六章 泥魔 (2)
腐鬼は去り。何とかまともな火消しの作業も始まって、街が全て灰燼に帰す事態だけは免れた。とは言えまだくすぶる家屋もあり…そうで無くとも豊かさに胡座をかき惰眠を貪る者も少なく無い街の事、いまだ混乱は続いている。
そんな中。
夜陰と騒乱に乗じて一人、街の奥へと侵入を果たす者が。人目を避けてか火の粉を避けてかぼろ布を頭からすっぽり被り、小さな影は走り行く
裸足の子ども…
あの。沼地へと昂達を案内していた子どもである。
小耳に挟んだ話で、子どももあの二人の宿も見当が付いた。元々あの宿の主人は…街の住民、『塀の向こうの奴ら』にしては奇特な事に『塀の外』にも何かと便宜を計ると知られていたのだ。小さな子どもの事、その深い事情までは知らぬものの、とりあえず『割と人の良い親爺』と言う認識を持っていて。その宿の場所も…一応は知っていた。
『塀の外』の貧民窟を抜け出して、幾度か街に入り込み…摘み出されそうになった折に助けられたから。
(いっつも、旨いものくれるんだよなあ…)
思い出すと子どもの腹が返事をする。
しかし。
小さな子どもの、心の方はもう少し複雑だった。
暗い街を駆け抜けながら胸元をしっかり握る。布越しにも判る、固い感触。
…翡翠の護りの首飾り…
「おれは…ぜったい、悪く無い!」
小さくつぶやきながらも子どもらしからぬ苦渋の色が浮かんでいる。
あの勇敢だけど見るからに危なっかしい『兄ちゃん』と、あんな喧嘩別れをしたくは無かった。
あの『兄ちゃん』に悪気が無かったのも。本当は判っていた。
「けど…けど!」
幼い感情は嫌だと叫ぶ。それでも本当は何処かで判っている。
この、首飾りは…
小さな裸足の子どもは。
迷いを抱えながらも一心不乱に走っていた。
辿り付いた宿の店先に、妙な人だかりが出来ている。
確かに先刻の騒ぎ以来、真夜中にも関わらず通りの人影は少なく無いが。宿の前ではどうやら口論が起きているらしい。複数の怒号の飛び交う中、子どもは反射的に店の裏手へ続く細い路地へと潜り込んだ。『塀の外』の住人がここまで来たと知れたら、絶対にただでは済まない。
何分広い宿の事、結構な距離を歩いて漸く裏庭の辺りまでやって来た。ところが裏の戸は何故だか開け放し、普段人気の無い筈の庭には複数の人影。それも、暗い中で何やら作業の様子…
…様子がおかしい…?
「う…強情な馬だぞ!」
「おい!手荒に扱うな!高い馬なんだ!」
ろくな灯りも無い暗闇に、押し殺した数人の声。
(高い、馬…?)
「うわ!あ、危ねえ…」
「だ、だからお前達の御主人は帰らないからよ…」
(馬の…御主人…)
途端。話題の馬とおぼしき姿、棒立ちに暴れ…闇にもくっきり影浮かぶ。
(あれは…!)
確かな直感。
(兄ちゃんの…馬だ!)
先方が馬の暴れ振りに手を焼くのを良い事に、素早くそちらへ移動する。ほんのわずかの申し訳程度の灯りを頼りに窺えば、例の二頭とおぼしき馬達は、いななかぬ様に口元も縛られ無理に何処ぞへ連れ去られ様としている!
(…止めろよ!!)
