六章 泥魔 (4)


「おい!」
 どやどやと入って来たのは…血相を変えた男達。
「お前、本気で本気なのか!!」
「本気で本気だってば!」
「しかし…幾らお前が道に詳しいったって、この夜道だぞ?」
「灯り貸せよ!ちょっとでも道照らせりゃ充分だよ!」
「腐鬼の奴らもうようよしてるかも知れねえぞ!」
「平気だよ!あいつら…角の蛇を怖がって、沼の方まではやって来ない!」
「だが…よしんば沼まで着いたとしても、蛇が本当にお前の言う事聞くってのか?」
「き、聞くと…思う…多分」
「あの剣士様だからこそ、角の蛇も従ったんじゃないのか?」
「…う」
 そう。確かにそうなのだ。
 角の蛇達にとって、あの細っこいけど優しい『兄ちゃん』は。間違い無く『尊い御方』なのだ。
「…でも!少なくともあいつら、兄ちゃんが危ないって聞いたら絶対駆けつける!」
 それだけが頼り…

「とにかくそこ、どけって!急がないと…手遅れになるかも知れねえだろ!!」
 大人達は弱って顔を見合わせるばかり…

 不意に。
 背後で別の嘶き轟いた。


「うお!?」
 ドドドドド…やにわに駆け出した黒い巨体に大人達は文字通りに蹴散らされる。…金剛の乗馬、力馬の磐石である。扉の前に塞がる大人達を大した怪我は負わせぬ様細心しつつも鋭い蹴りと噛みつきいななきの威嚇で追い払って行く。
 さらに。腰を抜かした男から、角灯一つ奪い取ると…子どもの所まで戻って来た。
 じっと。子どもの眼を試す様に覗き込む。
「お前…」
 そして。眼を逸らさず耐えた子どもに。くわえていた角灯をそっと差し出した。
「あ、灯りだ!」
 磐石とて先日の経緯…殊に子どもが昂に投げかけた暴言には腹も立てているのだが。それでも子どもながらの決意に感じ入ったのだ。

 何より。…光陰の方が脚が速い。

 最後に激励するかの如く、光陰に何事か馬の言葉をかけてやり。
 行け、と言う風に道を開けた。

「あ…ありがとう!おれ、恩に着る!絶対あいつら連れて来るよ!」
 ヒヒン、早くしろと言わんばかりの力馬のいななき。
「ああ…すげえありがとな!デカ馬!」
 ブフー!ブルルルルル!!棒立ちになっての御立腹。
 どうやら。子どもが咄嗟に付けた徒名が気に食わなかったらしい…

 それでも。
 馬と人間達は。
 たった一人命を賭して走り去る、小さな子どもを一心に見送っていた。



 『泥』に操られた私兵達…今や魔物の巣窟と成り果てた、豪奢な館。
 眼の前の通りを、やはり常より残忍増したる異様の腐鬼から悲鳴上げつつ逃げ惑う人々を…ただただ虚ろなまなざしで見やりつつ。人で無くなった兵達が、ただただ館を警護する。
 そして。その地下…

「全く大したザマだァなあ?戦士殿!」
 へらへらと笑う…領主の息子に取り憑いた、人心操る泥の魔物。
「こうやって、人間の身体に潜っちまえばよ、幾ら戦士殿が眼を凝らそうがまず見えねえって寸法なのさ!」
「おのれ…!」
 ぎりりりり…音が出る程歯噛む金剛。
「ハ!判ってねえ様子だな…戦ってのはよ、」
 元より正気を失っていた男の顔、今度こそぐにゃり奇妙に笑み作り。
 片目のあったその窪みから、泥の目玉がにょろり乗り出し…声も。完全に変わってしまった…


「己が力の過信こそ真っ先に滅するべき敵と知れ…愚かな反逆の龍よ!」

 汚泥の眼球、ぎろり闇き炎を灯す…!


