五章 沼地 (2)


「…な、何だいきなり…」
 平身低頭をかなぐり捨てての猛攻に、さしもの若者もうろたえる。
「気立ての良い、娘だったのに…あんたが自分の命惜しさに鬼どもの前に置き去りにして!自分だけ逃げた!」
「うるせえ!」
 バシリ!鋭い拳に、主人の身体が床に叩き付けられる。口の端が切れ、血が流れるが。
「殴るなら殴れッ!だが儂は貝にはならんぞ!あんたは…ッ!」
「黙れ!」
 再び振り上げられた凶行の拳は、強固な腕に掴まれた。

「てめえ!放しやがれ!」
「…弱い者ほど、己より弱い者を無為にいたぶる…」
「何だと!?」
「違うと言うなら止めるのだな」
 恐ろしく低い声。また、悪辣の者を戒める腕、万力の如し…
 今度こそ、彼我の実力の差を悟ったか、あるいは単に潮時と思ったのか。
「チッ!覚えてろ!」
 型通りの捨て台詞を残し。…愚か者は足音も荒く去って行く。
 再び、静寂が支配した。


「…立てるか?」
「いや、どうぞお構いなく…金剛様」
 主人の顔は元通りの温厚さである。それだけに血の跡が却って生々しい。
「あの…」
 思わず手巾を差し出す昂だが、これもやんわり断わられた。
「いえいえ昂様、貴方様こそ静養が肝要でしょうに…お見苦しい所をお見せ致しました」
「そんな…」

「奴が例の『御子息』、か」
「左様で…」
「人より余程、腐鬼に近いがな」
「…」
 人目も絶えたとは言え、流石に主人も黙して語らず。それでも伏せた面と震える拳が全てを語る。
「とは言え…人様の事を言える義理では無い身が恥ずかしゅうございます…」
「…え?」
「あれは…門の外に住む民は、同族でございます…」
 二人の眼の前で、主人はがっくり膝を付く。



「…実を申しますれば、一族の中で自分一人、のうのうと暮しているのでありまして」
 ここは厚い扉の内、昂達の部屋である。余計な者達に立ち聞きされる心配は無い。…主人自ら給仕する、佳い発酵茶の香り…
「昔日は手前どもの一族は、ここより幾分離れた土地に田畑を耕し住まっておりました…」
 至極尋常な、畑仕事の毎日。温暖な気候と火山の傍とは思えぬ程の地味にも恵まれ、毎年豊作を誇っていた。採れた作物は皆味も佳く、往時にはこの辺りの上宿に随分と卸していた…
「それを、不遜にも『退屈至極』などと思い…一人、土地を離れて商人を致しまして…」
 幸い、運にも恵まれ大した身代を築き。故郷に錦を飾るべく、帰って来た…が。
 ある日を境に、全てが一変した。

 宿の主人が同胞の危急を聞いて駆けつけた時には、豊かな田畑は跡形も無かったと言う…


「どうして!何が起こったの!?」
「それが…全て奪われた次第で」
「誰に、だ?」
 昂も金剛も、強欲の領主一党を思い浮かべたのだが。
「いえ、人では無く…蛇どもでございます」
「蛇!?」
「左様で…」



 本当に、突然の事だったと言う。雷鳴の如く凄まじい鳴き声響き近付き。畑仕事に勤しむ村人達が眼を上げると、緑の鱗の大津波凄まじき勢いにて迫っていた。
 蛇…ただの蛇では無い。
 まず大きさ。太さは男の二の腕ほど、長さは八尺九尺優に超え。力凄まじく、小屋なんぞたちまち締め上げ壊してしまう。さらには驚きその蛇は、頭に角を戴くと言う。
「昔語りに聞きます、竜程のものではございませんが、細いながらも鋭く固く、並の剣なんぞでは太刀打ちできませんでしょう…」
 全く鉄砲水の如く凄まじさに蹂躙され…防ぐも何も、取る物取り合えず皆逃げ出して。必死で駆け去る村人のすぐ後ろ…かつて平和な村であった筈のその土地は、蛇の魔力かたちまちの内に巨大な沼と化したと言う。
「…もはや、昔通りの暮しは望めませんで…頼る相手も無い者は、ただただ物乞いとなるより他、ありませんでした…」
 龍の主従は思わず顔を見合わせた。

 二人の心中知る筈も無く、宿の主人語り続ける。
「…もっとも、蛇ばかり恨むも筋違いでして。蛇が領域越えてやって来たも訳がある様でございます…」
「訳だと?…理由が判るのか?」
「はい…何せ、あの蛇は言葉も解すのですよ」
「…!」


