五章 沼地 (4)
…何だろう、ぼんやりする…
…なんか、凄い夢、見てた気がする。うわっ、やばって思って、それからピカーッて光って、眩しくて…眼を開けてられなくて、頭、ぐらぐらして。
何だったんだろ?それに、どうしてかなあ、あの兄ちゃんが出て来た様な…あれ?兄ちゃん?あの光る剣持ってたの、兄ちゃん?兄ちゃんどうして…
あ…あれ?
おれ、兄ちゃん連れて…沼に…
沼!?
…意識が急速に浮上した。
「な…」
まだ、七つにも成らぬ幼子の眼は一杯に開かれる。居場所は先刻と変わらず沼地の中、周りには角の蛇…それはまだ合点が行くが。その角蛇達が、あらぬ方向に首向けて、何やら必死で…戦っている!?
慌てて首を巡らせば、あの『兄ちゃん』と一緒の『おっさん』もまた。恐ろしく大きな剣振り回して決死の体。
「な…なんだよう…」
全身に奇妙におぞけが走る。秋も深いとは言え、生まれてこの方覚えの無い寒気…悪寒。それでも子どもらしい好奇心が恐怖に勝利して、『兄ちゃん』の姿とその戦う敵を眼で探る。
…いた!
あの、何時ぞやのぼろ雑巾の様な姿が嘘の様、剣姿も凛々しく敵を討つ。子どもの眼にはとても止まらぬ素早さで、刃が次々『何か』を薙いで行く。
(何だろう…?)
当然の疑問から、まだ何処かふらつく頭を総動員、今だにぼやける焦点を、無理やり『敵』へと合わせて行く。
…何か、異様にどす黒い、『モノ』。形は何とも見極め難く…それに…
眼、眼、眼、眼…無数の眼。
どろりとした不定の闇は、奇怪な眼球具えていた!
「うわああああああああああ!!!」
堪らず絶叫…
「…え?」
如何な緊迫の最中とは言え、子どもの悲鳴は良く響く。まして、己が護ると決めた子であれば…昂は己の身も忘れて振り返る。
「どうしたの!?」
それを、見逃す闇では無かった…!
「当代様!!」
悲鳴に近い警告に、はっと向き直れば…泥、おぞましく形変え。
凄まじき勢いにて今まさに、一帯の汚泥一所に集まり…
一挙動にて汚泥より、奇怪の触手にょろにょろり。
(あ…!)
あまりの醜怪に動けずにいる内に、眼の数々がぎょとり昂捕え。
もぞりもぞりの触手達、にゅるり一気に伸びて…昂の口元へ!
「!」
驚愕の昂の視界のその隅を、翠の筋が神速で動き…
がぼり、ごぼり、奇怪の音。
無体におぞましき闇の泥、全て…
健気な角蛇の、かっと開いた口中へと。飲み込まれて消えて行く。
ぱくり、蛇が顎閉じる。ごくり、喉が動いて嚥下する。だが…
たとえうわばみであろうと限度がある。凄まじい量の泥の束、しかも毒持つ闇の眷族なるを一時に飲み込んでしまっては。
眼が、角蛇の…ヤチの長の眼がおかしい。奇妙に開いて虚空を見つめ、全身ぶるぶる痙攣の如く。暫し間があり…
長の鱗ばらばら弾け、あらぬ場所から汚れた触手身を突き破って噴き出した!
「ヤチ!」
ヤチが、折角正気に戻った己の眷族が…死んでしまう。
角蛇の身を破りし汚泥の腕、既にして二、三、四本…長の顎は奇妙に開き、舌もだらりとあらぬ方へと垂れている…
死なないで…
死なせたく、無い!
