七章 火霊 (4)


 感じるのは熱さならで暖かさ。不快が潮の引く様に消えて行き、優しき心地良さのみが残る。ふわり、安眠の後の様な穏やかな目覚め。
「あ…れ…?」
 痛みが無い。
(僕…死んじゃったのか…)
 痛覚の無さに薄ら寒い感覚が走り、ぶるり震える。が、震えて始めて確かな身体を実感。
(身体、ちゃんとある?…じゃあ、どうして痛く無いんだろう…)
 そろそろと、緩やかに瞼を開ける。眼をきょろきょろと動かし…頭上は変わらず蒼穹広がり、視野届く限り岩山の列。記憶の最後に残る烈火は残渣も無く、ただ柔らかな淡橙色の霞が身を包むが不思議と心地良い。
「気が付いたか…わたしが分かるか?」
 気遣う様に穏やかに低く問われ、そっと頭を動かせば…まだ、目眩が残る…懐かしい、姿。
「金剛…」
 良かった、無事だったと続けようとして絶句する。外套もはや穴だらけ、身体を覆う役には立たず、下の衣もまた同様。傷口こそ治癒の白煙に隠れ見えないが、その白の雲気のたなびきの著しさを見るにつけ、偉丈夫の得た深手の酷さが忍ばれる。
「無茶…しないでって、言ったのに…」
 抗議の声すら呂律がうまく回らぬが、それでも必死に。
「…お前の方が余程無茶だろう、そら」
 顎でしゃくられた方へゆっくりと顔を動かせば、確かに一面広がる火傷の海に…火蜥蜴!かの使役と化したクシャトリヤが、まさしく全身全霊を捧げ…昂を包み癒す霞の正体は、火蜥蜴の渾身の治癒の霊気であったのだ。
「駄目だよクシャトリヤ!そんなにしたら…」
 王者の風格であった古老の姿、今では真紅の鱗もこそげ落ち、見るも無残な襤褸の様。その身朱の霊気産する度、さらにさらに痩せ細る。
「良いのですのじゃ…火蜥蜴の傷治すに火蜥蜴に比する者無し、毒を焼き払うに我が一族の炎に勝る物無し。そうで無くともこの老いぼれが、畏れ多くも玉体に刻みし傷…」
 ふわり、灼熱ならで暖かの霊気流れ込む。その穏やかな奔流に、身体の不快ことごとく、潮の引く如く消えて行く。と同時に、誇り高き古老の身、かばかりかその命すら細うくなりぬを敏に知り、止めねばと必死の思いに身を起こそうと…
「無理ですぞ。昂様はつい先程まで紛う事無く死の縁に、常世の口に御座したのじゃ」
「だけど…このまま力、使い続けたら…クシャトリヤが死んじゃう、よ…」
 言葉を告げようにも恐ろしく舌も唇も重く、とつとつとしか物言えぬ。
「良いのですじゃ…」
 あの、頑固な筈の古老の面、不思議に優しい笑み浮かび、かえって決死の覚悟を感じ取り昂の瞳に涙が浮かぶ。
「なんと勿体ない…この老いぼれのために、泣いて下さるとは…!」
「駄目…駄目…」
「昂、どの道古老の助かる道は無い。泥魔どもが霊気ことごとく吸い取ったのだ」
 金剛の、静かな言葉も胸に苦しく。
「左様ですとも。…どうか、老いぼれの我がまま黙って聞いて下され…」
「クシャトリヤ…!」
 せめて、その細く小さくなり行く身体をば、優しく抱き締めてやりたいのに一度は死に近付いたこの身体、自分の物とは思えぬ程にどうにもならぬ。ひたすら、真珠の粒ばかり流すより他無かった…



 ゆっくり、身を起こす。もう、目眩も無く、身体の何処にも痕すら無く。そして火蜥蜴…魂まで燃やし尽くしたその者は、弔うべき遺体も残さず。
「クシャトリヤ…」
 身体が元の通りであるもかえって悲しく、新たな涙頬伝う。男の太い腕が、そっと嗚咽に震える少年を宥める如く抱き締めていた…


「龍王様…」
 遠慮がちな声が響く。そっと振り返れば無数の火蜥蜴、かつて泥魔の支配にあった、その気配は既に無く。
「泥魔を、倒して戴き…真に有難うございました…」
 礼を言いつつ顔色優れず。無理も無い、今しがた頼るべき長を無残に失ったのだ。辛そうに面を伏せる昂を思いやり、代わって金剛が群れに問う。
「早速で済まぬが、次の長は決まっているのか?」
「は、それはもう…この、」
 数匹の火蜥蜴が示す様に向いた先、確かに頭上に鶏冠にも似た象徴戴く赤の身…だが。
「オレは認めねえぞ!」
 背の刺ことごとく逆立てさせ、真紅の瞳でぎょろりと睨むその蜥蜴…酷く小さく子どもと見えた。

「オレは長の名を…クシャトリヤの名は何が何でも継がねえぞ!継いだら最後、そこの…」
 ぎりりとばかり今一度、昂を鋭くねめつけて。
「弱っちい餓鬼風情の使役になっちまうからな!」
 ぐさり。言葉鋭く刃となる。