 かつて、角のある蛇達は火山に程近い一角の、不思議に水豊かな湿地を住処と決めていたのだと言う。あの恐慌の折は別として、性質も性悪とは言えず、そもそも滅多な事で湿地の外へと這い出す事は無かったのだとか。
 それが、ある時突然…
「沼が、奇妙に濁されたのです…沼が『濁る』と言うも奇妙ではございますが」
 泥の海とは言え、蓮の花も見事な緑の宝庫、異臭もせで清浄なる風に包まれしその土地が、奇妙な毒に犯されたちまち一変。
「何とも不吉な…常とは違う、奇妙な泥が突如に流れ込みまして。花は枯れるわ毒霧は湧くわで流石の角蛇と言えどもとても住めぬ地獄と化しまして」
 無論、人間達も恐れて近付かない。難を犯してその地を確かめた者の弁に寄れば、今でもその地は毒に満ち、逃げ遅れた角蛇の無残な屍体だけが不気味に浮いていると言う。
「…かつて、あの場所に生えた蓮は品が佳く、薬に重宝でした。村が所望すれば蛇達も、快く供してくれましたし…」
 急な異変が罪とは言え。平和な隣人同士であったのに…


 自覚がまだ薄いとは言え、昂は当代龍王である。鱗ある者全ての王、そして元より龍蛇須く愛する情の主、主人の話はいかにも辛い。人界に育って人身の昂ですら心穏やかで無いのだ、金剛の心境は如何ばかりであろうか…
 だが。龍の英傑、動揺強いて奥に秘め、努めて冷静に主人に問う。
「その角蛇を退治せば、あの者達は安住の地を得られるのか?」
 龍の金剛の瀬戸際の問い。…しかし主人は悲しく首を振る。

「数年ばかり昔なら、そんな夢も見られましたが…毒ですよ、毒。前にも申しました通り、毒は火の山からもございます。特にここ暫くで急に酷さを増しまして、風向きの不運もありましてなあ、角の蛇でも無くば長く暮すは無体な有様…」
「そんなに…酷いんですか?」
「全くで。妙な話、あれ程強引に蛇どもに、追い立てられて去らなければ…今頃あの土地で凄まじい人死にが出た事でしょうなあ…」
 かと言って、今は今で腐鬼に喰われます…諦めた様な笑みと心労とが主人を酷く老けて見せている。ため息とともに茶をすするその姿、黙って見守るより他無かった…



 壁の外の世界は全く別世界である。壁を越えれば水もあり食物もあり、望めば贅沢もし放題だと言うのに…外は昼間でも暗い。建材にも乏しく、しかも度々襲撃に襲われ修繕も間に合わず、家々の軒は傾いている。中には燃え落ちてそのままの場もあり…狭い道を歩む主従の顔も暗い。
 この様な場に物を尋ねに赴くのは気が重いが、腐鬼退治が遅れれば遅れる程、この土地は地獄となってしまう。今まで気遣い避けては来たが腐鬼の恐怖一等知るはこの地の住人である。それに…
「あの蛇の事…」
「うむ」
 相手は仮にも鱗の眷族、争う事だけは出来れば避けたい。しかも住民達のかつての住まいすら毒に犯されて、角蛇払うが最上とも言えぬ…ただ、角蛇すら逃げ出したと言う奇妙の『泥』が気にかかる。
「あまりに急だ…火の山の毒気も含め、個々に現われたのでは無く一つの意思によるとしか…」
 不意に偉丈夫口つぐむ。…昂は少し苦笑した。
「…気にしないで。多分、『僕』を狙っての事なんだね…」
 望む望まぬに関わらず、龍を厭う者達に取って昂は間違い無く当代龍王。
「昂、しかし…」
「うん…全部僕のせいだ!なんて、煮詰まっている訳じゃないから」
 笑って見せる。…実際、自分が無為に苦しめばこの龍がより苦悩するに違い無いから。
「でも、そうだとしたら逆にね、腐鬼とあの『泥』の両方とも、一緒に解決できるかも…って思うんだ」
 甘い考えかな?と少し不安をのぞかす少年に、偉丈夫も笑みを返す。
「うむ…わたしも実際同じ事を考えている」