一心で。剣を頭上高々と振り上げ…触手目がけて一気に振り降ろす。凄まじきばかりの擦過音…それ以上に昂の瞳は真摯の極み。
全身全霊命を賭けて。角蛇長の無事を願った…
辺りが、真っ白になった気がした…
「…る、昂!」
「兄ちゃんてば!」
遠く、自分を呼ぶ声がする。答えなければと思うのだが、身体も舌も鉛の様に酷く重い。人語に加えてしゅうしゅうと、何か耳慣れぬ音もする。眼を開けよう、そう思うだけでも目眩がする…
何とか堪えてそろそろと瞼をゆっくり持ち上げた。
「昂!」
二人の、いや無数の顔が昂の目覚めに喜色に変わった。
「ええと…」
ぼんやりする頭で必死で状況反芻する。確か、確か自分は奇妙な泥と戦いの最中では無かったか?しかも…
「ヤチ!ヤチの長さん、長の人は!?何処?何処なの!」
自分がいまだ動けずにいると言うのに、またぞろ他人(他蛇)の案じをする。龍の英傑、いささか苦笑。
「大事ない、息もある…そら」
青大将よりまだ大きい、長の身体を軽々運び、昂の眼の前に連れて来る。意識こそまだ戻らぬが、確かに呼吸の様子、身の脈打ち感じられる。そこで昂がまた、あまりにはっきりと安堵のため息もらすので、周りの一同どっと笑う。
「当代様、御鱗気の御発現にて長の身の毒は全て払われてございます」
「良かった…」
角蛇の告げる言葉にさらに緊張和らげたが、ふと我に帰りはっとなる。
「あの、あの!泥は…泥の化け物は?」
昂はいまだ己に浄化の能あり…とは信じられぬし、何よりあれしきの事であれ程の泥の魔物を退治たとは思えない。
「うむ…長の身よりは剥がれたが、粗方は逃げられた」
「逃げた…」
「しかし、当代様、」
蒼白になる昂を労うべく、角蛇の一体。
「御身は随分と困憊の由、加えましてはあの泥とて、こうも当地清くなるるば戻りにくくもなりましょう」
「…そうだよ、何かよくわかんないけど、ここの雰囲気何か変わったよ」
子どもも言う通り、先まで感じた奇妙な腐敗臭さらりと消え。呼吸するのも随分と楽である。
成程、当面の危機は脱したようである。しかし…
昂は、困った様に子どもの髪を見つめていた。
「えええ!?」
己の髪の変容の、そのあらましを聞かされて子どもは当然ながら激しく仰天。緑の髪なんぞ人の世界には探しても見当たらない。確かめようにも鏡も無く、あれこれ遮二無二試した挙句、ぶちりと髪の毛抜いて…今度こそ魂消ゆる悲鳴…
「うあああああああ!!」
昂が幾ら悪い病の類で無いと、優しく宥めてすかしても、子どもの恐慌暫く続いた。
とは言え。そうこうする内に…髪の色、初めの頃よりさらに唐突に、元の色へとまた戻る…
「…おれ、蛇の親戚なの?」
「う〜ん…」
「蛇」、と言う語に明らかな「気味の悪さ」が感じられ、自覚足りずとも龍王の身、少々複雑。とは言え、角蛇達と金剛とが、代わる代わるに祖先の龍の偉大さを、かいつまんで語るにつれ…子どもの表情輝き始める。
「へえ…蛇は蛇でもそんなに格好良い奴等なんだ!」
あくまで、「蛇」。
子どもの小さな世界には、龍はいささか大き過ぎて入れぬと見える。
当初の目的は達したが…ヤチも金剛も顔を見合わせ大きく苦笑した。
「君の髪も戻ったし…そろそろ戻ろうか」
昂としては子どもの体調が気になってならない。今は…信じられぬが…自分の鱗気で浄化したとは言え、先刻までこの場は闇の泥達の瘴気に満ちていたのだ。短い時間とは言え、どれだけ小さな身体を蝕んだか…
「へ?兄ちゃんたち、もういいのか?」
「うん…君も、何処か痛いとか苦しいとか、無い?」
眉根を一杯に寄せて、子どもの背丈に合わせて屈み込む…若き龍王。
豪傑と、蛇達が。一斉にため息を付く。
ところが変わらず子どもは平気なものだ。
「全然!それよかおれは兄ちゃんの方が心配だよ!兄ちゃん、何かすぐ倒れるしさあ…ちゃんと飯食ってんのか?」
「こ、こ、こやつ!当代様に向かって何と言う言い草ぞ!」
「へ?おれなんかマズいこと、言ったか?」
「あ!あの、良いの!君は全然悪く無いし…ヤチの皆も、そんなに怒らないで。僕が未熟なのは確かだし…」
「未熟などでは無い!今の今も、これだけの浄化を見事やりのけた…」
「とりあえずさ、おれぴんぴんしてるからさあ!おれ、何か他人より丈夫でさあ、この辺も結構しょっちゅう歩いてて平気だったしさあ…」
興奮気味の鱗族の大人達を他所に、重大な言葉を事も無げに放つ暢気な子ども…
