六章 泥魔 (5)
取り憑かれ操られた私兵の脚の辺りから、鋭い角が生えている。その角、確かに覚えがある…
「ヤチ…か?」
そんな筈は無い、遠く沼地に住まう種族が…だが後から後からぞろぞろと現われる蛇達の姿、見間違い様が無い。
疑問に答える如く、小さな足音が聞こえて来た。
「兄ちゃ〜ん!!」
(この声は…!!)
沼地への、小さな案内人…昂が酷く胸を痛めていた、あの子どもの声…
「兄ちゃん!兄…」
ヤチの群れを引き連れて、やって来た子ども…昂の惨い様子に言葉を失う!
「よくも兄ちゃんを…この野郎ッ!!」
床を埋め尽くす翠の潮…幼い怒りに負けじとばかり鋭き角を振り立てて、咄嗟に動けずにいる強力の泥魔…今まさに昂の命を奪わんとする『ディーマ』に一斉に襲いかかる!
「角蛇風情が…おのれ!!百足ども、奴らを食らえ!!」
『ディーマ』の命ずるまま、大百足達が金剛を離れてヤチの群れへと向かって行く…
偉丈夫の身を覆う、毒虫全て剥がれ落ちる!
「金剛様、お早く…当代様を!!」
「…心得た!」
思わぬヤチの援護が効用、宿体を傷つけられた二体のディーマは動き明らかに鈍っている。最早恐るに足らずとばかりに膂力にまかせて拘束引き千切り…今度こそ、しっかと愛用の剣ひっ掴むと昂を締め挙げる死の縄を両断!
倒れ行く少年の身体…
「昂!!」
瘴気に当てられ呼吸を奪われ。紙より白いその顔色…喉の辺りには毒の触手に締め挙げられた、どす黒き跡がありありと…
「兄ちゃん!兄ちゃん、おれだよ!おれ…」
堪え切れず泣きながら、子どもも決死で駆けつける…角蛇と大百足の戦場と化した通路の中を。
「この…人間風情が…!!」
ディーマの眼球、ぎろり子どもにぴたり据え。汚泥の腕を伸ばさんとする…
が、怒りの子どもはひるまない!
「どけよこの野郎!!」
腕に抱えた壷の様な器に素早く手を入れ。何か掴んでぱっと捲く…翡翠砕いたかの輝く粉、狙い過たず泥の眼の中へ!
「うぬ!?…アガガガガガガガガッ!!」
堪らず宿体ごと膝を折る…
同じく私兵を宿体とする二体も同じ目に遭わせ、見張りから奪ったらしい鍵束手にして一心に走る…
「兄ちゃん…おれ…今行くから!!」
ともすれば襲いかからんとする化け百足なんぞ見向きもせで。子どもは必死で牢の扉を開け放つ!
「兄ちゃん!」
鉄砲玉のよな勢いで、牢に飛び込んだ小さな子どもは。あの後生大事の『形見』の首飾り…『降魔の御統(みすまる)』をためらいもせず外して昂の首へ…
「兄ちゃん、おれ、これもう要らないから…兄ちゃんのだから…」
「…お前…」
思わずまじまじと見つめる金剛の前。子どもは耐え切れず涙をこぼす。
「だから…だから頼むからッ…死なないでくれよ!!」
…ぽたり…
純粋の涙とともに。永き歳月を経て、始祖龍の持物が龍王の正統の手に戻され。
そして。
当代龍王の首の上、『降魔の御統(みすまる)』…その名に恥じぬ眩しき閃光放つ…!!
地上の翡翠、全て集めても足りぬ程の煌めきが地下を昼間に変え。
ゆっくりと、淡く散じて行く…
誰もが言葉を失った中。
昂の瞼がぴくりと動いた。
もう、首の惨い跡も消えている。
「昂!昂…気が付いたのか!」
金剛が安堵の息を吐いた隙、子どもがぱっと昂に飛びつき矢継早。
「兄ちゃん兄ちゃん兄ちゃん!おれだよおれ!判るかよ!?兄ちゃん平気か?やっぱどっか痛いとか…」
「これ、お主…当代様はまだまだ弱っておられるぞ」
相も変わらずの子どもぶり、角蛇ヤチの長は咳払い。
昂も。いまだ意識覚めやらぬ中…いきなりのこの状況全く掴めず瞬き繰り返すばかり。
「なあ…兄ちゃん、辛いか?苦しいとことかあるのか?」
「え…ええと…」
昂の瞳が、漸く子どもを捉えるが。
「あの…どうして君が、ここにいるの…?」
…無理も無い。
取り合えずは百足も何も『降魔の御統(みすまる)』の力の発露にて、何処ぞにか逃げ去ってしまっている。それでも手短に、事の次第を簡潔に。
「何と…お前一人であの沼まで!」
「そんな…危険過ぎるよ!」
「へへへ…でも、『光陰』の奴もいたし!実際さあ、おれいなかったら兄ちゃんもヤバかったんだぞ!」
「そうだけど…」
案じ顔のまま、身を起こしかけ…そのまま再び蒼白顔、酷い目眩にぐらりよろめく。
それを支え損じる金剛では無いが、やはり満身創痍の身…偉丈夫の顔も苦痛に歪む。
「あ!そう言やさあ…おっさんも良く見りゃすげえ怪我してんじゃん!」
「…良く見れば、とは大した言い種だな」
「ちょっと金剛!」
変わらぬ子どもの豪胆ぶり、昂も幾らかやきもきするが。
…当の子どもは落ち着き払ってむしろ得意気に、先刻の壷を掲げて見せる。
「おれさ!ちょっとすげえの持って来たからさあ…」
「凄い、もの?」
首を傾げる昂に機嫌良くにいいと笑って。壷にぐっと片手を突き込んで、中味をぱっと盛大に…
「うお!?」
「うわっ!ちょっ…ゴホッゴホゴホッ!!」
わずかな灯明にもきらきら輝く粉は美しいが。とにかくむせる…
「あ、悪ぃ兄ちゃん…」
「こ、こら!お前はどうして考え無しなのだ!貴重な『薬』をぞんざいに…」
「薬…?」
確かに。気のせいか前より遥かに気分が良い…?
