台の傍らの椅子に腰を降ろした。



 話は街への脅威から始まった。
 腐鬼と呼ばれる化け物がいる。人間に比べると背はやや小柄だが、鬼の名に相応しくがっちりとした体格で醜悪な容貌をし、殺戮を好む危険な怪物である。暗視に長け太陽光が苦手で洞穴の様な暗く湿った場所に住む性質で、あまり賢いとも器用とは言えず、粗末な器物しか作れぬが、なまなかな獣と違いそれなりの知性があり、食物や衣類の好みも共通項があり、特に光り物を集める習癖も預かって人間の集落を襲う事が実に多い。多少皮膚が固く腕力がある他はこれと言った技能はなく、戦うにも単純であるから一対一ならばやや人間に分がある。だが人間よりやや寿命が短い代わり繁殖力の強い種族のため、数を頼んで襲いかかる事が厄介である。必ずしも明確な統率者を戴く習慣を持つ訳ではないため、連携もなく作戦も単純であるのが救いではあるが。


「…ちなみに本来は山の向こうの、かなり離れた鍾乳洞を根城にしていたらしい。火の山とは言え、幾分離れれば熱も乾燥も弱まり、またあの山を抜ければ良くも悪くも水気の強い領域に入るからな」
「でも…最近、こちら側は火気が強まって乾いて来ているでしょ?ならどうしてわざわざより嫌いな気候の所まで移動してきたんだろう?」
「火気の異常は領域の境界を越えて悪しき影響をもたらした。水気の領域と言えども例外無く、腐鬼どもも住処を捨てて当ても無く散り出したようだな。闇雲に逃げ惑う内に、選りにも選って火気の只中へと迷い込むものもいた」
「そんな…」
「だがその不運な偶然は畢竟人間の不幸に繋がった。火山を越えてしまった腐鬼どもは、こちら側により豊かな人間の集落の多数あるを見つけてしまったからな。火の山を越えれば大して人間の集落もなく、気候の悪さもさして変わりがない、ならば…と奴等はこの一帯に定住を始めてしまったのだ」
「酷い!…でも、どうして火山の向こうにはあまり人が住んでいなかったの?『水』の領域の方が人間にも住みやすそうに思えるけど」
「水の領域にも火の領域にも人外の者は多数住まうが、水を好む種族程善きにつけ悪しきにつけ人間に関わろうとしがちでな、人間にして見れば余り気を抜けぬのだ。そうでなくとも火山に属する者達が魔物の浄化を司るに対し水の種族の役目は魔の監視、その乱行の抑えにはならぬため人が彼の地に踏み込めば魔性に喰われる事が多かったのだ」
「その魔性が…火気の衰えでこちらまで迫って来ているんだね」
「ああ。…差し当たり性急に対処すべき魔物、腐鬼の数はおよそ五百」
「!」
 淡々とした語りに却って恐ろしさが増す。

「不幸中の幸い…と言うのも不謹慎だが、連中は闇甲虫と違い一時に同じ箇所を襲う事はない。何も警備を分散させようとの腹ではなく、元来が怠惰な上に仲間割れをしがちで、てんでにばらばらに行動するためだ。この付近には他にも湯治場があり、この地のみ襲撃が集中する事はない」
「でも、それなりの大勢でもってやって来るでしょ?でも警護のための戦士を大っぴらに雇う事もできないでしょ?世間体を気にする前に、宿が襲われたら…」
「そこで、この街は『人柱』を立てる事にしたのだ」
 偉丈夫は苦々しく吐き捨てた。

「人の世には必ず豊かな者と貧しき者とがいる。貧しきは豊かさに憧れ街へと赴くが、持てる者全てが恵み深いとは言えぬ。また街とは概して持てぬ者に冷たく住みにくいが常。しこうして街の縁を巡る様に貧民窟が広がったのだ」
「あ…」
 初めて街に入った時かいま見た、粗末な身なりの虚ろな眼の人間達を思い出す。
「初めはただ邪険に追い払おうとしたようだが、腐鬼の襲撃が頻繁になるに連れ、より残酷な仕打ちを思いついたのだ」
「残酷って…」
 悪い予感に震えが来る。
「貧民達に、一応の衣食住を保証する。ただし彼等を一般の住民や旅人達と区別できるよう特別の印を身に付けさせ、夜間には絶対に居住区から離れぬよう強制する…」
「夜間…?居住区、って…」
 夜間は闇を好む魔性の時、そして貧しき者の住居は街を囲うように存在するのではなかったか。
「それじゃ!腐鬼に襲われた時、真っ先に…」
「だから、『人柱』だと言うのだ」
 発熱した筈の身体に氷に触れたような悪寒が襲いかかって来る。

「荷馬車の類は勿論、何ら家畜を扱えぬ腐鬼達は、両手に幾らか余る程の戦利品を得、人の血まみれの屍体の山を見ればそれなりに満足して帰って行く。城壁も高く厚くなまなかな悲鳴なぞ内には届かぬ、貧民窟の内情など街に住まう者が気に留める筈もなく、早朝にでも屍体の始末を済ませればますます隠蔽できる次第」
「なんて惨い…」
「多数の戦士で防ぐ、これも世間体云々以外にも困難があった。…実は、腐鬼には鉄の武具を腐らせる魔力があるのだ」
「鉄を腐らせる魔力…」
「正確には、その血に呪わしき力があるのだ。連中の血を浴びると鋼もたちまち鈍になる。並の剣であれば三度も斬れば使い物にならぬ」
「そんな!」
「多数の腐鬼の群れを追い払うには腕は無論の事、武器も腐蝕せぬ銀の物なり何らかの魔法で守られた物なりで向かわねばならぬ。さもなくば…悪戯に死人を増やすのみ」
 宿の主人の焦りも道理、それ程の武具を扱う戦士を秘密裏に集めるの至難の技。
(でも、僕達なら…)

