四章 腐鬼 (5)


 何か、めまぐるしく変わる映像がある。無数の物体が各々激しく姿を変え、暗い中を時折激しい色彩が突き抜ける。音声も付いているようだが、奇妙に遠く判じが付かぬ。全てが霞の向こうに思え、そして淡く薄くなり消えて行った…
「漸く撒いたようだ。もう案ずる事はないぞ」
 ゆったりとした声が降って来た、ような気がした。
「…おい?おい昂!昂、しっかりしろ!」
 朧に自分の名が聞こえる。
「しっかりしろ!わたしが分かるか!?昂!」
 暖かく強い感触が自分を包み、揺さぶっている。
 先まで感じていた感触とは明らかに違う。その事実が意識を覆っていた霧を払い、視界が次第に明確に転じていった。
 瞳に映る、偉丈夫。

「こ…ご…?」
 金剛、と発音したつもりが、喉も舌も奇妙に麻痺して無意味な音の羅列に。だが相手は確かに受け取った。
「おお、気が付いたか…もう、追われてはおらぬ」
 心底安堵した声の後、ふらりと視界が揺れて塞がれた。ぼんやりとした頭が、一歩遅れて抱き締められたのだと理解する。背に、優しい感触。
「嵐は過ぎた…奴等は見当違いの方角へと消えた。怯える事はない」
(奴等…怯える?何の事?)
 異常なほど回転の遅い頭でのろのろ考える。
(さっきの映像なんだろう?)
 子どもをあやすように背中をゆっくり撫で摩る大きな手を心地良く感じながら、ぼんやり記憶を探る。少しづつ、映像が鮮明になって来た。
 奇妙にくどくどしい印象の黒ずんだ赤の線、暗い地面に妙に目立つ崩れた赤味のプディングの様な物体、鼻を突き刺す臭気…それと、鈍い手応え、土気色。
(…!)
 ばらばらの記憶の破片が瞬時に合わさり、記憶が全て鮮明に。突如蘇る恐怖…
「いっ、やああああああ!」
「昂!?」
「うああああああ…」
 忌まわしい映像が絶え間無く襲いかかり、ただ衝動の突き上げるまま絶叫し続けていた…



「あ…」
 何か、口元を拭われる感触がある。ぼんやりと眼を開けると、金剛が白い布で昂の口の周りを丁寧に拭いている。眼が合うと、優しい笑みを返された。が、気のせいか疲労の色が濃い。
 意識がはっきりするにつれ、酸えた匂いが鼻に付いて来た。何だろう、と何気なく顔をそちらに向けようとすると、はっとしたらしい金剛にすぐに止められた。
「気にするな…それよりこれを飲め」
 差し出されたのは、龍王の清水ならでただの真水。ただ口にして始めて、喉も舌もひりひりと焼け、酸い味と匂いが自分の口中に広がっている事に気付いた。
「ぼ…く…?」
「いいから、もう少し飲め」
 二口、三口と重ねる内に、喉の痛みも治まって来る。先程の不快感、何故か覚えがあるような…記憶を探って蒼ざめる
「ぼ…僕…あの…戻し…た、の?」
「気にするな、と言った筈だ」
 もう一口、無理に飲まされ、金剛が水筒の蓋を器用に片手で閉めるの見て、そこで初めて男の左手がいまだ自分を支えたままであるのに気付く。
「も…へい…き、だから…」
 慌てて身を起こそうとするが、まるで糸が切れたように身体が利かない。片手すら上げられぬのに気付いて青くなる。そんな様子に全く構わず、金剛は昂の手元に置かれていた剣を拾うと、わずかに顔を歪ませながらも持ち上げ、少年の背の鞘へと納める。そのまま昂を抱き上げ歩き出した。
「だ、駄目だよ!」
 言う事を聞かぬ口と舌とを無理に動かしやっとで叫ぶ。
「重い…よ。僕、歩くよ…」
「無理だ」
 必死で告げた言葉は言下に否定された。
「歩ける位なら、わたしの腕から自分で逃れられる筈だ。…出来ぬのだろう?」
 穏やか口調であったが、普段のからかう軽さが微塵も感じられぬ。むしろ、伝わるは静かな怒り。