危険も忘れ。弾かれた様に飛び出した。
「その馬から離れろよ!…この!」
丁度昂の乗馬、光陰を引き出そうとしていた男の背後に素早く回り込み、力一杯蹴り上げる。
「ぐわあ!」
堪らず放した手綱をすかさず掴んで馬達を庇う様に立つ。
「お前ら何やってんだよ!この馬は旅の兄ちゃんのモンだ!それを取ろうなんて…お前ら、馬盗人だな!」
「な、なんだあ!?」
突如つむじかぜの如くに現われた子どもに『馬盗人』の面々は眼を白黒。
が。一人が少ない灯りをかざして近付いて…互いに互いの顔を見やって素頓狂に驚きの声。
「あ!」
「お、お前は…!」
…何度か、宿の主人の世話になった時の顔見知りの、宿に働く人間の一人だった。
「何でまた、こんな火事場のどさくさに…」
見知った子どもと判って幾らか緊張を解きつつも、男がため息混じりで心底ぼやく。
「そ、それはこっちの台詞だろ!何でまた、兄ちゃんの馬を勝手に動かしてるんだよ!」
「はあ?」
子どもの剣幕に暫し気圧されていた男だが。その顔をまじまじと見て…合点の入った顔をする。
「そうか…お前はあの剣士様やお弟子殿の道案内を勤めたそうだな」
「お、おう…とにかくさあ!何で勝手に…」
「違う」
「違うって何が…!」
皆まで言えずに口を塞がれた。もごもごと暴れるが…一同に緊張の走る様子を見て、反射で動きを止める。
かすかな足早な足音が近付いて来る…
「何をしている…とにかく急がねば」
張り詰めた空気が瞬時に緩む。
やって来たのは、宿の主人その人であった。
「…何でまた、お前がこんな折にこんな場所まで…」
「う、うるさいなあ!」
同じ事を二度まで言われて膨れる子ども。
「ただ…その…あの兄ちゃんが心配で…」
「あのお二方を尋ねて来たのか?」
「…うん」
温厚な主人が厳しい顔になる。
「では、何も知らんのか」
「へ?」
宿の主人の手短に述べた事の次第に、幼い子どもと言えども真っ青になる。
「何で!兄ちゃん街のために闘ったんだろ!なんでまた…」
「静かにするのだ!」
主人が激高の子どもを宥めて辺りを窺う。そう、ここにもいつ強欲の私兵が踏み込むとも知れぬのだ。
「だからこそ、何とか馬達だけでも隠そうとしているのだが…」
ほとほと困り果てた様子で馬を見る。口は塞いであるのだが、特に血気盛んな方の馬はますます暴れて手の付けようが無い。
「あのお二方なればこそ扱えた、相当の駻馬でなあ…」
「なら、あの連中が来たって盗みようがねえじゃんか!」
「いやだからこそ、」
主人の顔はますます厳しく。
「…斬って捨てようとするかも知れんからな…」
「!」
子どもは。改めて二頭の『駻馬』を見た。
特に酷い暴れようの一方は、『兄ちゃん』…昂を常に乗せていた。いささか小ぶりの馬ながら、気はとにかく強くて常に背に乗せた主人を気づかっていた。見舞いに水を運んだ時、馬の身で水の匂いを嗅ぐなり子どもを追い払おうとしたのもこの馬である。
その時。『兄ちゃん』は馬に一声かけて落ち着かせた…
「…『光陰』」
記憶に残った名前で呼びかけると。馬が驚いた様子でぴたり止まった。
「おお…でかした!」
宿の主人を含め周りの人間達は小声ながら快哉を叫ぶ。とは言え当の子どもと『光陰』は、まだ睨み合ったままだった。
「『光陰』、お前さ…」
何度も軽々しく呼ぶな!と言わんばかり馬が子どもを無言で威嚇。それでも先刻までの闇雲の暴れ様とは大違い。
そして子どもには。何故だか、馬達の心情が判る様な気がしていた。
(お前ら…『兄ちゃん』のとこに、助けに行きたいんだな…)
事の道理の判らぬ愚かな馬では無いのだ。事の次第を知ったからこそ、今すぐにでも駆けつけたい…今も。無闇に暴れる事こそ止めたのだが、変わらず厳しい眼で子どもを睨み付けている。
そして子どもには。馬達に睨まれる覚えが確かにあった。
…絶対に手放せなかった首飾り…
あの時もし渡していたら。囚われの身になどならずに済んだのだろうか?