 しかし少年の決意を読み取った様に金剛の言葉が降って来る。
「だがいかに龍王の剣と言えども、病人が扱えば木刀も同じ事だぞ」
「うん…でも金剛、僕が治ったら、できれば腐鬼退治をさせたいと思っているでしょ?」
 男の唇が珍しい程真一文字に結ばれ、眉間にも皺が深く刻まれる。やはり触れたくはない秘密が隠されている様子。だが初めに言った通り、覚悟は決まったようだ。

「わたしが未熟極まる若者であった時分、不遜にも王に成り代わろうと思い上がっていた頃…龍王の剣に拒絶したわたしは恐ろしい呪いの言葉を吐いた…」
「呪い?」
「七龍は…王に忠誠を誓うにあたり、各々が難題を要求する事ができる。七龍全ての難題をこなし、初めて王は七龍の主となる…」
 苦しげな声。
「難題の判定は全て剣が成し…初めの龍ほど軽いもので良く、後に忠誠を誓う龍ほど恐ろしい事項を定めねばならぬ。わたしは一の龍ゆえ、易しき試練を望めた筈だった…」
 膝の上に置かれた拳が震える。
「金剛…」
 少年の案ずる声に後押しされ、絞り出すように続ける。
「だが奢りと王と認められぬ事への怒りに満ちていたわたしは…愚かしい激情の赴くまま叫んでしまったのだ…」
 頭が苦しげに垂れる。背が曲げられ、歴戦の古兵とは見えぬ。
「わたしが今まで成した勲…まだ子どもと言える時分にこなしたものだが、人間には厳しすぎる難題を…四つも!」
「金剛!」
 頭を抱えて屈み込む様相に昂も目眩を押して起き上がる。
「駄目、駄目だよ、そんなに自分を責めたら。僕、早く治して、頑張るから…要は、僕が試練を果たせば良いでしょ?」
「その試練が…一の試練が…百人を殺す、と言うものなのだ」
「!」
「それも、ほんの一日…いや半日ばかりの間で」
「…」
 血の気が引く。昂は、男の苦しみを和らげようと伸ばした手を、覚えず戻していた…


「わたしは力に溺れ、かつては非道の限りを尽くしていたのだ…」



「まだ、人で言えば十五ばかりの頃、争い事が起きた際に百を越える人間を斬って捨てた事があった…敵とは言え、こちらには人外の魔力があり、何も殺す必定は皆無と言うのに…恐怖と激痛に歪む相手の顔を…当時のわたしは楽しいとさえ感じ、逃げ惑うを無理に追い、惨殺した…」
 聞き手の少年の方が震え始める。まだ、昂は殺人を犯した事がない。
「だが我が故郷は勇武を殊更尊び、さらに既に七龍の一と知れていたわたしを非難する者はおらず、里の大人達はむしろ羨望の心でわたしに『百人殺し』の二つ名を授けた…自分でも、誇りにすら思っていた…」
 よろよろと、男の面が上がり、震える少年を見つめる。
「わたしは…わたしはお前の手を汚したくない…お前の優しき魂を砕きたくはない…だから、あの虫どもを生贄にしたのだ」
 金剛が業と虫に我と我が身を襲わせたのも少年の試練を助けるがため。
「しかし剣はかの退治を試練とは認めなかった…」
「腐鬼なら…腐鬼なら認められる、の?」
 少年の声も震えて痛々しい。
「分からぬのだ…」


 既に蒼白となっている少年にそっと手を伸ばし、優しく寝台へと横たえてやる。その手を拒絶されなかった事だけが救い。だが昂の身体の震えに胸が痛む。
「済まぬ…蔑まれても仕方の無い事だ。今は…休んでくれ…」
「でも、金剛…」
「…何だ?」
「もし僕が腐鬼を倒せたら、そして試練と認められたら、金剛が…龍に戻る日が近づくよね?」
「…!」
 息を呑む。そして少年の瞳は全く真摯。
「僕、頑張るから…まだ未熟過ぎる王様だけど、きっと金剛に龍の身体を戻して上げるから…」
「…だが、まだ試練が残っているのだ…」
「うん…でも、今は言わないでね。全部一時に聞くと、却って怖くなりそうだから…」
「ああ…ではわたしは片付けが残っているが、今夜はゆっくり休んでくれ」
「うん…」


 ぱたん、と言う音が奇妙な程響いた。追ってやって来る居間の静寂が身に染みる。
「お前は…わたしを恨まぬのか…」
 昂が震えていたのは、金剛の残虐さを恐れてではない。試練の困難さに、金剛の龍身への復活の遅れるを恐れてだった。
「話さねば良かったかも知れぬ…」
 試練が誓約に必須、そして金剛の封印の解放には試練の成就が不可欠と知らねば、惨い難行から逃れようとしたのでは、との思いがよぎる。
「だが、もう逃げぬのだろうな」
 昂はそんな少年だ。だからこそ、生涯仕える覚悟も生まれたのだが。
「宿命の星よ、何故斯様な茨道を彼の者に用意した…」
 天上の星々は、無言のまま輝くばかりである。

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(C)獅子牙龍児
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