五章 沼地 (1)


「…ここ?ここが、本当にそうなの?」
「うん…」
「成程、これでは致し方あるまい…」

 沈黙する三人の前。眼の前は、呆れ返る様な広さの沼だった…



 傷を癒している内に、瞬く間に半月が過ぎた。
 金剛が言うにはあの恐慌の折、また無意識に鱗気を多量に放ってしまったらしい。とても信じられぬが、偉丈夫が言う所のその証左、あの後この方襲撃絶えて久しいらしい…この街のみならず、近辺の村々も。そのためか、『上』の連中も幾らか静まってはいる。
 それでも焦燥は募るばかり。

 金剛はともかく昂は傷も酷く膿み熱も高く、休もうにも悪夢にうなされ…いまだに身体は細いまま。金剛は昂の眠る間にあちこち巡り情報も集めたが大した収穫も無く、むしろ看病に専念する様になっている。かえって少年の負担になる事は分かっていたが…


 宿の主人に薬草と布を譲り受けに出かけた帰り、部屋の扉を開けようとした手が止まる。格別厚い樫の木作りだが、龍の聴覚がかすかな呻きを感じ取る。意を決し鍵を開けば…
 酷く苦しむ少年がいた。

「う…うう…ぐ…」
 夢の中ながら歯を食いしばり、さらには肩に巻かれた布まで引き千切り。荒された傷口は勿論、無理に線維に立てた爪が割れ、指先すら痛ましい紅色に。あれからそろそろ七日になるが、昂の傷は深くこそなれ治癒の様子を全く見せぬ。
(苦しかろう…)
 手の中の荷物を見る。昂の傷の根本は恐怖の記憶にこそある。薬草如きで癒えるはずも無いが、気安めにとまずはそっと汗を拭ってやる。
「う…あ……あれ?…金剛…?」
「ああ、眼が覚めたか。布を代えよう」
 途端蒼白になり顔を背ける。あの忌まわしきを想起させる、傷はなるたけ見たくはないのだ。

 改めて、広げられた傷を検分する。毎日毎日夢に苦しみながら掻きむしり、一日一日と酷くなる。意識があれば触れようともしないが、夢に恐怖を見ると無意識に腐鬼の為した痕を消そうとえぐろうとするらしい。加えて腐鬼の瘴気が細い身体を深く蝕み、ろくに食事も取れぬ有様。
 …この傷、たちまちに癒す方策も有るが。


「ご免、ね…」
 不意に弱々しき声が聞こえ思考を中断す。相手を慮り必死に笑顔を見せるその様、痛々しく。
(だが、傷が癒えれば…)
 昂は腐鬼退治に向かおうとするだろう。歯を、食いしばり。元より昂の負傷はそのまま退治に向かわぬ言い訳にもなっていた。金剛はあの一件来、腐鬼退治は如何にも荷が重過ぎたと思っている。このまま昂に長患いさせ街の幹部の催促をはぐらかし、頃合を見て出立しようと…信義にもとるが幼い主を思えば。
「早く治れば……っ…」
 言葉を紡ぐも傷に響くか、汗一筋伝い落ちる。
 …傷を治し一時の苦しみをさりつつ戦いに赴くと、長く苦しみながら戦いを逃れると。いずれが真実幸福か。
(だが、わたしは愚か者だ…)
 何より、目前の昂の苦しむ姿が耐えられぬ。少年が傷をえぐるは戦いを逃れる意図ではなく、おぞましき腐鬼を思い出させる因たる故。元は小さな傷であったが、今では心身深く浸食している。
(わたしは臣たるに相応しくない…目先に小事に囚われ、自らの罪悪感を和らげる事のみ考えている…)
 苦悶しつつも決意を固め、口を開いた。

「暫く、動かずにいてくれ」
「え?」
 首を傾げる少年の、まずは爪が幾つも割れた右手を掴む。両の手で慈しむ如く包み込み、そっと念を凝らせば…
「あ…!」
 そろそろと、白き煙。全くかの虫どもに襲われ倒れたあの時に、偉丈夫の全身より発したあの煙。と、少年の手の感覚が変ずる。
「あれ?痛く、ない?」
 眼をぱちくり、解放された自分の指を見れば、不可思議な事に爪も何も元通り。
「金剛って…」
 自分以外も治せるのかと思った所へ、また。今度は左の肩の上。見るも厭わしきあの傷に、暖かに力強き波動が染み渡る。心地良さに眼を閉じまどろむ事、数分余り、掌の離れ行く気配に眼を開ければ…あの激痛、全く霧散。おそるおそる、眼を向ければ…無い!ケロイドどころか痣すら見えず、全く健康至極な肌となっていた。
「凄い…!」

 ぱああと顔が輝くのも先を思えばかえって痛ましい。
「だが治ったのは傷だけだ。…身体はまだ、無理だ…」
「うん…でも、ありがとう」
「いや、当然の…事だ」
 治癒の術はむしろ体力を幾らか奪う事、痩せた身体は治せぬ事をよく伝え、簡単な食べ物を傍の卓に用意して…複雑な心を抱きながら退室した。


