八章 水霊 (4)


 怪物に囚われた少年の顔、遠目にもあまりに青い。如意の水珠も無しに水中に長くいただけに、今息をしているかすら怪しい。そうでなくとも人外の火蜥蜴の眼には瘴気じわじわと昂を蝕むが確と見てとれる。
 眼をまた転じると、メロウの女王いまだ驚愕衝撃覚めやらで、翡翠の眼見開いたまま。
「ぼけっとしてる場合じゃねえぜ!ともかく結界解け!」
「え…」
「結界だよ結界!」
「結界…」
 漸く夢から覚めたか表情が戻った。

 今の女王に戯れの様子は微塵も無い。ただうつむきじっと水面(みなも)見つめ続け、無言で思案の様見せる。
「いいえ、あれ程の亡者玉では生半の炎では倒せない…何せ無数の魔者の集合ですもの、部分部分を害しても露ほどにも気に留めぬ筈」
「じゃあ、どうしたらいいんだよ!」
「…或いは、昂様の御剣(みつるぎ)ならば…」
「馬鹿言ってんじゃねえよ!肝心の昂があのままじゃ…」
「待て。…お前はまず、昂を助けると言うのだな?」
 こくり、無言で頷く。年齢不詳の艶かしさは全く消失、そこにはただ真摯な瞳の、一族統べる長がいた…

 金剛が抱えた剣をじっと見る。意を決した様に、水辺へ近付く。
「おい旦那!まさか、昂の所まで届けようって言うのか!?」
「…それしかあるまい」
「馬鹿、旦那は誓約もまだだってのに、あんな所まで運べる訳がねえだろ?真っ先に溺れ死ぬぜ!」
「やってみなければ分からぬだろう!」
「オレなら…オレが運ぶ!」
「お前が!?それこそ全く無理無謀だ!」
「やってみなけりゃ分かんねえだろ!」
 やもり程の子蜥蜴が、勢い任せに王の剣に飛びついた…!

 カッ!!
 瞬時輝き剣より放たれ、一同思わず眼を閉じ…漸く恐る恐る開いた時…
「これは…」
 ラジャスの姿、一変。四肢逞しく体躯見事に優れ、さながら赤き獅子の様。きいきい喚く生意気の面影少しも無く、まさしく火蜥蜴、長クシャトリヤの威風である。
 一座の驚き推して量るべし。
「どうなってんだ…?」
 身体のあちこち、確かめるよう首頻りに回して見る様子、漸く呪縛も解けたか金剛静かに告げる。
「剣の力だろう…龍王の危機を察して、お前の身を再び成体へと変じたのだ」
「へ、何でもいいさ…この身体なら剣も充分運べるぜ!」
「でも、」
 翠の女王表情厳しく。
「サラマンドラの肌に水は毒…」
 火蜥蜴にとっての水は人間にとっての火も同じ、触れればたちまち皮膚ただれて痛む。
「なに、そのくらい平気の平佐!…昂はもっと痛い思い、我慢したんだからよ…」
 ほんのわずかの間の後に、勢い良く金剛に迫る。
「さ、剣よこせよ旦那!」
 偉丈夫わずかに逡巡し…火蜥蜴とはまた異なる胸中であった…ややって後、漸く差し出す。
「大事の任ゆえ、しくじるでないぞ」
 常とは異な顔、男の表情でラジャス剣を口で受け取った。

 …再び、閃光…

「これは…」
 火龍にも似た真紅の体躯の背中から、紅蓮の炎にも似た燃ゆる翼が瞬時に。
「ふぁんが、ふぁんがふぁふぁっふぁんふぁあ!?」
 息を飲む幻獣たるその姿と裏腹に、口の塞がったラジャス情けない叫びをを上げる。口に大剣ある身で首を巡らすのも一苦労だが、ようよう己の変化に合点し驚き叫ぶ。
「すげえ!!」
 ぽろり、イソップ寓話の犬の如く剣がこぼれ、一時和やかな笑いが場を包む。…もっとも、それも一瞬の事。
 突如眼を疑う水飛沫!
「なに!?」
 …無形の化け物、亡者玉の腕がぐわり大きく水面(みなも)砕き、無数の水の住民達が犠牲となる。腕が、いや身体が急激に積を増している。
「なんでいきなり…!」
「長姫様!あれを…」
「…昂様!!」
 翠の乙女の指差す先、囚われの昂、身をさらに怪異の奥深く沈ませて…さらに汚らわしき闇の触手がぬぷり皮膚を突き破り、少年の身を浸食す。その闇色の腕、奇妙に波打ち呼吸するが如し…
「何と言う…昂様のお命を吸い上げ、さらに力を得ようと言うのッ!」
 女王の柳眉、きりきり上がり顔も怒気にて全き白。細き指をば残らず折り、拳ぎりりと握り締める。
「畜生!」
 剣を前脚で抱え直し、新たにえた翼にて飛び上がりながらラジャスも叫ぶ。
「急げ!結界解きやがれ!」
 女王振り向きもせず。ただ、一時瞼を伏せ、瞬時翠の霊気たぎらせ優しの腕をすらり左右に払うと見え…
 ふわり…辺りを無数の虹色の泡が舞う。

