五章 沼地 (3)


 龍の主従は…特に昂が心配したのだが、壁の外の大人達は無礼の罪滅ぼしだとそう言って、案外あっさり子どもを送出してしまった。姉が死んだ、確かにそう話してはいたが、どうやら親も縁者も無いらしく…身寄り無い子ども故、大人達も本気では案じておらぬ様子、昂はいささか腹も立った…のだが。
 街を離れて暫く行くと、たちまちの内に草茫々の見通し悪く代り映えのしない平野に出てしまい、何とも方向掴みにくい。龍の五感でも難しく、これでは他所者なぞたちまち迷うが必定…ただ子どもだけが自信も満々に、右だ左だもう少しと二人に指示を出して行く。
「兄ちゃん、止まって!」
「…もう、近くなの?」

 すっかり昂に懐いた子どもは、光陰に乗っていた。道案内の視野塞がれてはと、わざわざ前に乗せたのだが、馬の珍しい子どもの事、飛んだり跳ねたりたてがみに悪戯したりと大騒ぎ。手綱も取れずに困惑の昂を見るに見かねて金剛が、何度も子どもを引き取ろうとするのだが…こどもは「やだ」の一点張り。

 漸く目的地が近付いたかと、ほっと安堵の昂だったが。
「違うよ。もっとずっと先」
「え?じゃあ、どうして?」
「…まさか…急に道が判らなくなった、などと言うのではあるまいな?」
「ちょっと、そんな言い方ないでしょ!」
 どうやら「一杯の泥水」件、余程不満だったらしく、金剛の台詞はいちいち剣呑。…もっとも、当の子どもは相変わらず気にならぬらしい。
「こっから先、所々沼っぽくなってるんだ。そんなに深くは無いけどさ、うっかりすると馬の脚は折れちまう」
「え…じゃあどうしよう…」
「ここでおれだけ降ろしてくれよ!おれ、先に立って地面調べるからさ、兄ちゃん達はぴったり後ろに付いて来れば安心さ!」
「でも!それじゃ君が…」
「平気、へーき!おれ、昔っから得意だったからさ!」
 案じ顔の昂を他所に、持参した子どもの身には長過ぎる杖で…そのための道具だったのだ…地をぱたぱた叩きながらさっさと進む。右に左に…蛇行も激しく歩みは自然遅くなるが、少なくとも子どもの歩んだ後の道は危なげ無い。
(でも…本当にそんな沼なんかがあるのかな?真直ぐ行った方が早いのに…)
 小さい子だから、何か勘違いしているのかも…不意に不謹慎な思いに駆られた刹那、同じ事でも思ったか光陰突如に道外し、子の示さぬ方へと進み出す!
「ちょっと光陰!何やって……わあ!」
「昂!?」
「兄ちゃん!」
 光陰の前脚ずぶりと沈む…



 …が。やはり龍馬と言うべきか、次の瞬間には何とか逃れて固い地面に立っていた。
「こら光陰!悪ふざけも大概にしろ!」
「兄ちゃん、だいじょうぶ?」
「う、うん…あんまり光陰を責めないであげて…」
 幸い馬にも昂にも怪我は無かったが、覚えず主を危機に晒した光陰は酷く首をうなだれる。そこへまた、過保護の龍がやたらに怒鳴るので弁護に必死。それに…内心の疑いが光陰を動かしてしまった気がしていて、案じられるが恥ずかしい。それにしても…
(ここ…本当に危ないんだ…)
 成る程、これではなまなかな地図のみで踏み込んでは却って危険である。小さな案内人に改めて感謝した。