「き…貴様ッ!!」
「ほう…?我が嘘でも申したと?我こそ真の龍王に相応しきと…思い上がりも甚だしく、遂に咎にて人身に封じられしは何処の誰ぞであったかな?」
「違う…それは昔の話だろ!」
 その話は幾度も聞いた。龍族きっての戦士が、人間の中に暮らす柔弱の王に劣るとは…と、かつて自ら王にならんとしたと。豪放磊落の武者が苦渋の表情で語る闇い過去…
 だが。
 昂の心は一度たりとも揺らいだ事は無かった。
「金剛は…一番の龍だよ!」
 龍族の頂点に登り詰めた程の戦士が。天空に舞い上がる事すら封じられた…昂には、その苦しみの方が余程痛い。あの、ほんの刹那かいま見た、金剛の真の姿を思えばなお…
「この世の何処を探したって…金剛に適う勇士なんていない!」
「ハハハハハ!これは愉快痛快余興の肴…」
「貴様…愚弄する気かッ!!」
「いやいや仮にも龍の勇士殿、小さき百足が傷で倒れたとあっては外聞悪かろう…武士の情けにせめてもの、奢侈なる引導渡そうぞ…」
 嘲笑を籠めて芝居口調、そして示したる暗闇から…
 凄まじく巨大な、化け百足が。
 ぞろりぞろり進み行く…

「この…!」
 瘴気いよいよ身を害する中、全き怒りに突き動かされ。昂背に負う剣の柄に手をかけるが…
「…良いのかな?」
 泥、にたり。汚れた触手の差し示すは…人質。
 囚われの身の、あの宿の主人…

 その上。
 何やら慌てふためく様子の足音が。
 通路を徐々にこちらへと…


「若様、若様〜!!」
 従僕とおぼしき人間の声。しかも、『若様』と叫んでいる…これは!
(領主の息子が乗っ取られたのを…知らない人だ!)
「駄目…」
 こちらへ来るな、との警告は。皆まで発せず。
 穢れた泥の手、にょろうり伸びて少年の口塞ぐ…
「昂!!」
 立ち上がった金剛には先刻のあの化け百足が…牢の格子の隙間より、するり入って襲いかかる!
「な…!」
 動けぬ龍の主従の元へと。何も知らぬ伝令、ますます近付く…

「た、大変でございます!街に化け物が溢れ…もうどうにも…」
(化け物!?)
 もがく内にも確かに聞こえた、その言葉。
「鬼どもが!街の奥深くまで…!」
(まさか…追い払った筈なのに…)
 はっとして『泥』を見る。汚泥の魔物は瘴気を吹き上げ…嗤っている。

「時間も我らの数も十二分、今宵は格別繰りにも念入り、如何な強固な塀なり門なりとも内より開けば造作も無い…」

「貴様ッ………ぐっ!!」
 毒の回った身体では、さしもの金剛も化け百足一匹で手一杯。
 そうこうする間に…遂に…
「…ひぃ!!」
 領主の息子…だった筈の、片目の潰れた跡より汚泥でろでろと。驚くな、と言う方が無理である。
 その泥の触手、にゅううと延びて従僕の首をぐるりと巻取ってしまう…!
(そんな!!)

「大概に…しろ!」
 剛力に物を言わせ無理に化け百足引き剥がし。金剛が大剣を抜く。そして昂を締め上げる触手断とうと…
「…!!」
 声も出せぬ不如意の中、昂が身振りで必死に制す。
 泥の手中にある…宿の主人に、哀れな従僕…
「愚かな龍め…力ばかりを頼み、猪突猛進するより他に能の無い…」
 泥が。宿体の口を使って奇怪に嗤い…
 不意に。昂を戒める腕をす…と、解いた。

「う…ゴホッ!!」
 酷い瘴気に包まれ呼吸を奪われ、少年は酷くむせ返る。今夜はただでさえ、熟睡の中を中途で起され、また戦い終わって間も無いのだ…
「昂!」
 崩れ落ちる身体を案じて。金剛が急ぎ駆け寄る…
 その時。