 痛みが消えると、衰えた身体を回復させんと自然の働きで睡魔が起こる。それも、これまでと違い実に心地よい誘惑。抗するは難しい。
「金剛…」
 そっと、癒された傷を探る。もう、昂自身ですら位置が全く分からない。少年の恐怖を思った金剛が、特に留意し術をかけたに相違ない。
 そして。術を行う時、男は確かに苦悶の表情を浮かべていた…

 術に力を要するのも確かだろうが、偉丈夫は肉体の苦痛はまるで構わぬ。あの豪傑を苦しめるは…
「僕…」
 自惚れでなく、ひしひしと感じる。龍は酷く主を案じている。だから、方策がありながら長く傷を見て見ぬ振りをし、なおかつ結局治癒術を使ってしまったのだ。
「僕を、危険に向かわせたくないから、だね…」
 実際、あの情景を欠片なりとも思い出せば、たちまちぶるると身体が震える。正直、五体満足で向かっても勝てるとも思えず。だから、悪夢を出来うる限り消し去りたくて、男は殊更念入りに治癒を行った…
「でも、それじゃ甘やかしだよ…」
 相手を深く案じているのは金剛ばかりではない。
 ささいな事に揺れる心を叱咤しつつ、静かに覚悟を決め…まずは回復が先決と、今度こそ睡魔の招きに従った。



 きびきびと歩くと、男が複雑な顔を見せる。
「無理は、していないよ。今は金剛が付いているし」
「それはそうだが…」
 漸く床上げした昂の身体慣らしに良かろうと、部屋から連れ出したのは金剛だが、予想以上の回復振りを目のあたりにし苦悩の色が窺える。
「…でも、まだ剣は扱えそうもないけど」
「そうか…」
 幾らか安堵。もっとも、背伸び虚勢が全く子どもじみた所作だと主が気付いたのも成長の証で、本来喜ぶべき事態なれど虎口へ追いやる時を早めた気がして辛い。
 確かに昂は無理無茶は止めたものの、それがために身体が戻るのは早まっている。
「光陰にも、磐石にもずっと会っていないしね」
 穏やかな笑みを見せて。
「そうだな、お前の笑顔は馬どもには何よりの薬」
「そうかなあ、照れるなあ…」
 頬を少し赤らめて。…龍の英傑にもその微笑みは妙薬であった。


 だがその穏やかの時も束の間。暗い影は徐々に包囲の網を狭めつつある。


 昨日も。買い出しに出た金剛がたまたま人気の少ない路地を歩いていた所を襲われた。苦もなく返り討ちにしたものの、相手は明らかに玄人、それも暗殺者である。尋問するより先に自決されてしまい詳細は分からぬものの、例の噂と金剛の所在を突き止められた恐れがある。
 暫し絶えていた腐鬼の襲撃がまた始まった。場所はこの街ならで街道の一つ、それでも被害が甚大であったのは時刻が早く人通りの多い頃だった事、また連中が何故か連携のとれた動きをしたのが理由、何が因かは分からぬが、昔の腐鬼とは明らかに行動が違う。
 もう一つ、宿の主人が弱り顔でこぼした愚痴があった。先に襲われ辛くも逃げた貴人とやらは何でも近隣治める領主の息子らしいが、そのどら息子が何と自ら鬼退治に行かんと躍起になっているらしい。ただただ幼き頃よりかしずかれ甘やかされた愚者だけに、逆らうものは何であれ許し難い模様。ついで光り物好む鬼の習癖、連中の巣穴には相当額の宝物があると言う噂も預かって、街の人間まで巻き込み大変な騒ぎの様子。もっとも先の二つの話程には気に留めずにいたのだが…
 己の力量を知らぬとは恐ろしい。



 厩舎からの帰り道。宿屋の主人の心尽くしで二人の部屋は宿の離れに用意されたから、他の客達とかちあって無用の詮索される不安は無い…筈であったが。
 偉丈夫の足が止まった。

「金剛?」
 不思議に見上げる少年の前、男の顔が奇妙に険しく…耳そばだてる。程なくして、昂の耳にも触る怒鳴り声…加えて、それを宥める声も。聞き覚えのある必死の声は恐らく宿の主人のものだろう。

「どうか、どうかお考えをお改め下さいまし!」
「もういい!お前らには頼まねえ!」
 若く激高した怒声と荒い足音が響き、しかもこちらに向かって近付く気配。
「昂、下がっていろ!」
 ただならぬ様子に昂も素直に従い、そっと男の陰に隠れた所へ。
「どけどけッ!」
 まさしく声の主が、怒りの形相もそのままに現われた。