「…っ!」
子どもはぎゅっと身体を突っぱねる。
「しょうがねえだろ!」
「お、おい…?」
突如、抑えた声とは言え怒鳴り始めた子どもに周りが困惑の声。しかし構わず子どもは馬達に、必死で言葉をぶつけて行く。
「そんな事言ったって…今はとにかく、お前らだけでも助からないとだめだろ!ここにいてちゃ、お前らまで捕まっちまう!」
暫し。馬達は互いに顔を合わせ…
そして。
返事代わりに頭(こうべ)を低く垂れた。連れて行け、の意思表示…
「おお…これはこれは助かった!」
周りの大人達はいっそ能天気な喜び様。だが子どもは却って身を固くする。
馬達は上辺は服従を見せながらも。じっと子どもに恨めしい眼を向けている…
「そうだ、お前…馬を引くのを手伝ってくれんか?」
「え…お、おれが?」
宿の主人はにこにこと、全く悪気無く依頼する。
「お前には懐いていると見えるしな…あの小剣士殿もお前の事は気にかけていらしたからな、お前の手柄を聞けばお喜びになるだろう」
「…!」
主人の言葉には皮肉なぞ微塵も無い。
(兄ちゃん…おれ、あんな事したのに…話さなかったんだ…!)
今度は震える手で、『光陰』の手綱を引く。
馬は。表面上は全く大人しく着いて来るが、時折ぎろり鋭く子どもを睨む。
(兄ちゃん…)
針のむしろに座るが如き居心地の悪さと胸を締め付ける不安に。無意識に『首飾り』を握り締める。固い石ながら不思議な心地して、常なら気も落ち着くのだが…今はその感触が何より辛い。
(おれ…どうしたら…)
追手を恐れての通夜の様な静けさが、物言えぬ馬達の怒りにすら思えて来て。子どもの小さな心を責め続ける…
初めに異変に気付いたのは。今度もやはり昂だった。
「こ…金剛!」
「どうした!」
遠方探査を続けていたために偉丈夫と言えども気付くのが遅れた。見れば昂、今し方まで何の異常も見られなかったと筈が…寝台の上で身体を折る様にして苦しんでいる…!?
「一体…」
焦燥に駆られつつも急ぎ室内に眼を凝らす。人外の視力が…部屋にじわじわと満ちて行く、不浄な瘴気の流れを確と捕えた。
「昂!急ぎ剣を抜け!毒を払…」
皆まで言えずにいる内に。室内に、新たな異常…
「うわあ!」
寝台の上で昂は堪らず悲鳴を上げる。何処ぞに隙間でもあったのか、床をたちまちにして黒く染めつつ二人の元へと集まって来るのは…
「…油虫め」
余程この場は不潔なのか。大の男の拳程の大きさ…冗談の様に肥え太った、所謂ごきぶりの類である。
舌打ちしながらも。龍は主人を慮り、たかだか汚らわしい蠱風情に己の鱗気を放とうとする…
しかし。その黒光りする背が…一斉に裂けた!
「何!?」
その背を割って姿を現わしたのは…
「そんな…百足!?」
真っ赤な身に無数の脚、凄まじい勢いで…真直ぐ偉丈夫を目指して行く!
