四章 腐鬼 (4)


 立ち枯れ、と言うより立ったまま腐った木々の中、少年は先に立って歩いている。相も変わらず身に余る様な大剣を背負って。
「ねえ、地面が湿って来たよ!宿の人が言っていた所が近いみたいだね!」
 はしゃぐ様な声。だが、作ったものだと容易に知れた。


 金剛の苦悩を他所に、昂は治癒に専念し、湯治の効果も相まって程無くして回復した。それでも暫くは襲撃もなく、宿の主人も話題を蒸し返す事もなかったが、一昨日事件は起きた。30近い数の群れが、夜半に襲いかかって来たのだ。そればかりなら、突き放した見方をすれば今までも多々あった事。しかしながら、たまたま夜中にふらふらと街の外に出て巻き込まれた者がいたと言うのが騒ぎの発端。
 正確に詳細を述べるならば、単に貧民を蔑み悪辣をしかけた愚か者が被害にあったと言う全く憐れみに値せぬ事態。だが人の世は理不尽なり、その者少しばかり身分と金のある人物であった事、また自分の悪事を棚上げし魔物の即刻の撲滅を脅迫めいた態度で要求して来たとあっては街も今度ばかりは動かざるを得なかった。既に周辺の街や村への襲撃の模様を集めていた金剛、事態の急転と恩ある宿の主人の困窮ぶり、また主たる昂の懇願もあって遂に退治に赴くことに相成ったのだ。
 もっとも楽観視できぬ状況故、まずは偵察と言いおいて連中の根城に向かったのだが。
「でも足跡みたいなもの、見えないね?まだ少し先なのかな?」
 しきりに明るく話し続ける少年は、一度も振り返ろうとしない。

 蒼ざめた顔色を隠しているのだ。

(腐鬼は闇甲虫とは違う)
 まさしく獣(けだもの)と言うべき連中だが、二本足で歩き二本の腕で掴み目鼻口耳の揃った顔を持ち理解は出来ぬが確かに言葉も使う。虫けらを踏み潰すのとは訳が違う。
 身体の大きさも異なるため一撃で仕留めるはより困難で、原始的ながら武器を扱う相手故、間合いも注意が必要と言う純粋に戦術的な問題は元より、金剛としては昂の精神が心配であった。当の少年が、そんな様子を微塵も見せようとせぬため尚一層。
 主の無駄な囀りを適当に聞き流し、いざと言う時の退路の確保のため、地形の把握に集中した。

「ねえ、腐鬼って夜行性みたいだけど、昼間は眼が見えないとか眠いとかなの?」
「…太陽の陽射しに弱い事は確かだ。我らより遥かに眩しく感じる筈。だが全く盲(めしい)と言う訳ではなく暴れるに支障がでる程ではない。油断は禁物だ」
「だいじょうぶだよ!だって僕には金剛だって付いているし、剣だってあるし?」
 擬音で言えばけらけらと笑いながら剣を戯れに振り回す。あまりに不自然な少年の様子に偉丈夫の顔面いよいよ険しさを増す。
「昂!」
 あまつさえスキップまで始めた主に堪らず、金剛は無理やり肩を掴んで引き戻した。


「な、なに…?」
 顔色を誤魔化そうと無理に笑うが痛々しい。
「今日の所は…戻るぞ」
「え!?だって、まだ腐鬼の住処だって…」
「今のお前には無理だ!虚勢で戦うには荷が重い」
「きょ、虚勢!?僕虚勢なんか、張ってないよ!」
「では…」
 すうっと男の双眸が細くなるのに後退りするが、それより先に腕が伸びて来た。思わずすくめた首に、がっしりとした手が添えられる。
「では、この随分な汗は何と解すれば良いのだ?」
「あ…」
 鋭い言葉に体温が下がる。
「帰るぞ」
 静かになった少年の肩を抱いて来た道へ戻ろうとした、その時だった。

「なっ…!昂、伏せろ!」
 どんと叩き付けられるように地面に押し付けられた。痛いと思う間もなく辺りに拳ほどの石と…どう見ても矢としか見えぬ物が降り注ぐ。少年に多い被さった偉丈夫が、かすかに呻く声が聞こえた。
(これは…まさか…!)
 凶器の豪雨が途切れると、今度は身も凍るような奇声が近づいて来た。
(腐鬼!)
 瞬時に起き上がり剣を構えるが…
「何と言う事だ!」
 さしもの豪傑も呻かざるを得ぬ。敵は四方八方より、木立の合間悉く埋め尽くし、蟻の這い出る隙間も無し。
 いつの間にか退路は絶たれていたのだ。

 自らの優位を確信してか、ヒヒと下卑た笑い声の嵐。じりじりと包囲を狭めて来る。
「昂…退治など考えるな!血路を開く!」
「…うんッ!」
 抑えていた震えがこの期に及んでぶり返す。だが敵は甘くはない。
 獣(けだもの)が牙を剥き、一斉に襲いかかって来た!