 結局、手もろくに動かぬ少年に偉丈夫の腕から抜け出す事など不可能の極みであって、馬の背にも抱えられて乗せられてしまった。



 馬上でも何度も気絶したような気がする。その度悪夢に見舞われ、落馬寸前になるを金剛に何度も引き上げられた。街についた今も、頭がふらふらする。着いたのが街の入り口ではなくて、ずっと迂回したうら寂しい一画であるのも、少年の浮遊感をいや増す。
(何でこんな所なんだろう…?)
 たっぷりと5分以上思案して漸く合点が入った。今さらの感があるが、一応街では腐鬼の事実は内密にする必要があるためと連中の悪臭が酷すぎるため、帰りは一旦街の外の貧民街で着替えてから来てくれとの話だった。これは街の有力者の要請で、昂や金剛は勿論、昂達の滞在する宿の主人も随分不快がっていたのを覚えている。もっとも、今の精神状態で都会の喧騒の中に繰り出す勇気もないが。
 少しは感覚の戻った頭をゆっくりと巡らすと、少し離れた場所で金剛が誰かと口論しているのが見える。身なりが良いから、恐らくは街の人間だろうが、それにしても金剛はあそこまで怒鳴り散らすのも珍しい。光陰の背に寄りかかりながら、ただその様をぼうっと見つめる。


 ブルル、ブルルルゥ!
「わあ!」
 光陰のいななきと小さな悲鳴。気が付くとすぐ傍に幼い子どもがいる。
「何すんだよ!おれ、別に…」
 何か小さな器を手に持って、馬の攻撃から庇っている。
「光陰」
 ヒヒン…昂が軽く名を呼ぶだけで、騒ぐ馬もたちまち静かに。子どもが眼を丸くする。
「凄いなあ、兄ちゃん!こいつ、一発でおとなしくなった!」
「そんな…」
 不意に褒められたのと。…子どもの姿に気付いて口ごもる。

 子どもは随分と痩せて服も穴だらけであった。あちこち酷く汚れて…ここ、貧民窟の住民である事は間違い無い。
(ここの人達が…もう何人も殺された…)
 知らず、涙がこぼれた。


「…兄ちゃん、兄ちゃん?」
「…え?何?」
「何って…怪我、やっぱ痛むのか?」
「怪…我…?」
 子どもの無心な視線を辿り、肩の傷へと眼が向いた。腐鬼に斬られた傷…
「…!」
 脳裏に浮かぶ情景。込み上げる吐き気に、酷くむせた。

「痛いかあ…ごめんな、兄ちゃん」
「ごめんなんて…」
 こんな、小さな子に非など無い。
「謝らなきゃいけないのは、僕の方だよ…」
「へ?どうして?」
「え…?」
 逆に眼を丸くされ、言葉を失う。

「兄ちゃん、偉かったじゃん!」
「え…?」
「おれ、あいつら倒しに行ったって聞いてさ、すげえオッサンかと思ってたんだ!けど、兄ちゃんみたいのがさあ、あんなの戦ったなんてさあ!」
「でも…」
 子どもの、眼の輝きと興奮気味の声が痛い。
「ほとんど何も出来なかった…ただ、逃げるばっかりで…」
 油断すると映像が蘇って来る。病的に頭を振り乱し、物理的に振り払う…
「…怖くて…」

「凄い!すげえな兄ちゃん!」
「…?」
 むしろ子どもの興奮は増すばかり。
「だってさ、兄ちゃん、泣く程怖かったのにさ、奴らの所、出向いたんだろ?」
「え…」
 実際、昂は無意識に涙していた。それを、この子は「凄い」と褒めるのは…?
「兄ちゃん、そんなひょっこくて泣き虫なのに戦ったんだ!それってすげえじゃんか!」
 光陰にもたれたまま…大きく瞬きする。