「若、王の御前でそれではあまりに無礼…」
「さ、早う頭を下げなされ…」
 周り口々心配声、されど激怒の若君知らぬ振り。
「だあーれが!第一、こいつ…長の仇だろ!」
 偉丈夫の膂力の腕の中、言葉の毒に耐え切れず、肩を震わせ身を縮める少年庇い、男の瞳厳しく細る。
「言うに事欠き…貴様、昂の…当代龍王の苦しみが分からぬのか!」
「分からねえな!泥魔倒したのも結局長じゃねえか、そいつが一体何をしたって言うんだ?長を殺す以外によ?」
「…誰が泥魔の支配より貴様の先代を救ったのだ?見ていた筈だろう!」
「ハ、そりゃ武家さんよ、長の力に決まってるだろが!そいつの不甲斐無さに長が発奮した、つまりはそう言う事さ」
「貴様…」
 男の瞳に剣呑宿る。暫し、思い上がりの子蜥蜴をば憤怒で見やり…いっそ殺意すら垣間見えたが…震えたままの少年抱き上げ踵を返す。
「こ、金剛!?」
「へえ?あんた、逃げるのかい?」
 昂の驚き慌てる声に傲慢の若の嘲り重なる。
「貴様の様な愚にもつかぬ輩とこれ以上の会話、まこと無為極まる時間の浪費」
「…何だと?」
「金剛、あの、試練は…」
 偉丈夫怒りに任せ、まるで構わぬ。
「捨て置け、既にお前は長との誓約も果たした故…」
 ここに用は無い、との言葉は中途で切れた。何故なら。

 かのいにしえの剣、突如奇妙に光り輝き…引き抜き刃をあらためれば、自らを主張するが如く龍紋の舞い忙しなく…
「これは…」
「な、何だってんだ!?」
 いまだ龍紋を確とは読めぬ昂にも、剣の不快は見てとれた。金剛、火蜥蜴はさらなり、剣の申し立て如実に読める。
「先の使役、王命一つとして果たせず死した故…」
「その誓約は全く無効、だと?…畜生、長の命懸けも結局無駄だって言いたいのかよこの糞剣!」
 ぺっと唾吐く。無論被る距離では無いものの、剣の不快さいや増し。昂も如何ともしがたいが。
 主なじられた金剛の怒り、剣の意思にも冷めやらで。
「火蜥蜴ならば他にもいよう…龍王の剣も見分けぬ無知蒙昧、斯様な愚者との誓約などせぬが当然!井中の蛙めが、せいぜいつけあがっているが良い!」
「へ、こっちこそご免だね!」
 剣の制止も聞かで、ずんずん歩を進めるが。
「金剛!」
 ぴくり震え、昂の唐突の警告。
「何だか…寒い!ここ、火口の傍なのに、どんどん気温が下がっている!」
「なに?…これは…!」
 火蜥蜴の群れもようよう異常に気付き不安げに。男も龍の感覚張り巡らし、辺りの様相詳しく探り。
「な、何てこった!」
 さしもの若君も御狼狽、何時の間にやら包囲網、しかも漂う不浄の大気。
「…さっきので全部じゃなかったのかよ!」
 ずるり。岩の影と見えた闇動き、たちまち無数の眼浮かぶ。…泥魔の大群であった。


「わたしの陰に付け!決して戦おうなどと考えるな!」
「でも、金剛!」
 豪傑言えども満身創痍、死闘に既に歯こぼれ激しい大剣構えるその姿、昂は気が気で無く。必死で王の剣を引き抜いた。だが途端ぐらり、男に片手で支えられる。
「無理だ、今のお前は言わば蘇生したばかり…」
 強引に引き寄せられるが全く抵抗できぬ。
「誓約の儀は多量の鱗気を要するのだ、今は動くな…お前は、わたしが護る」
「金剛…」
 そっと、泣きそうな少年に微笑みかけ、きっとまた表情厳しくし火蜥蜴達に檄を飛ばす。
「貴様らもその様に悪戯に散じるな!各々身を寄せ守り固くしろ!」
 浮き足立つ様子の蜥蜴達、鋭い指示に眼を覚ましたか陣作るべく動き出す。
「お、お前ら!?あんな糞野郎の言う事聞くんじゃねえ!」
「…部下を奪われ不満を言うなら、良い策でも立てればよい」
「くっ…」
「ここは互い、詰まらぬ争いする間も無いぞ。そら…」
 汚泥じわじわ歩を進め、むわり黒き息を吐く。憑依せぬため動きはのろく、されどその毒実に猛。剣構える男の傍、少年顔色たちまち減じ、力無く膝を付く。
「昂!」
「へいき…まだ、だいじょうぶ」
 言葉に反し、その笑みあまりに弱く痛々しく。
(早急に手を打たねば、今度こそ命が…)
 ぎりり、歯噛みする。包囲の闇、いまいましく厚く、人身にては突破のしようも無く…
「畜生、先手必勝!」
 血気の若者逸る声、それが戦いの幕開けだった。

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(C)獅子牙龍児
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