(早くッ!倒さないと…!)
 無我夢中で剣を振り降ろす。狙い過たず、肩口より乳の下辺りまでばさりと袈裟斬り、まずは一体仕留めたと思った時、一拍間を置き少年の耳を狂声が引き裂いた…
 グゥゥギギィ…ギャアアアアアア…!
 響き渡るは断末魔の咆哮。心の臓を両断されながら土気色の肉体をよじり、臭気の血潮を雨よと降らせ、それでも足りぬか顎を臓腑が見える程に開ききり、黄ばんだ涎混じりの血反吐をごぼうごぼりと吐き散らす。既に得物は手放し瞳孔も開き意識もとうに飛んだ筈が、末期の叫びの残渣を洩らしながら昂に向かって奇妙に手指の曲がった獣の両腕を伸ばし来る。
「!」
 咄嗟に一歩飛び退くと、どどうと音を立てて屍が地を打った。ほんの少し視界が開けた所に別の鬼。…奇妙に下卑た声…
 確かに笑っている。口の端はこの上無く上がり文字通り耳まで裂け、黄と茶のまだらに染め分けられた無数の歯、鮫の様に無秩序に林立する牙の先を濁った粘液がでろりと結ぶ。ぬちゃり、笑いの痙攣に合わせて音が鳴り、背中に冷たい悪寒が走る。
(どうして…戦い、なんだよ?死ぬかも…ううん、仲間が今死んだんだよ?)
 足元の、死骸を思わず見てしまう。そこへ、ぶううんと大気の震え。
「くっ!」
 半ば本能で振り上げた剣、主を裏切らず…いや思惑を遥かに越え、棍棒を握り締め血管の醜く浮き出た腕をずばりと斬し、さらに潰れた頭蓋を半ばでえぐり取っていた。異様な体液と朱色がかった脳漿と濁した薄桃色の脳味噌の不定形な欠片とがずちゃりと飛ぶ。一体如何なる構造の異常ゆえか、脳が欠けても尚挙がる無惨な絶叫。倒れる間も奇妙に腕を振り回して…
「嫌だッ!」
 叫びながらも古の剣が教えたか、振り返りもせずまた一閃、グゥエエと吐き気を催す音声と共にまたぞろ生じた獣(けだもの)の屍体。頭が、おかしくなる!

 辺りは屍体の発する湯気と臭気で息も詰まる。恐ろしく濁り奇妙にごわつく皮、腐り切った肉にも似た臭気、異様に粘る体液…幾ら大気に触れても鮮やかにはならぬが、それでもその血は確かに赤い。
 そして、確かに痛みを感じている。
 昂は今、確かに殺しを行っているのだ。

(嫌だ嫌だ嫌だ…!)
 恐ろしい。面前の襲いかかる腐鬼も何もかも恐ろしい。恐怖で止まった思考に、絶え間無く閃光が走って腕を振り、気が付くとまた一つ、ぐちゃりとした物体が増えていた。
(嫌だ嫌だ嫌だ…!)
 目的語も修飾語もなくただ忌避の言葉が浮かび来る。怯えが全身を浸食し、嫌悪の感情が無敗の剣を重くする。
 ずぶずぶとゆっくり沈む剣を通じ、肉の悲鳴と抵抗が、不快な手応えとなって少年を襲う。ただただ生々しい感触から逃れたいの一心で、中途で剣を抜き取ろうとするが肉と体液が絡み付き果たせない。焦りに気を取られた所に、死に切れず暴れる相手の刃物が左肩に襲い来る。
「!」
 咄嗟に身をよじったものの、錆びた切っ先に皮膚を一寸ばかりえぐられた。負傷の認識に遅れて激痛、遮二無二痛みから逃れようと闇雲に身体を振り回すと、勢いでぐちょりと音を立て固い肉の傷を広げながら剣が抜けた。恐慌状態のまま何も分からずに剣を左右に振ると、今度は紙の様にすぱりと両脇の敵が肉塊と果てる。
「あ…」
 怯懦が切れ味を鈍らせる。意識の片隅に辛うじて残っている冷静さがそう判断を下す。だが今の昂にはその気になれば全てをいとも容易く斬して捨てる、龍王の剣すら恐ろしい。
(でも…でも戦わなきゃ…試練、そうだよ、試練、果たさなきゃ…)
 無理に自分を叱咤する少年の顔は紙より白く瞬きも絶えていた。

(倒さなきゃ…殺さなきゃ…)
 呪文の様につぶやきながら人形の様に剣を振るう。常よりさらに開き切った眼は却って機能を減じ、視界にはほんの一体の鬼しか入らぬ。耳もまた、然り。断末魔の叫びと殺戮の喜びの雄叫び、生物が解体される不快音、それら全てが鼓膜を直に侵し、ために聴覚が職務遂行を拒否する。昼間だと言うのに、暗闇にいる様な恐怖。ただその中で肉の手応えのみが奇妙に生々しく、昂の悲壮の決意をずたずたにする。自らを強いて戦いへと向かわす使命感、死と痛みを恐れる純たる恐怖感、敵とはいえ命を奪う事への良心めいた抵抗感、仲間の屍体をまたいで襲いかかり殺戮の笑いに満ちた獣(けだもの)への嫌悪感、それら全てが少年の小さな身体の中で葛藤し、渦を巻く。
 無心になれば良い。頭では分かっていたが、心が感情が悲鳴を挙げ続けていた。次第に理性的な決意よりも悲鳴の方が広がり、知らず身体の制御を乗っ取っていた。
(逃げたい!)
 何から、どうやって…そして本当に『逃げ』られるのか。そんな質問は今の状況では愚問に過ぎぬ。拒否の感情は最後に残った判断力すら圧死さしめ、昂は剣を地に突き立てうずくまった。
 瞬時、少年の意外な行動に鬼どもの動きが止まったが、じきに一斉に喜色に転じて襲いかかる!
「昂!」
 最後に男の悲痛な叫びが聞こえたような気がした。

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(C)獅子牙龍児
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