六章 泥魔 (7)


 目覚めた時。
 …初めて幾日も昏々と眠っていたと聞かされて。覚悟はしていたが金剛の「胆が冷えたぞ」をまた懇々と聞かされて。
 そんなこんなで実感は何とも怪しいのだが。

「…一つ目の試練、お前は間違い無く果たしたのだぞ」

 繰り返し繰り返し金剛の感嘆の言葉を聞く内に。また何より龍王の証の剣の無言の輝きを見るにつけ…徐々にではあるが、己が成し遂げた事の重大さが判って来た。

「僕…少しは龍王らしい事、出来たの?」
「少し所の騒ぎでは無い」

 全く信じられぬのだが、あの腐鬼の害すら全く絶えたのだと言う…


 とは言え全てが丸く収まった訳では無い。


 街は一変していた。
 豊かな街並はその過半を炎にやかれ毒に汚され。相当の数の住民達が泣く泣く新たな天地を求めて去って行った。無論持ち堪えた家屋も少なく無いが、全くの昔に戻る事は無いだろう…
 領主の息子とその一党も。長く取り憑かれて領主の息子は病に倒れ、しかも最早両眼ともに見えぬらしい。或いは『眼潰し』が効き過ぎたのかも知れぬが…皆、この男の罪状ならば掃いて捨てる程知っている。同情の声など一つも無し。同じく繰られた私兵の中には気の触れた者もいるとかいないとか。
 だが。何もかもが破壊し尽くされた訳では無く。

「…誠に何と御礼申し上げればよろしいやら」
「いや、先にも言った通り…あの魔物どもはな、」
「いえ!昂様、金剛様の御働き無くば我が同胞、あのまま捨て置かれたに相違ありませぬ!」
 宿の主人の平伏、平伏…龍の主従がこのよな待遇不慣れなのは勿論の事、この主人とて普段は過剰で無為な儀礼せぬ質である。
 金剛と昂、顔を見合わせてただ苦笑。

 宿の主人は。これを機に、宿を信の置ける者に任せて同族と暮らす道を選んだのである。
 同族…かつて街の城壁の外、恐ろしく劣悪なる場にて押し殺した様に暮らしていた一族。
 昂の浄化の力の発動で毒消えて、その上腐鬼に泥魔の完全なる一掃で。再び故郷に戻れる算段が付いたと…
「いや不思議にも、一度は大きく溢れた沼も…今は元通りの大きさに!」
 泥の魔物が消えたからか、田畑も村も何もかも飲み込んだ…沼地の拡大も今は昔。驚くべき事に、半ば底無し沼と化していたあの湿地すら、今は程よく乾いているとか。
「これは…気のせいかもや知れませんが、火の山の毒すら薄れております!」
「じゃあ…!」
「はい」
 涙ぐみつつ、宿の主人。
「もう…我ら一党、街の者達の顔色窺い怯えて暮らす事など無いのですよ!」


 名残惜しいが、出立の時がやって来た。
 昂が頻りに辺りを見渡している。
「どうした?」
「あの…あの子…」
「おお、あの無礼極まる小僧か」
「ちょっと!勇敢な良い子だったよ!」
「しかしな。お前にはひとかたならぬ世話になったと言うのに、一度たりとも礼に訪れぬとはな…」
「忙しいから、きっと」
 取りなしながらも昂の表情は消沈である。

 あの何処か悪戯盛りの様子だった子どもも、今や村の復興の旗手だと言う。かつての恐怖の記憶から、いまだ角蛇に慣れぬ者も少なく無い中…両者の掛橋となって飛び回っていると聞く。
 もう一つ。
 …子どもが妙に疎んじられていた理由が、実の姉を亡くしても涙一つ見せなかった故と聞いて。そして無論今では誤解も解けたと聞いて。今や子どもの身辺が、良い方へ良い方へと進んで行く事を…今一度、一言でも祝福したくて。
 一度ならず村へも赴いたのに、行き違いになって結局会えず終い。

「もう一回位、あの子に会いたいなあ…」
「…物好きな事を」
 盛大に笑い飛ばしながら。金剛はさっさと磐石に乗ってしまう。
 仕方無く、昂もまた。急かす光陰の背に乗った。


 …街も離れて大分進んだ頃。
「あれ?」
 遠目にも鮮やかに、翠の潮が近付いて来る…?
「ひょっとして…!」
「ヤチの衆だな」
 馬達の脚を止めさせ、懐かしい者達との最後の別れを…

「兄ちゃ〜ん!!」

「…この声!」
 昂の顔がぱっと輝く!
 忘れもしない、あの勇敢なる子ども…『降魔の御統(みすまる)』の、元の持ち主…
 声の聞こえる方角へ、笑顔で手を振りかけて。
 …ぴたりと固まった。

「どうした?」
 からかう様な金剛の声。
「だって…だって…!」
「何か、尋常ならざるものでも見えたのか?」
「だって!!」
 震える指で、一点を指す。
 そこに…

 髪が全て翡翠の色の、だがそれ以外は間違い無く見慣れたあの子どもが…!