 人間よりも遥かに人外の瘴気に耐性の角の蛇。それも言葉を解し村人達とも平穏無事に交流すらしていた種族達が、我を忘れて隣人達に襲いかかるとは…並の毒とは思えない。恐らくは魔界、闇の毒。
 かつて龍王の元、龍界にて栄華を誇った龍とその眷族は、天と魔との戦いに於いても軍の先頭に立ち、天界侵さんとする闇の者達を誰よりも多く屠って来た。だからこそ。天に破れし魔界の使徒は殊更龍王を恨む。
 腐鬼もまた、元来は魔界の出。この蛇蝎の地を闇の領域に含めんとて送り込まれし地獄の尖兵。とは言え既に魔界離れて幾星霜、もはや当初の目的も忘れて久しいと言えるのだが…闇の者は闇。

「以前に聞いた事がある…泥の姿の魔族がいる、と」
「え?じゃあ、あの蛇の所に現われたのも!?」
「そればかりで無い。わたしの記憶通りだとすれば、そやつら相手を操る能すらある…」
「じゃあ…最近、腐鬼の様子が変わって来たのも…」
「うむ。こちらへ移住して来た事情はともかく、奇妙に統制とれ残虐さ増した事態もあるいは…」
「…やっぱり、何としても蛇の皆に『泥』の話を聞きに行かなきゃ!」
「…ああ」


「な…あやつらに会いなさるんで!?」
 やはりと言うべきか…住人達には必死で止められた。
「いや、確かにこちらの言葉も通じるには通じます、けれど所詮は蛇ですよ!」
「第一…連中すっかり毒に当てられて、大分気も触れた様子…危のうございます!」
「しかし…もっとも毒に近しい場に住まうはかの蛇達。そうで無くともこの度重なる異変、何か知っているやも知れぬ」
「まあ…確かに我らよりは物知りの連中ですが…」
「如何に戦士様のお頼みでも、ご案内するのは…ご免被りたい次第で…」
「いや、その様な足労は頼まぬ。ただ、どの辺りか示して欲しいのだが」
 昂達の手元の地図には…よくある事だが…街に程近い場所、それに街道沿いの地理しか描かれていない。村のあった場所はおろか、かつての蛇の住まいすら何処にあるやらさっぱり…
「しかし戦士様、この辺りの土地は難儀でして…特に霧がやたら出るもので」
「慣れた者でも無くば…迷われるのでは、と…」
 …あるいは金剛の龍の五感頼りに行き着けるやも知れぬが…
「何だよ、みんな何集まってんだよ?」
 不意に場違いな程明るく幼い声響く。


「…あれ!兄ちゃん!あん時の兄ちゃんじゃんか!」
「あ…」
 周りの視線を構いもせず、昂の元へ一直線。子どもらしく飛び付くのを優しく受け止める。
「この間は、ありがとう」
「うん!よかったなあ、兄ちゃん良くなったんだな!」
「うん」
「…知っているのか?」
「あ、うん、前に来た時、水を一杯…」
 不審げな金剛の声に思わず正直に。はっと慌てて口をつぐむがもう遅い。
「まさか…ここの水を飲んだのか!」
「あ…ええと…」
「そ、それは御無礼を!こ、子ども故分別も付かず…」
「何で?おれ、何かした?」
「何をしたもどうしたも…!」
「何を馬鹿を…ああ申し訳ありませぬ、この者愚かでして…そら、謝れ!」
「あの!僕何ともありませんから!」
「…おれ、兄ちゃんに悪い事したのか?」
「あ、だいじょうぶだからね、君は悪く無いんだから…」
 必死に庇う昂の様子にさしもの偉丈夫も嘆息した。

「…で、兄ちゃん達どうしたの?」
 昂の弁護が効を奏し、子どもの軽率は不問とされた。…ただ実際あの水は昂の想像遥かに越え、ここに住まう人々も瓶に溜めて数日置いて上澄みだけを飲む様な、相当の泥水であるらしい。小さな子ども故の思慮の無さ、井戸から酌んだそのままを、選りにも選って衰弱の昂に供した訳だ、金剛のみならず大人達が泣く程慌てたのも無理は無い。
 とは言え。…先刻の騒ぎ何処吹く風、と言った様子のこの子ども、相当の大物に違い無い。昂も少々苦笑した。
「あのね、僕達…ここの向こうの角の生えた蛇に会いに行きたいんだ」
「えー!あそこ、結構迷うよ!兄ちゃん達だけじゃあ絶対無理だよ!」
 やはり答えは同じ。…が、続けて子どもは意外を言う。
「おれ、案内してやるよ!」

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(C)獅子牙龍児
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