「しょっちゅうって…この、この辺を!?危ないよそんなの!!」
「あー、おれさあ、兄ちゃんと違ってひょろっこくないから。良くわかんねえけど、毒とか割と平気だし」
「えええ!?」
「へへへ…おれ、すごいの持ってるからさあ…」
丁度、昂にだけ見える様に…服の中に隠した「もの」をさっと見せる。
「見えた?すげえだろ、何かきらきらしててさ」
…ほんの一瞬、眼にも彩な翡翠の小さな輝きが、幾つも幾つも連なって見えた。
が。目敏く盗み見た者達は、さらに意外な事実に気が付いた。
「見せろ!今の品を、今一度…」
「え!何だよ、おれ兄ちゃんにだけ見せたんだよ!」
うって変わって酷く渋り出す小さな子ども。だがその上にヤチまで…
「返せ!この盗人めが!」
「な!何だよ!これは母ちゃんの形見の品だよ!」
「ならば主の母こそ盗人ぞ!」
「違わい!母ちゃんだって形見で貰ったって言ってた!」
「ならば…」
「待て、ヤチの衆」
不毛な口論を、龍の豪傑が終わらせる。
「入手の是非は良い…それより、お前はこの品の真価を知っているのか?」
間に入った昂の弱り顔を見て、子どもも渋々ながら己の秘蔵の「すごいの」を…不可思議の首飾りを見せ始める。
滴に似た形の、麗しくも清々しい、素晴しく澄んだ翡翠の…首飾り。否、色艶は翡翠に勝るとも劣らないものの何処かしら翡翠と異なる、不思議の霊妙なる趣湛えている。手で触れても特有の冷ややかさは皆無、むしろ暖かに命の脈動すら覚える心地となるのは一体如何なる事にや。
「…すごい大事なんだぞ。他の奴等にも絶対秘密だったのに…兄ちゃんにだけ、見せたげようと思ってたのに…」
その大事の品を「おっさん」やら「蛇」やらに丹念に探られて。小さな持ち主は大層な御立腹の由。昂は苦笑する他ないが…当の「おっさん」と「蛇」は驚愕の唯中にあった。
「こ、これは…我が眼に誤り無きとすれば、紛う事なき宝中の宝!」
「うむ…恐らく始祖の龍王にまで遡る秘宝…」
「始祖の、龍王に!?」
「ええ、当代様。これなるは始祖龍御君の鱗気秘めし品、その類稀なる強靭の気が、なべて全ての不浄を払うと申しまして…」
「全ての、不浄を…」
「そうだ。お前の浄化には遠く及ばぬが…これを身に付ければな、例の泥の魔物の毒ですら、少しも触らぬのだ」
…子どもはひたすら眼をぱちくり。
凄い凄いとは言っていたが、自分でも価値来歴はまるで知らずにいたと見える。
「しかし、この者…まあ、仮にも当代様に金剛様の御案内とは過分な名誉としても、この様な地に赴くとは無知無謀の輩と思っておりましたが」
「この、大事なお守りのが護ってくれていたんだねえ…」
優しく子どもの頭を撫でる。
が、子どもは盛んに首を傾げたり…眼を妙に寄せて考えるばかり。
「どうしたの?」
「よく、わかんねえけど…その『シソ』の何とかってのは何時の話だよ?」
「何時も何も…主の祖母よりまだ古く…」
「へえ?婆ちゃんが子どもだった頃かあ!そりゃまた昔だなあ!」
「い、いやな、それより以前のいにしえぞ…主の婆がまだ生まれぬ前、さらにその婆のまた婆の、そのまた婆も生まれぬ内の出来事ぞ」
「ええ〜!?じゃあ嘘だな!」
「な!無礼者、何を抜かすか!!」
「だってよ、これは元々婆ちゃんの形見だったんだからさ、婆ちゃんと同じ頃のモンだろ?そんな古い奴とかんけーないじゃんか!」
今度は一同が逆に眼を点にした。
まだ一桁の年数しか生きてはおらぬ子どもの事、まだその世界も生まれたばかり。彼の小さな暦では、祖母の所まで遡るのが精一杯。…昂が辛抱強く説明して、漸くにして幼き子ども、己の宝がまさしく世代を越え時を越え伝来して来た事を何とか悟る。
「ええと、婆ちゃんの婆ちゃんの婆ちゃんの…」
「そうそう、さらにお婆さんの、お婆さんの、そのまたお婆さんの…」
「ああ!!もう止めてくれよ兄ちゃん!」
限界らしく悲鳴を上げる。
「おれの頭、ちっちぇからさあ…そんなに婆ちゃん詰め込んだら、絶対膨らんで破けちまうって!!」
ややあって。…期せずして、暖かい笑いの発作が一同を襲った。
それも、結構な時間…
久し振りに純粋な子どもの世界に触れられた。身体にはまだ疲労が残るが、心の軽さは行きとは比べるべくも無い。穏やかな気持ちで空を見上げて…日が随分と傾いて来た事に漸く気が付いた。
「皆、もうそろそろ夕焼けの時間…」
…夕焼け?