「…後、どれ程で着く?」
「もうすぐだよ」
 霧が酷くなった。幾らも行かぬ内に服がしっとり水気を含む。視界は恐ろしく悪く、空が見えないのは無論、三人と二頭の他は誰もいないかの錯覚に陥る。
 …背後で、金剛が注意深く辺りを探る気配がする。角の蛇が住むためか、この辺りで腐鬼に襲われたと言う話は聞かない。それでもこの悪視界で不意を突かれては堪らない。昂も知らず手綱取る手が汗ばんで来る。一行の緊張を知ってか知らずか…あるいは真実剛胆なのか、子どもはずんずん進んで行く。
 少し行くと、霧は変わらずながら樹木幾らか生えた場所に出くわした。
「…この辺、かな?」
「蛇は見えぬが」
「うん、この辺で馬降りてよ」
 ここなら木にも繋いでおけるし、と子ども。
「…あいつら、何か馬って嫌いなんだ」
「ふうん…?」
「それにさ、馬って臆病じゃん?あいつらがにょろにょろ出て来るとさ、暴れて棒立ちになって却って大変だから…」
 ヒヒン!侮辱されたと思ったか、光陰まさに棒立ちに!
「ちょ…ちょっと光陰!やっ、やめなって!僕、落ちちゃう落ちちゃうってば!」
「…あー、やっぱそいつ、置いてくしか無いなあ…」
「…確かになあ…」
「わあ!ちょっと二人とも!見てないで、助けてよ!」
 血気盛んな若馬の、足場の悪い土地での最悪ロデオ。
 …本当に、悪い馬では無いのだが…



 とにもかくにも馬宥め、三人は子どもを先頭に再び進み出す。…とは言えもはや例の杖もほぼ無用、草の植生すっかり変じ、もはや辺りは沼だらけ。見てそれと知れる程、確たる泥水湛えた溜まりが此処其処に。
 と。何気なく足元に眼を落とした昂は仰天する。
「これ…まさか、戸板!?」
「うん、そうだよ」
 あっさり肯定されて却って血の気引く。
「じゃあ…ここが…」
「うん、ちなみにさっきの木の所は、昔は普通の林だったんだ」
「…!」
「なんか沼がぶわって広がっちゃってさ、木もほとんど立ち枯れしたんだ」
「そんな…」
 背中の剣が奇妙に重い。龍王ならば蛇にこそ眼を向けるべきであろうが…
(僕…)
 自分と同じ人間が、これ程の凶事に遭ったを間近にしては…

 多分、そんな心の揺れが油断を生んでしまったのだろう…

「な…何時の間に!」
(え…)
 突如切羽詰まった金剛の声。ずらり、背後で聞こえるは偉丈夫抜剣の音。反射で子どもを庇う様に抱き寄せて、慌てて辺りを…
「あ…!」
 窺うまでも無い。四方八方隙間無く、しゅうしゅう言うあの音は…
「ひ…角…角蛇だあ!!」
 瞬時の内に囲まれた…!


「剣を抜け!早く!」
 …いっかな、少年の応えが無い。
「おい!?どうした、早く剣を!」
「に、兄ちゃん!おい兄ちゃんてば!」
 子どもが必死で揺さぶって、惚けた身体が漸く動く…が。

 昂は。子どもを脇にそのままに、ふらりふらりと前へ行く…!
「兄ちゃん!!」
「剣を…!」

 夢遊病者の歩む先。霧の海より唐突に、滑る様に凄まじく…迫り集うは角の蛇。その一際長さ大きさ優るるが、恐ろしの鎌首もたげて舌しゅうしゅう、弓矢の速さでいまだ細き首元へ…今生の危機、金剛渾身の力にて駆けつける!
(人身の昂では当代と気付くまい…止むを得ん!)
 かざせし豪剣、今まさに…

 と、その時。


「なんて、奇麗…」

(な…!?)
 夢の中のよな少年の声、蛇も豪傑も凍り付く。


 気後れの様に鎌首やや下がり…さしもの偉丈夫も、剣持つその手がだらり。
「本当に奇麗だね…」
 場違い極まる…それでいて戯れ微塵も混じらぬ、真摯の声。少年の瞳は鎌首の主に囚われたまま。


 角の蛇。ただの無粋の徒名には似つかぬ不思議の姿形…翡翠にも似る冴えた緑の煌めきに、あるいは乳白色あるいは漆黒の色の筋が興を添え。動くと揺れる一対の角、細く長くレイピアの如く…むしろサバンナ駆ける有蹄類すら想起させ…
「ねえ、あの…触っても、良いかな?」
 遠慮がちに、慎ましやかに…そんな台詞を言われては。如何に狂暴の蛇と言えども牙のやりどころに窮し…
 そろそろと、己の頬に近付く若い手を如何にすべきか困惑の嵐…