 はっと。昂が何かを察知し顔上げた時にはもう遅かった…

「な…!」
 ぞろぞろざわわ、不快なる足音けたたましく…凄まじい勢いで。
 無数の巨大百足が牢の中へと潜り込む…!
「金剛!!」
「…うぐッ!!」
 偉丈夫の剣も幾匹かは誅したが。数が多い速い…昂がよろめきながら立ち上がった時には、もう幾筋もの血飛沫が上がっている!

 人質。宿の主人、何も知らぬ従僕…街の人々。
 そして金剛。
 昂の心は焦燥で潰れそうになる…

「助けたいかな、龍王殿?」
 絶望の奈落に落ちた少年に。
 偽りの慇懃声が聞こえて来た。


「心優しき龍王殿…知っての通り、地下の大百足も地上の腐鬼も我が配下、皆々我が如意にて動く者…」
 ニタリ。『泥』が、宿体の顔を使って笑みを作る。
「つまり。…我が一声にて、皆々全て退かせる事も容易きこと…」
「…え!!」
 呆然のあまり無防備な心に。その言葉は深く侵入する…
「さて、龍王殿。…取り引きをしようでは無いか」
「と…取り引き…?」
「左様。龍王殿が、我が提案飲むならば…」
「飲む、なら…」
「ならば。我、全ての兵を退かそうぞ?」
 溢れる瘴気にも当てられて。
 昂は半ば無意識で答えていた。
「ほんとう…に…?」

「ぐ…いかん!昂、聞いては……ぐ!がはッ!!」
「金剛ッ!!」
「無論。色良い返事とあらば武者殿も助かろう…如何がかな?」
「…戯れ言を!!」
 偉丈夫、毒の回った身で死力を尽くし。両の腕各々で一匹づつ大百足の身をへし折って見せる…
「見ろ、昂!ほんの、これしき…何程の事も無いッ!」
「金剛…」
「それより早く剣を抜け!お前の浄化の力ならば『泥』どもなぞ刹那も待たずに…」
「だが地上はどうすると言うのだ?」
 主従の会話に割り込む、せせら笑う声…

「斯様な地下にて浄化の光放つとて、地上までにはどうにも届かぬ…いやさ、如何に龍王殿と言えど一時の浄化であの数を、滅っする訳にも行くまいよ!」
「そ…そんな…」
「聞くな昂!術中にはまるぞ!」
「浄化なり、斬って捨てるなり…よしんば龍王殿の勝利となったとて、それまでに死体の山は一体どれほど高くなるのやら…」
「や…止めて!もう誰も殺さないで!」
「昂!そやつの妄言なぞ…」
 身に取り付く蠱どもを、無理に引き剥がそうとする偉丈夫に…再び何処ぞよりか湧いて出た、大百足が猛襲する!
「ぐッ!!!」
 全身毒蠱に覆われて。丁度いつぞやの怪虫との戦いの折の様に…その体躯が崩れ落ちて行く…
「金剛!!」
「剣を抜くなら命は無い!」
 鋭い声に打たれて。昂は頼みの剣も使えず…
 そこへ追い打ちをかける様に。
 一転して、穏やかな…いやむしろ猫撫で声が響く…
「助けたいか?」

 もう、昂の頭は許容を越えて真っ白だった。のろのろと『泥』の甘言に耳を傾ける…
「助けたかろう…その龍を、そして他の者どもを」
「僕…どう、したら…」
 泥の魔物が。宿体を口を酷く歪めて、悪寒の走るよな笑み形作るのも。最早まるで気付かない。今やすっかり百足に覆い尽くされた…偉丈夫がわずかに身じろぐが、やはり昂に反応は無い。