「金剛!!」
少年は不浄の瘴気に如意にならぬ身を何とか起こし。懸命に剣を抜こうとする。金剛も勇士、何とか無数の蠱を払ってはいるが…龍に取っては天敵の百足毒、小さな物でも噛まれれば蠍も同じ。現に何にも動じぬ豪傑の、顔色がみるみる悪くなって行く。
「今…今、剣を…」
まだ、自在には出来ない『浄化』の力を。何としても発揮しようと…
そこへ。嘲笑の声が降って来た。
「全くよォ…しょうのねえ虜だな」
せせら笑う声に眼を向ければ…あの、にっくき領主の息子が立っていた。
「道理の判らねえ連中だ…牢屋にぶち込まれたンだ、しおらしく縮こまってりゃイイのによ…」
酒でも飲んだか奇妙によろよろとした仕草。だが…何故にか昂そうけだつ。
(この人…!?)
何かがおかしい、そう直感した途端。
「う…!!」
…はっきりと瘴気が襲って来た!
「よォ…苦しいかあ?」
記憶にあるよりさらに軽薄、不快な声。へらへら笑いながらさらに牢へと近付いて来る。
「き…貴様ッ!?」
無数の百足に襲われながらも金剛ぎりりと男をねめつける。
「へっへっへ…ザマァねぇなあ?」
縛られた筈がすっかり縄を解いた虜、凄まじい数の蠱。そう言った奇妙の不思議を眼にしても、小物の筈のこの男、動じる様子が一毫も無い…何故?
「幾らデカブツの剣士さんだってよォ…天敵にヤられりゃ片無しだアな…」
「何!?」
何故、百足が天敵と…
「みっともねえモンだなァ…龍の英雄さんよォ」
「え!!」
瘴気に動けぬ身体を無理に起こして、領主の息子である筈の…男を見る。
そいつは。全身におぞけの走るよな笑み浮かべ…片目を隠した、色布を取り去った。
「へ…また、あっさりと騙されてくれたモンだぜ!」
男の、本来眼球があるべき筈のその場所に。奇怪にどす黒い色。
そこには確かに眼があるが。
眼は眼でも違う物が…
角蛇の沼で見た、邪悪なる眼球備えし泥の魔物である。
「いつの間に…!」
叫びながらも昂は歯噛みする。記憶を遡る…宿の通路で始めて出くわした時、この男は既に片目を害した様子だった。そしてこの男も襲われたと言う腐鬼どもは…この、『泥』に操られていたと角の蛇達も言ったのだ!
(何とか…『泥』だけを倒さないと!)
全身を蝕む瘴気に苦痛を覚えつつ、必死で剣を抜きにかかる…
「おっと!抜くなよ、抜いたらそっちが後悔するぜェ?」
全く金持ちの放蕩息子そのままの、いやそれよりさらに質の悪い、神経じかに嬲る如き悪声が…必死の少年をあざ笑い。
そして背後を指差した。
ずず…ずず…何かの引きずられる音がする。灯りも少ない暗闇に向かって眼を凝らすと…
「あ!」
二人ばかりの私兵が、乱暴に床を引きずって運んで来たその人物は。
…宿の主人だった…
「酷い…!」
「おお、心配ねえよ…命までは取ってねえ、『今』はな」
既に人外である事を隠しもせず…かつては曲がりなりにも人の目玉のあった場所、今は虚ろな眼窩に陣取って。泥の触手をにょろにょろと揺らして嗤っている…
昂は一縷の望みを託し、私兵に向かって声の限りに呼びかける!
「ねえ!聞いて!この人は…乗っ取られているんです!この人は…」
だが。兵達は…一声も発さず、ただ黙って口をぱかりと開けて見せる。
「ひ…!」
兵の口の中に。ぎょろぎょろとした目玉が…!
普通ではありえない程に開いた顎の間から、瘴気と衝撃で動けずにいる昂を嘲笑するかの如くににょろにょろにょろりと触手うぞうぞ。
そして。既に正気を失った私兵ども…きらり得物を抜いて、全く意識の無い宿の主人の首にぴたりと向けて見せる。
「なあ?お優しい龍王サンよォ…これがよ、どんな意味だか判るよなァ?」
汚泥の触手が揺れる度。瘴気もますます増して行く…
(C)獅子牙龍児