 泡のふわふわ天に帰る様をば暫し惚けて見とれたラジャスだが、はたと気付くと湖の様相何やら異なり、メロウも魚も慌てふためいている。
「ま、まさかお前…!」
「ええ、結界全て解いたのよ」
 さらり。相も変わらず前方見据えてまま、感情の読めぬさらりとした声に火蜥蜴動揺。
「馬鹿野郎、誰がそこまで…」
「これ程の結界維持したままで戦えと言うの?」
 すうっと、女王の身体伸び上がり、そのまま水の飛沫を上げながら高く高く上空へ。
「この、わたくしに?」
 振り返った女王の、初めて水中より引き上げた半身は…醜き鰭持つ長き長き水蛇、それも方々で鱗剥がれ貝やら水草やらのこびりついた、酷く老いたる大蛇であった。如何にメロウの神通優れたると言えども寿命長しと言えども隠し切れぬその身の衰え…
 さればこそ、若き龍王の前にて一度たりとも水から上がる素振りを見せずに通したのだ。

「…本気で戦うと言うのか?」
 金剛にも既に腑に落ちている。見てくれは繕うとも老いの迫りに身も弱り、ここ暫くは湖の中より外に出られぬ程であったのだ。昂を待たせたのも勿体ぶっての事では無く…
「ええ、本気でいてよ」
「けどよ、お前のその身体…持たねえかも知れねえぜ!」
「煩い蜥蜴だこと、大切の御主人様と水の老婆の老い先どちらが大事?」
 嫌味な口調に覗く覚悟の程…
「亡者玉は無数の妖魔の集ったもの…けれど逆に好都合、散じてしまえばただの糸屑」
 さらにさらに蛇の身体を引き上げて。
「わたくしが締め上げばらばらにしてよ!お前は真直ぐ昂様を目指しなさい!」
「…おう!」
 亡者玉の腕、さらに太く…その暴れる様をかいくぐりながら二人の特攻が始まった。



「糞っ垂れ!」
 ただの汚れた糸玉の如き姿なれど、亡者玉も見かけ程の愚鈍さでは無い。眼も無しに近づくラジャスを的確に察知し、管状の腕から水をぴゅううと吹き付ける。闇の一族の常として、当然ながら毒含むが泥魔のディーマ程の強さは無く、また水の噴き出す威力も弱く急ぎ後方へと退避すれば事無きを得る。されどそもそも水気に弱い火蜥蜴の事、うかつに触れて無事で済む筈がなく、後一歩の所でなかなか昂に近づけぬ。
 メロウの戦況はまだしもと言う所、ぬるり滑る亡者玉の身体、己の身に生えたる尖った鰭をばここそこに突き立てて、ゆっくりじっくり身を巻付け、次第に巨体を締め上げて行く。しかし人外と言えども女人の悲しさ、まだまだ力が足らず、また暴れる亡者玉との格闘で、既に鰭の幾つかが無残にもがれ、蒼の体液その身を覆う。それでも、闇色の触手が全てメロウへと向けられ、火蜥蜴への攻撃がおざなりになっているのも確かである。
 だが…
「きゃああああ!!」
 絹裂く悲鳴、メロウが乙女の叫び声。川の水を凄まじく巻上げながら近づいて来るそれは…全身剛毛隙間無く生やした、まがまがしき巨大なる化け蜘蛛であった。