 『泥』の発する瘴気には。ただでさえ心惑わす毒の力が備わっているのだ…

「どうしたら…皆を、助けられる…の…」
 少年は今や完全に。罠に、落ちたのだ。


「龍王殿、我が意に従って貰おうか」
「うん…」
 絶望と瘴気に冒されて、半ば虚ろなまなざしの当代龍王。その様に『泥』の邪悪な笑みは深くなる…
「では手始めに。剣をその身より離せ」
 のろのろと、昂の手が動く。片時も離さず、と言っても過言で無い程ともに在ったその剣を。龍王の無二の証である、いにしえの剣を吊った綱を…自ら解いてしまう。
 …がちゃり。悲鳴の様な反響を立てて地に落下。
「よし」
 ぐにゃり。邪悪の笑みはさらに深まり…
「こちらへ、放って貰おうか…」
「これ…を…」
「ああ」
 泥の魔物が。ヒヒヒと下卑た音を発している…

 剣に屈もうとした少年が、大きく揺らぐ。ただでさえ毒に鋭敏な身なのだ…その上、常に主を護らんとする剣を手放した今となっては…それでも逆らう気力も毒に喰われた少年は、よろよろと懸命に頼みの剣を魔物の方へと押しやってしまう…
 龍王の剣は。今やすっかり牢の外。
 『泥』の嗤いが。…頂点に達した!

「死ィィィィィねェェェェェェェ!!」

 シュッ…!!
 泥の魔手が矢の様に伸び…動けぬ少年の首を締め上げて行く!!

「ははははは!!死ね死ね死ね、疾く疾く疾く疾く死ねェェェェ!!」
 毒の魔の手の執念が、さらに苦しめと言わんばかりに…既に蒼白の少年の身を、さらに持ち上げ…最早、爪先立ち。
「…ぐ…!」
 百足の山、ぐらり。無数の毒虫噛まれたまま、金剛遮二無二立ち上がり大剣再び握り締める…
「昂…ッ!!」
「ハ!深手の身で何をしようと?」
 嘲笑とともに汚泥の触手、金剛にまで!
 …私兵のだらり開いた口中から、汚泥の腕伸び…満身創痍の偉丈夫を戒める!
「ぐうう…くっ…離せ…」
 稀代の龍が決死で伸ばしたその腕も、死の縁にいる若き当代には届かず…
「ははははは!愉快痛快爽快なり!剣が無くば龍王も、力無き事赤子も同然!」
「き…貴様ッ!!」
「愚か愚か愚か!!全くもって龍の眷族皆愚かよの…力ばかりを頼みとし、驕り高ぶり慢心し!さればこそ、些細な事にも足元掬われるのだ!」
 大百足がわさわさと動き、新たな噛み傷一つ二つ三つ…血潮だらり。
「ぐふッ!!」
「おお、もがけ苦しめ龍族め!」
 くわっ!宿体の口がぐわりと裂け…
「そして…思い上がりも甚だしく、自ら王にならんとしてその身に受けた咎が因…」
 ぎとり…泥の眼球、苦悶の少年にひたと据え。
「真の王の死に行く姿に…」
 狂気の残虐、爛々と。
「…悔恨の涙でも流すがよい!」
 ぎりりりり…ッ!

「昂ーッ!!」
 血を吐く叫びに答えるどころか、悲鳴すら挙げられず…くたり倒れる首…
「あああ悲願ぞ!我が一族、『ディーマ』が悲願!龍族の王を討ち取ったりィィィィィ!!!」
 不浄の哄笑、暗き地下に響き渡り…
「さあさ主ばかりに黄泉越えさせては不義にもなろう、逆賊の龍よ…せめてもの情け、王に殉じさせてやろう…」
 ニカリ…不吉の嗤い顔…

「…させぬ!」
 鋭い声と。時を同じくズブリと音。

 泥魔『ディーマ』は驚愕に眼(まなこ)見開いた。

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(C)獅子牙龍児
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