「おい…」
 何処か疲れ切った、偉丈夫の声。昂慌てて振り返る。
「何?どうかしたの?」
「どうかした、では無い…剣を、紋を見せてやれ」
「あ!…ごめんごめん!」
 ちょっと下がっていてね、危ないから…さらにとどめの台詞を事も無げにつぶやいて。呆然のあまり口あんぐりの蛇の前、既に慣れにし剣を抜く。思いもよらぬ、蛇達の美々しさに胸躍らせながら…
 不思議の紋の刃より。光、溢れ…



 煌めく鱗気の発動に、めまぐるしく舞い踊る龍紋…夢の様な不思議の後、そこには憑き物の落ちた様な角蛇達が呆然と眼を瞬かせていた。
「何と…これは…!」
「当代様であらせられたとは…」


 名をヤチ、と名乗った蛇達は龍王に向けて一様に頭を下げ畏まり、昂に向かって頻りに詫びる。話に聞いた通り、全くの蛇の姿でありながら、皆尋常に人語を話す。密かに危惧していた様な、shの擦過音の多過ぎる、不快極まる発音ではない…普通の、至極真っ当な音の列。
 先刻とは別な驚きと喜びに、蛇達も互いに顔を見合わせ戸惑い合う。
「え、ええと、ごめんなさい!驚かせてしまって」
「…お前が恐縮する事か」
 心底疲弊し切った金剛の声。無理も無い…極度の興奮状態の唯中にある、角まで生えた神通の蛇を前にして、「奇麗だ」などと惚けた事を抜かしていたのだ。逃げもせで…
 龍王の剣を見せる事すら忘れて。

「…非は我らヤチ一族にこそ」
「龍王様の御裔、人界に在り…言い伝えを知りながら、お会いするまで信じもせで忘れておりまして…」
「畏れ多くも当代の君、その御身をあやめる咎を危うく受ける所でありました…」
「そんな!…本当に、ごめんなさい!」
「だから、何故お前が謝るのだ…」
 太い、ふいごの様なため息をつくと金剛、やにわに腕をぐいいと伸ばし。昂の髪を強引にかき混ぜる。
「胆が冷えたぞ…」
 低いつぶやきと乱暴の仕草に男の心情深くにじむ。
(くすぐったい…)
 擦り切れそうな心が穏やかになる…


(…あれ?)
 気持ちが落ち着いた所ではたと不審。
(何か、忘れているような…)
 ここへ至るに道案内…
「あ!」
「お、おい!?」
 偉丈夫の腕を振り切って、慌てて己の背後を確かめる。
「あの子…あの子は!?何処?無事!?」
「こ、こやつでありましょうか…」
 ヤチの角蛇遠巻きの、ぐるり輪の囲む中ぐたり倒れた小さな人影。
「君、平気…」
 慌てて抱き起こそうとして。
 息を飲む…!


「どうした!?」
 金剛も案じ顔で駆けつけるが…続いて同じく大仰天。
「な…」

「この子…この子、どうしちゃったんだろう…」
 昂の声は今にも泣き出しそうである。周りの蛇も何とも頼りなくおろおろするばかり…何せ。
 …小さな子どもの髪の毛が、明るい栗色だった筈の髪の毛が何と!
 鮮やかに明るい緑色に変わっていたのである。

 もっとも、偉丈夫の方は年の功、何はともあれ脈測り息確かめ、髪より他に異常無きを確かめる。さらに懸念の緑の髪、その上手かざし念凝らす。
「ふむ…」
「ねえ…だいじょうぶなの?この子、どうなっちゃうの!?」
「なに、命に大事無い」
「良かった…」
 安堵のあまり腰抜けて、ぬかるむじべたに崩れてしまう。…相変わらずの主君の様子に微苦笑し…
 先ほど昂に襲いかかった、格別丈高い蛇…ヤチの長へと向き直る。
「薮から棒で済まぬがな、かつてこの辺りに鱗の血筋の人間の噂…聞いた事はないか?」
「鱗、の?……ははあ!」
 暫し合点が行かずに瞬きした蛇も、不意に得心の声上げる。
「確かにおりましたぞ!…昔々、我が曾祖父よりもさらに前、もはや血も潰えたものと思っておりましたが…」
「え!ちょっと待ってよ!…まさか、この子も龍の血筋、とでも?」
「ええ、恐らく…」
 かつて、この地を訪れた龍が一頭、妙に土地に馴染んでしまい遂には嫁まで貰って居着いた事があるのだと言う。人間達はその事自体は忘れて久しいと言うが、かつての縁が助力となり、つい先頃まで蛇も人も親しい近所付き合いをしていた訳だ。
「鱗気の発現は極わずかだが…龍王の剣の輝きに、髪ばかり触発されたのだろう」
「そんな事が…」
「時には起こりうるぞ。それだけ龍の血は強く長く保たれ、龍王の剣は鱗気甚大…」
「でも…なら、ひょっとして」
「ん?ひょっとして、何だ?」
「この子が僕に懐いてくれたのも…龍の血のせいかなあ…?」
 まだ年若い龍王は…複雑を通り越していささか寂しげでもある。