「並の『薬』では無い様だな」
振り返れば金剛、身のここ彼処から治癒の白煙立ち上らせている。…痕も残さず見事に回復。
「あ…百足の毒、平気なの!?」
いつぞやの闇甲虫の時ですら、傷は酷い様相であったのだが…
「左様、この伝来の『秘薬』あらば蠱の毒なんぞ奇麗さっぱり消えますぞ!」
「凄い!…そんな薬が…」
「けど、これだって兄ちゃんのお陰なんだぞ!」
「…え?」
眼をぱちくりさせる昂の様子に、子どもも蛇もからから笑っている。
「このすげえ粉さ、蛇の元々住んでた所に置きっ放しでさ。長く取りにも帰れなくってさあ…」
そうだ。角蛇ヤチの一族は、元いた沼を泥魔のディーマに奪われて、かつて親しくしていた人間の村まで襲う羽目に陥ったのだ…
「けど、こないだ兄ちゃんすげかったろ?あれで元ん所も結構マシになって」
それでも泥の魔物の跋扈する内はどうにもならなかったが。
「急にさ。あの泥っぽい連中がさあ…丸々全部、どっかに消えて…」
「それで我ら意を決し、古き住処へと戻って見たのであります…」
そこで見つけた伝来の品。凄まじいまでの毒消しの魔力有するその『秘薬』、さしもの泥魔も攻めあぐねてか…手付かずのままで残されていた。
しかし。同時に角の蛇達はいぶかしむ。
それにしても…『泥』どもは一体何処へ消えたやら…
「もしや、当代様が害される様な事は…と」
…街に向かって大移動を始めた所に、丁度子どもと光陰が差し掛かったのである。
昂はそろそろ身体を動かしてみる。『降魔の御統(みすまる)』に伝来の秘薬、二つの力で体力も粗方回復した様だった。一度は操られて自ら捨ててしまった剣を手に取って、抜いて見れば…瞬時文句を言う様にぴかぴか光ったものの、結局は常通りに主を案じる柔らかな輝き。そっと微笑んで…表情を引き締めた。
「街は?腐鬼はどの位?」
「…すげえよ。動きは結構ムチャクチャだから、案外おそわれた奴は少ないけどさ、もう街中メチャクチャ」
「じゃあ、急がないとね」
「当代様…」
迷い無く立ち上がる昂の姿に、角の蛇がため息一つ。
しかし。
「畏まりました。我ら一族、及ばずながら助太刀申しましょうぞ…」
「ありがとう…でも」
「でも?」
「約束、して」
真摯の瞳で、ヤチ達を見渡す。
「…皆、絶対…生き延びるんだよ」
「…当代様!」
「兄ちゃん」
振り返ると、すぐ傍に子どもがいる。先刻までの無邪気な笑顔では無く真剣な表情。
「『光陰』達、上で首長くして待ってる」
常通りの子どもらしい言葉でありながら、何処か強い意思がにじんでいる。
「うん」
「おれ…おれさ、」
ぐっと拳を握って。
「あんまさ…人間がさ、いなくなるのって…嫌なんだ…」
「君…」
「だけど…だけどさ!」
きっ!と。昂を見上げて。
「おれ…やっぱり兄ちゃん無事なのが一番、なんだ…」
…痛い程の気持ち。
幼心に抱えた葛藤…
昂はそっと子どもの肩に手を置いた。
はっとして。再び見上げて来る子どもに。
「この首飾り。本当にありがとう」
そっと。微笑んでみせると。
子どもの顔にも。ほんの少し、笑顔が戻った…
(C)獅子牙龍児