「あ!やべえ、おれ忘れてた!」
 戸惑う昂を他所に、子どもは頓狂な声上げる。
「おれ、おれさ、兄ちゃんにお礼しようとしてたんだ!」
「お礼…だって、僕は何も…」
「何もって戦ったじゃん!」
「でも…まだ残っているんだよ…」
「そりゃそうだけどさ、こないだの事あったから兄ちゃん行かされたんだろ?何も無かったらさ、本当は兄ちゃん痛くて怖い思いしないで済んだんじゃん?」
「え…でも」
「ほらほら遠慮しねーでさあ!一応さ、おれらにセキニンあんだからさ、黙って受け取ってくれよ!」
 ぐいっとばかりに差し出した、粗末な器の中には水がたっぷりと入っていた…酷く濁った泥水が。
 だが器の底も見えない事よりも、別な事が気になった。
「水、最近あまり出ないんでしょ?雨も少ないし…」
「ん、いいって!おれンちさ、こないだ一人減ったしさ…」
「減った…?」
「姉貴…奴らに喰われたんだ…」
 いっそ…淡々と…

 …涙が却って溢れてしまう。後から後から…堪え切れず愛馬のたてがみに顔埋め、子どもの様に泣きじゃくってしまう。泣いて故人が帰る訳でもあるまいに…
「お、おい兄ちゃんよお…そんな泣くなよ…」
「だって…」
 大切な家族が死んだのを、まるで日常茶飯事の様に静かに受け止める子どもの心があまりに痛い。当然と思ってしまう程、ここでは死は必然なのだ。
 この子に、もっと平和な暮しをさせて上げたい…

「…なあ兄ちゃん、ここらじゃ水は酒より高いんだぜ?」
「…うん…」
「な?涙だってタダじゃあねえんだ、そんなに流しちゃ勿体ねーだろ?」
「え…そう、かも…」
 子どもの理屈に少し笑む。
「お!笑った!兄ちゃん笑った!」
 我が事の様に全身で喜ぶ小さな身体…
「じゃ、喉も乾いただろ?ほら!」
 さらにぐいと差し出されて。

 光陰が泥の匂いを気にしてか、しっしっと言わんばかりに払おうとする。実際、金剛辺りが見ても…過保護だから…きっと慌てて止めるに違い無い。
 ふと、遠方を見た。幸い…と言うか、偉丈夫は何の話か相変わらず、こちらを見ずに激高している。気付く様子は全く皆無。
(僕が濁り水飲んだと知ったら…どんな顔するかな?)
 想像するとちょっぴりおかしい。そんな気持ちのままに、濁った泥水を受け取った。



「…あれ?」
 ふと我に帰ると誰もいない。独特の味のする…しかし想像した程まずくは無かった…水を一気に飲み干し、子どもに返した事は覚えている。けれど、その後子どもが何処へ消えたか記憶に無い。
(夢…?)
 身体は変わらず重い…


 ぼんやり過ごす内…漸くにして金剛が戻って来た。身体中に怒気をみなぎらせたその様子、結局折り合いはつかなかったものと見える。
「まずここで良く身体を清め、服も何も全て取り替えろとの話だ。臭いものは理由の如何に依らず一歩も踏み込めぬ、だと!」
 酷くいらいらした口調。昂も全く不快に思わぬと言えば嘘になるが、あのどうしようも無い疲労感は幾らか癒えていた。常に無い程激した金剛を逆にやんわり宥めつつ…と言っても馬上でへばったままではあるが…街の意向に素直に従う。

 粗末な小屋で全身を拭い用意されたごわごわする衣服に着替え、それでも戦いの残渣が消えて却ってさっぱりとした心地にはなったが、結局宿までの短い距離も光陰の世話になって帰って来た。金剛は報告に行くとかで慌ただしく出かけて行ったが当然昂は留守番、しかし寝る間際に飲まされた薬に鎮静薬でも混じっていたのか、一人取り残されたを不安に思い始める前にぐっすり寝込んでしまっていた。

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(C)獅子牙龍児
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