「…興深い事を言うな」
「え?」
「まずそれは杞憂と言うものだ。剣の龍紋見せたならいざ知らず…ただ龍の血を『引く』だけの子どもに鱗気感じ取れる筈も無い」
「ええ、ええ」
 ヤチの長も大きく頷く。…逢って間も無いと言うのに、どうやら少年の気質を良く掴んだと見える。
「恥ずかしながら我らとて、一目では当代様と気付く事も出来ず…ましてや、この様な者が見抜くとは」
「思えぬ故な」
「…そうか、そうなんだ…」
 安堵のため息が思わず出て、笑い声とともに大きな手が降って髪をぐしゃぐしゃ乱された。


「しかし…流石でございますなあ…あの一度の御発現にて、随分と邪気祓われてございます」
 心底感服した様子のヤチの声に、昂も金剛も我に返る。
「邪気…そうだ、僕達そのために来てたんだ!」



 昂達の訪問の本来の目的を尋ねられ、寛いだ空気が一変する。例の『泥』は想像以上に角蛇ヤチを苛んだと見える。
「それに…奴ら、ただの泥ではありませぬぞ!紛う事無き魔界の毒、しかも確固たる意思を持ち…いや、そればかりではありませぬ!」
 激高!余程の怒りか恨みなのか、『当代龍王』の御前も忘れて大激高…
「奴ら、傀儡(くぐつ)の技に長けておりますぞ!」
「ぬう…やはりか!」
「我らとて、当代様の鱗気御発現より以前は…何か、近付くもの全てを害したい欲にまみれておりました。理性が、露程も無かったのでございます」
 元村人の話や実際龍の主従も眼の前にした、あの血走った恐ろしい眼。それでも『奇麗』と思ってしまう昂の鱗思いは取り合えず捨て置くにして、あたかも闇の眷族であるかの如く…
「うむ…」
 偉丈夫が頻りに髭をしごく。…元より『泥』が闇の放った悪意の作為とは思っていたが、予想以上に厄介と見える。
「ねえ、もしかすると…あの、腐鬼も操ってるって事は?」
「…ああ、有り得る話だ。腐鬼は元より闇の手の者、闇い波長には容易く同調するゆえ御し易かろう。むしろ…」
「むしろ?」
「ああ、いや!何でもない事だ」
 …昂の到来を見越して『泥』を寄越し、腐鬼を動かし角蛇ヤチまで悪意の駒と変えようとした…
 その推理をそのまま告げては、また昂が辛くなる。
 そう、慮った刹那であった。

「…え?」
 昂が奇妙の気配感じ取り、覚えず辺りを見渡した。釣られて蛇も金剛も付近の様子に気を配る…と!
「あれは…何…?」
 震える声も無理からず、角の蛇よりさらに奥…泥色の高波…!?
 いや…ただの泥波ならず、無数の眼がこちら向きじわりじわり…
「や、奴め!」
「ひい…来おった!」
 蛇の群れの海の中、動揺細波の如く広がり大恐慌。
 『泥』が、自らやって来たのだ!


「剣を…!」
 今度こそ、言われるまでも無く瞬時の抜剣。今はヤチの角蛇も、眠る子どももいるのだから…以前の様な無様は許されぬ。
 迫り来る、汚泥。ぐにゃりと歪んだ視線がねめまわし。黒く霧のよにおぞましの瘴気撒き散らし、闇がおぞおぞ蠢動の様…
 きらり。刃掲げて…正眼に!
「とうっ!!」
 気合いとともに泥地蹴る!

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(C)獅子牙龍児
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