言った当の昂も含めて、慌てて空のあちこちに眼をやった。行きには全く気付かなかったが、あの恐ろしい霧も見事に晴れ、空と太陽の輝きが真直ぐこちらに飛び込んで来る。
「すっげえ!大昔とおんなじだあ!」
「おお…これこそ龍王様の御鱗力…」
「え、ええ!?まさか…」
「そうだ、これがお前の浄化の力だ」
「ぼくの…浄化…」
湿地帯故の霧かと思っていたが、別に蛇のヤチとて天道の恵みはやぶさかではない。ある程度は、余計者を遠ざけるために…沼のすぐ上に、業と霧を張る事もあるが、蛇は蛇でも元来天の蛇、日差しも遮るは不本意だとか。
「だが、やはり心配だな」
「え?」
「ええ…当代様、御身は御大切であらせられます。こたびの御発現、僥倖の極みにございますが、我ら如きにいささか過分…」
「お前はまだ、龍身と成る途上。無理は禁物と胆に命じて置けと、わたしは重々言った筈だが」
「だって…そんな事言っても」
いまだ己の鱗気の存在すら、確とは判りかねるのだ。自在にならぬものを自制しろ、と言われても…
「さればこそ」
ずずい、進み出でたるヤチの民。
「艱難の途にある当代様にこそ。御身わずらわさず浄化を行いし秘宝…銘も凛々しき『降魔の御統(みすまる)』は相応しく、また昂様の御名にも通じましょう!」
と。
言うなり。子どもの首飾りを、きっと見据えて。ずずずず、ずずっと瞬時に近付く…
「ま、待って!」
昂は蒼白である。この幼い子どもを危険から、ずっと護って来た首飾り。そうでなくとも形見の品、しかも天涯孤独のこの幼子の、唯一と言って良い財産である。
「駄目だよ絶対!この子から、大切な首飾りを奪うなんて…!」
「しかし!本来この品、かつての龍が王より仮に預かった物!こやつも先祖もただ子孫の当然の義務故に、伝えて来ただけの事!」
ヤチは…忠義なヤチは、昂の苦しみが堪えられない…ただそれだけの純粋で。
「さればこそ!この『御統(みすまる)』、当然当代様の手に委ねられるべきでありましょう!」
「それなるは、元より当代様の所有の品と、古来より定められたと言うべき品!」
「違う!元はどうでも、これは…」
示すつもりで、昂は翠の輝きに。そっと手を差し伸べた。
が。
バシリ!
「え…」
その手を、瞬時に払われた。
「貴様!当代様になんたる無礼!!」
「流石に捨て置けんな…恩を平手で返すとは」
ゆらり、辺りに満ちる剣呑の気。
だが負けず劣らず…子どもの眼に、酷く激しい光が浮かんでいた。
「お前ら…結局、コレが狙いだったんだな!」
「え…?違うよ、そんな!」
「嘘付け!お前だって、今!コレを取ろうとしただろ!」
「そんな事ないよ!何言ってるの、急に!」
「お前…そんな事言って!角蛇まで抱き込んで!」
見上げる子どもの眼が、凄まじく荒んでいる。
「元々、自分のモンだったって…何だよ!」
半分、涙が溢れている。
「これは…おれが貰ったんだ!絶対ずう〜っとおれのモンなんだ!」
「貴様、判らん事を…」
言うな!…と言いかけた金剛の台詞は、昂によって止められた。
「婆ちゃん」が二人も入れば一杯になる…小さな小さな子どもの世界。
でも、そこには必ず聖域があって。そこは大人以上に…絶対不可侵で。
…神聖で。
理屈では、ない。
そして。
首飾りは彼の家族の…二度と戻らぬ思い出そのもの…
全てを漸く悟った昂にしても。何も言葉が見つからず…
沈黙が痛くなった頃、子どもが酷く冷たい声を出す。
「仕方ねえよ、帰り道の案内くらい、してやるよ…」
誰の方も見ず…昂すら無視して。
「お前らに何かあって、それで街の連中に眼ェつけられると煩いからな」
ただ黙々と進み出す。子どもとは言え、その背に漂うその空気、ヤチをしても侵し難い。
「あの…」
勇を振るって昂が声をかけても。無視より痛い、一瞥が返るのみ。
夕焼けが美しく空を染める中。
葬礼の列の如けき静けさで。ただ黙々と帰還の道中…
自分にもっと力があったなら。ヤチが首飾りを狙う事も無かったのに…
思わずにはいられない昂であった。
(C)獅子牙龍児