 恐ろしく長く太い脚が九本、頭上には三眼、それも奇妙につり上がりさらに額のものは縦に裂け…くわっと巨大な顎が真横に開く!
「なんてこと!…ああっ!」
 一族の窮地に気を取られて流石の女王も、ぶるり急に身体を大きくよじった亡者玉に水面強く叩き付けられ束縛も解かれる。
 が。妖蜘蛛の動きぴたり止まり…突如のけ反り奇妙な声上げ悶え苦しむ。何事と見やれば蜘蛛の脚一本、中程より見事に切られ毒々しい液をば垂らしている。
「金剛の旦那!」
 蜘蛛の血糊も生々しき、豪剣片手に偉丈夫独り仁王立ち。
「ここはわたしに任せろ!」
「金剛様、お一人では…」
「昂を…龍王を頼む!」
 男は振り向きもせで闇蜘蛛に独り、向かって行った。



 始めの一撃は不意を付けたものの、巨体ながら動き素早く、なかなか二の太刀入れられぬ。闇の装甲なかなか手強く、関節狙うより他は手が無い。ぎろりぎろりと忙しく動く三つの眼球、確実に金剛とらえ強力の脚にて踏み潰さんと襲い来る。避けられるも歴戦の偉丈夫ならでこそ、まず並の戦士ならば既に十程も死んでいる。背後狙えればと思いはするが、何分敵は川の中、対して人身のこちらの得意は陸(おか)の上、せいぜいが己を狙うその脚へ返り討ちを試みるが関の山。それすらいまだに果たせず…この蜘蛛、網張る種族で無き事のみがせめてもの幸い。
 金剛の孤軍奮闘に、剣持つラジャスも決意新たにす。
「くらえッ!」
 顎かっと開き、吹き付けるは地獄の猛火。生類焼ける不快の臭気辺りを覆うが相手は巨大で水の中、そうでなくとも昂を人質に取られた今はうかつな炎は控えねばならぬ…結局ラジャスの攻撃も、闇の毛玉の一部を焦がしたのみ。
「昂様ー!」
 別なる方角より、気合いの声。放たれたはきらめく槍…細く鋭い水柱、巨大な身体を丸く穿つ。水の刃は幾つも幾つも生まれ放たれ、暫し亡者玉の身体にぽかりと穴開くが。
 …もぞりもぞりと他の場所より毛の様な物広がり、たちまちにして穴消える。
 重ねて火炎浴びせても、結果は同じ。
「糞め!あのデカ物には弱点がねえのか!」
 さればこそ、メロウの女王も龍王の剣を口にしたのだ。今更ながら深く合点するが、せめて一時でも弱らせねば昂に近づく事すら出来ぬ。
「はあっ!」
 再びメロウの気合い、今度は太い太い水の柱が真下より化け毛玉を貫き通す。ぶわり、かなりな量の毛の様な物が宙を舞うが…
 すうと、吸い込まれるように散じた部位が本体に戻って行く。
「駄目かよ…!」
 何より悔しきは、あれ程の撃を食らってなお少しもたじろぐ様子の無い事。
(痛みも感じねえって訳かよ!)
 慎重に巨体の側を旋回すると、苦悶の表情浮かべわずかにもがく昂が見える。とにもかくにも命はあると知れるが…
「…畜生!」
 また、奇妙に容積増している。またしても昂の力を吸い上げているのだ。
 が…異変が生じたは湖ばかりではなかった。

「ぐあああッ!!」
「金剛様!?」
「旦那!」
 振り向けば高く宙舞う偉丈夫の姿と薙ぎ払われるまがまがしき蜘蛛の脚。恐らく敵の根幹を狙って高く飛んだ所を逆に狙われたのであろう。火蜥蜴もメロウも息飲む中、金剛何とか無事に着地した。だが、その表情恐ろしく険しい。
「?…」
 不思議に思い、今一度蜘蛛の姿をを見やったラジャスは戦慄す。
「脚が…また…生えてやがる!」
 金剛の渾身の一撃にてばさり切り落とした脚の一つ、その切り口よりめきめき肉盛り上がり装甲形成、みるみる内に元の脚と寸分違わぬ復活ぶり。…脚の多い種族と言うのは大概回復も早いものだが、これはあまりな事。
 ならば尚の事、亡者玉の始末を早めに付けねばならぬ。その事は、メロウの女王も気付いていた。一瞬、ためらう様に面を伏せ…
「くっ…!」
 眼吊り上げ腕激しく力み、翠の霊気の吹き上げも一際、凄まじい程の集中を経て。めりめりと奇妙の音立てて…その麗しい姿見る見る変じて行く。
「長姫様!駄目ですわ!」
「そんな…お命が…」
「元のお姿に戻れぬやも知れませんのに!」
 翠の乙女、次々悲鳴。さもありなん、透ける様な白い肌は次第に青鈍(あおにび)色の鱗に覆われさながら錆びた鎧帷子、真珠宝玉にて飾られた細き指ににょきり伸びたる鉤の爪、たおやかかにうねりし髪の流れさえ酷く跳ね飛び瀧壷の岩砕く飛沫の如く…いや、のみならず両の腕に顔に背中、毒魚思わす鰭びらり。美女ならでおぞましくも凄まじき水魔の様相現われたり。
(本性を現わしてまで…)
 女人(にょにん)の身でこの姿を人目に曝すは苦行であろう、かばかりか命存えるがため封ぜしその姿、うかつに現わせば寿命さえ縮める恐怖もあると言うのに…ラジャスはメロウの忠義疑いし己の浅慮を深く恥じるた。