「何だあ…?」
 見知らぬ顔に毒気を抜かれたか、幾らか勢いを和らげ若い男が尋ねて来た。不審の表情のその人物、身なりは全く裕福だが、色布を顔に袈裟掛けに巻く辺り、どうやら片目を痛めた様子、ただの商人の類には見えず。少し変わった、動きやすい衣服だが、戦士で無い事もまた明らか。…どこぞのお偉方の不肖の息子、と言う辺りが正解か。そこで昂は思い出す、先日の腐鬼の襲撃で街の住民に被害が出た事を。また、その経緯をも。
 遅れて、少し太った主人が現われた。
「こ、これは金剛さ…」
 名を呼びかけて慌てて口塞ぐ。が、時既に遅く。
「金剛?…なるほど、このデカブツが例の戦士って訳かい?」
 …無知とは恐ろしい。心底馬鹿にした風で偉丈夫を斜めに見やる。
「おい!返事しろよ!お前、金剛ってンだろ!」
「…如何にも、わたしが金剛だ」
 動じる英傑では無いが、主人は間に入ろうとひたすらおろおろ。
「じゃあよ、腰抜け戦士め、退治もしねえでナニ油売ってんだア?」
「…貴殿に応える義務は無い」
 無礼な物言いにも眉一つ動かさず。流石に気圧されたか後退るが、そこで小さな昂の存在に気付く。
「ああ?連れが怪我して動けねえって、コレの事かあ?」
 いきなり無体な腕が昂に向けて伸ばされるが、これは金剛素早く払う。
「…何をする」
「おいてめえ!誰に口聞いてるか分かってンのかあ!」
「さあ、な」
 金剛の声は常に無く低く冷たく、傍にいた昂すらぞくりとする程であったが愚者はかえって逆上し。
「俺はなあ!未来の領主サマだぜ!この辺り一帯親父が死んだら…いや今だって俺のモンだ!逆らう奴なんざいねえさ!」
 …一同、言葉も無く。恐れ入った訳ではさらさらなく、嫌悪と幾らか憐れみすら覚えて。

「ああ!?何だてめえら、生意気だ!」
 追従に慣れた若者は、容易に怒りを破裂させる。
「大体なあ、お前らがチンタラやってんのが間違いなんだよ!こないだだってよ、大言壮語して怪我しか持ち帰らなかったって言うじゃねえか!」
「た、大言など滅相もございません!金剛様は自ら危険な偵察の任を勤められ…」
 驚いて主人も割って入るが。
「大体よォ、そこのガキだっててめえの足で立ってるじゃねえか!さっさと退治に行けよ怠け虫!」
「…!」
 『怠け虫』の一語は酷く昂の心をえぐったが。
「無礼は、大概にしてもらおうか!」
 …怒りを見せたはむしろ金剛の方であった。


「この痩せ具合、顔色の悪さ…どれ程弱っているか、分からぬのか!」
「へ、お前らの代えなんざ幾らでもあらあ!黙ってきりきり働け!」
「…何だと」
 ゆらり。偉丈夫の上体が不穏に揺れる。
「な、なんだあ?やろうってのか」
 いきがる若者に冷や汗が流れるが。不意ににやりと笑って笛を吹く。
 ピィイイ!鋭い音に遅れてどやどや足音複数。どこに隠していたのやら、各々物騒な得物を抱えたならず者、五人ばかりが現われる。蒼白となる主人は勿論、金剛も焦りを隠せない。
(わたしとした事が…)
 今、昂には剣を持たせていない。武装すれば昂が本調子と思われて面倒だから…と言うのは表向き、心身共に深く傷ついた今の昂に、殊更王の自覚をさせたくなかったからだ。
 無論、ならず者の五人など物の数でも無いのだが、領主の息子と仲間となればうかつに切り捨てる訳にも行かず…
「まっ待って下さいッ!」
 がたがた震える宿の主人が、紙の様に白い顔色もそのままに、突然無法の若者にすがりついた。


「どうか、どうかご容赦を!この方々は街のためにご尽力下さっているのでございます!」
「ああ?尽力って何したってんだ?金貰って働かねえのは泥棒だろ?」
「何をおっしゃいます!金剛様はその様な方ではございません!若様、どうかお静まり下さい!」
「第一、こいつら来るまで鬼ども大してやってこなかったぜ?何だか妙な噂もあるしよ…こいつらが化け物呼び寄せたんじゃねえのか?」
「滅相もございませんッ!」
「おいてめえ…俺の言う事聞けねえで、こんな他所者庇おうってのか?」
「…わたくしどもに取って、お客様と言う物は農民の田畑も同じ物にてございます。田畑は民草の命、血税の源…これをみだりに奪ってはあなた様方もお困りになりましょうぞ…」
「へえ…」
 主人はぶるぶる震え、声も酷く裏返っている。が、一歩も引かぬこの気迫。
「だがなあ、俺達は本気で頭に来てるぜ?今まで楽しくやって来たのによ…こいつら来るまで俺らがお楽しみの最中襲われるような事無かったんだぜ!」
「な!」
 人の良い主人の蒼白顔が、一転憤怒の面相に!
「あんたこそ何を言ってるんだ!あんたが、あんたが付け火だの何だのしなければ…第一あの娘は婚礼を控えていたんだッ!」
(え…!)

 『姉貴…奴らに喰われたんだ…』

 確か…あのとき子どもがそう言った…!

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(C)獅子牙龍児
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