「ど…どうして!?」
 堪え切れず、豪傑からからと豪快に笑う。


「なあ、兄ちゃん…驚いたか?」
「そりゃあ…」
 してやったり、と言う風で。機嫌良く笑う子どもの前、昂は瞬き繰り返すしか無い。
「でも…やっぱり、僕のせいだよね…」
「違う違う!」
 慌てて子どもがうつむく昂に否定する。
「むしろさ。兄ちゃんの、『お陰』ってモンでさ!」
「お…お陰??」
「おれ、絶対兄ちゃんにありがとって言わなきゃなあ…って思ってたんだぞ!」
 髪が、人にはありえぬ色になったのに…?
「全く…」
 驚いたままの昂の前。角蛇がため息を付いた。

「全くこやつは分に過ぎたる果報者、あれ程の無礼を当代様に働いたと言うのに…御幸の『しるし』を頂戴するとは!」
「へへ〜!お前らうらやましいだろ〜!!」
「う…羨ましい…?」
 本当に。角の蛇達は…翠の髪の少年を、少々嫉妬めいた憧憬のまなざしで見上げている…

「この者全く過分にも過分、選りにも選って当代様の御鱗気を…それも、かのにっくき百眼の泥魔を滅する程の御威光を重ねて三度も受けた次第」
「でさ、何か…おれ、髪ばっかりじゃ無くって何か変わったんだ!丸ごと…」
「え?」
「身体もすげえ動くようになったし…力も」
 二の腕を晒して力こぶを作って見せると思わず驚く程の隆起。
「わあ…」
 気のせいか、幼い顔にも何処か精悍さが加わっている。
「でも、こんなのだけじゃ無くってさ。もっと、深いとこから変わった気がするんだ…」
「深い所?」

「…何かこう…胆が座ったって言うのかな?そんな感じ」
「全く!お前の胆なぞ初手からして座り過ぎる程に座り込んでおるわ!」
 相変わらず、角蛇いちいち子どもの言葉に口挟むが。傍で聞く分には実に微笑ましい…
 だが。子どもが急に真顔になる。

「兄ちゃん」
「…え?」
「兄ちゃん…どっか、遠くへ行くんだろ?」
 静かな、穏やかな…むしろ落ち着いて大人びたと言って良い声だったが。同時に何処か切実に聞こえる。
「だから…しばらく、会えないよな…」
「…!」

 『しばらく』…子どもの幼さから来た言葉では無い、むしろその逆。
 子どもは。敢えてそんな言葉を使ったが…きっと判っている筈だ。

 翠の髪を少し揺らして。昂に向かって笑って見せる。
 その笑みが、虚勢で無い事こそが痛くて。
 昂は知らず涙を流す…

「あーあ!兄ちゃんてすげえ泣き虫だなあ…」
「…違う…よ…」
「ほんとに大袈裟だよなあ…コンジョウの別れって訳でも無いのに」
 はっとして顔を上げた昂に、にっかり子どもの晴れやかな笑み。
 『今生の別れ』…いや、この幼さでも知っている筈。いずれ龍界に渡り龍族の再興を図らねばならない昂と…この小さな子ども。二人の行く道が、今後再び必ず交わると言う保証なぞ皆無…
 だが。
「おれも兄ちゃんも長生きすっから!生きてりゃどっかで会えるよな!」
「君…」
 昂に瞳に新たな涙が溢れる。
 そう、この子は本当の別れを知ってしまったから…

「それにさ」
 何処か照れた様子で視線を外しながら。
「おれには、『これ』があるから…」
 遠目にも鮮やかな、翠の髪…
「絶対さ。兄ちゃんの事、爺イになっても覚えてられっからな!」
「…うん…うん!」
 短い間だったけれど、きっと一生忘れられない出会いの証…


「さて、そろそろ行くぞ」
 金剛が磐石の手綱を握って進み始める。
 釣られて光陰もまた、歩き始めるが…
「ちょ…ちょっと待てよ!」
 子どもが馬上の昂にすがった。

「あの…あのさ、兄ちゃん…」
「ん?」
 胡散臭そうに無遠慮に眺める光陰を制し。言い淀む子どもをそっと促す。
「平気だよ、言ってみてよ」
「…うん」
 子どもが。少しばかり下を向く。

「おれの…おれの村じゃさ、昔から言い伝えがあって」
「言い伝え?」
「長生きするにはさ、長生きしそうな相手に名前を預けるのが一番って言ってさ」
「名前を…預ける…?」
 首を傾げる昂を…真摯に見上げて。
 子どもが不意に叫ぶ。

「おれの名は…ラオ!姉貴の名はリィ!」
「え!え?」
「…預けたぜ」
「えええ!?」

 子どもが悪戯っぽく笑っている。
「確かに、預けたから…な!」
「あの…ラオ…?」
 名前を初めて呼ばれて、心底嬉しそうに笑って…
 そのまま。脱兎の如く駆け去って行く。

「全く…」
 幾度目かの、角蛇のため息。
「礼儀知らずにも程がある…」
「同感だな」
 昂も。笑おうとして。
 …また、泣いてしまっていた…


「面倒な事を押し付ける奴め!」
 豪傑らしい、笑い。
「これは…昂、死んでも長生きせねばなるまいぞ?」
「…うん!」

 振り返っても、子どもの…ラオの姿は何処にも無い。
 それでも。
 眼を閉じれば広い大地の何処かにて。あの翠の髪の揺れる姿が…

 はっきりと見える様な気がしていた。

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(C)獅子牙龍児
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