 きえええええ…
 獣の咆哮。先刻までの優美な仕草からは思いも付かぬ、女王の雄叫び。鰭の刺、いよいよ鋭く突き出でて、髪の乱れも狂女の様、かっと見開く瞳はさながら蛇眼、くわと裂けた口には牙。猛々しき火気の主たるラジャスですら、覚えずぶるり震える気迫の権化。そのまま…全くの蛇の仕草、濡れ女の泳法にて素早く亡者の玉へと近付き、やっとばかりに抱え込む。それこそ手鞠作りの職人の、丸き芯に正しく手早く糸巻き付ける巧みさにて、瞬時に不吉の毛玉見事に包み、今度ばかりは少しも離さない。
 ぎり、ぎりり…慎重ながら確実に、包囲の縛は増して行く。何か、闇の集いが奇妙に歪み、何とか戒めをば逃れんと足掻く様子が見てとれるが、メロウの女王まさしく蛇の執念にて少しの緩みも見逃さぬ。むしろ自らの翠の霊気にて、肉体届かぬ場所にも圧を加えて闇を苛み…ついに、巨丸の表面数ヵ所にて破裂の兆し吹き上げ始める。
 ぷしゅ、ぷしゅう…火山の噴火、その端緒にも似て、むくりむくりとうず高く、隆起が起きてその尖端、ばらりくずれて亡者の毛筋を巻き散らす。盛大な毛煙上げてはらりはらりと湖へ落ちんとするをすかさずラジャス、猛火で以って瞬時に焼却。亡者玉も必死の素振りで欠けたるを補わんともがき暴れるが、メロウ元のメロウならず、欠けた部位にはすかさず己の身体食い来ませ、新たな再生防がんとす。

 奮起したるは女人のみならず。金剛の武人、火蜥蜴の炎にて鍛えに鍛えた得物するどく振り降ろす。一の太刀、二の太刀避けられるともたじろぐ事なく三の太刀、さらにさらに剣撃重ねて固き装甲もひび入り、重い一撃にて再び蜘蛛の脚折り取ったり。
 全く畜生の本能にて、痛みに戦忘れた愚かな蜘蛛、思わず脚振り乱し泣き喚く…
 と。瞬時、地上己の目の前に、別な脚の関節の、弱点無防備に曝されたをすかさず逃さず、これまた渾身の一振り。ぶちり不快の音立て再び折れたる蜘蛛の脚、どさり鈍き音立て地に落ちる。
 どっと流れるは不浄の体液。奇妙に黒く濁りし汁、人外の者に取っては命の水、いかな強靭の魔物とてもその血の多く失しては幾らも持たぬ。蜘蛛いよいよ焦り、何としても剣士倒さんとて…鬼の猛攻、金剛を襲う。

「旦那ーッ!」
「くっ…よそ見する暇なぞ無いぞ!昂の命の瀬戸際なのだ!」
「わ、判ってるさ!」
 そう、メロウの長が死力を尽くして得た勝機。これを逃せば後なぞ無い!
「糞ったれ…旦那もババアも死ぬなよ!!」
 剣抱えし前脚と、背に生ぜし炎の翼に力籠め。
 火気のラジャス…水の毒獣に渾身の飛翔!

「昂ーッ!!」

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(C)獅子牙龍児
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