知恵競べ
「…こちらの糸なら覚えがあります。月光の、それも特別の三日月からの光をそっと紡いだ物」
元々耳に心地の良い、通りの良い声の語る言葉の内容が、あまりに詩的であったから。一瞬この白い髪の魔術師の、気が幾らか触れたのかと思ってしまう…が。
驚いた事にあの老婆が、眼を大きく見開いていた。
「月光の糸なんて…本当に紡げるの?」
静かに、無言の肯い。
「夜を統べる女神の眷族、月夜の蜘蛛のルナラクネー…彼女に取っては造作も無く…」
「う…嘘じゃ嘘じゃ!ただのはったり思い付き!口から出任せ言うただけ!」
言葉に反し老婆には、先刻あった余裕がまるで無い。
「その技蜘蛛より借りて自在に扱う、魔力の糸をば如意にする…」
「ま、ま、ま…まさか…」
まるで糸も老婆も無き如く、黒衣の霊感すらすらと…
「そんな不可思議成せるのは…」
白い髪の魔術師の、水晶の如き二つの瞳、ぶるぶる震える老婆を見据える。
「魔法と狂気の司主(つかさぬし)、髪麗しき夜の女神…ディナ・ディアスの従者のみ!」
「ひい!」
老婆が堪らず挙げた悲鳴の叫び、岩壁の中で木霊を起こす…
「ま…ま…まぐれじゃ、まぐれに…相違無い…」
「まぐれではありません」
「い、いや、きっと!婆の真の名までは知るまいて」
「知っております…存じております」
「な…な…」
顔も引き吊り色も無く、瞬きも忘れた老婆の姿に。…魔術師、ふたたびため息を吐き…
「以前、聞いた事があります…」
(お師匠…)
「ゴブリンの地底の王国に、月神様を祭りし神殿そびゆると…」
(お師匠…お師匠…)
「山の富統べし姫君が、その社の主なりと…」
古詩口ずさむが如き語り口、そこでぴたりと一時止め。今度こそ老婆の両眼射抜くが如く。
だが…この期に及んでかの老婆、余程に魔術師を侮るのか…あるいは、尊き姫を傷つけた事への怒りからか。
裂けた口を喉まで見せて狂気の笑い。
「はは…はったり、はったり!なかなか見事の芝居ぞね!肝心の婆の名判らぬでいるものだから、無為の言葉をたらたらと…」
「無為ではございません」
「無為じゃ無為じゃて、虚ろじゃて!ならば焦らさず言うてみい、この婆の真の名前をば、はっきりしゃっきり唱えてみい!」
老婆の疣だらけの長い指、無言の魔術師はっしと指す!
「判りました。申し上げましょう…」
すっと白い瞼を閉じ…声を出さずに何かをつぶやく。
(祈ってる…)
知識神の敬虔な信者たるこの魔術師は、いつも祈りを静かに捧げる。それでもシドの心に不思議と不安は湧いて来ない。この魔術師が事を成すのに祈るのは、人事全てを尽くして後。そして。
シドの師匠が全力尽くし。それで成さぬ事は一度として無い…
「申し上げましょう、巫女殿よ。ゴブリン族の神殿で、その人ありと知られた…」
静かに…そして、きっと。老婆見据える。
「…『千の齢』のロウヒ殿!」
「うぎゃあああああああッ!!!」
魔女の悲鳴が早いか魔法の解けるのが早いか…硝子の砕ける様な音とともに、皆を縛る不思議の糸が千切れて霧散した…
「ひい…ひい…」
人間達が今度こそ動ける事を確かめつつ、ふと前方に眼をやれば…哀れ、腰を抜かした老婆独り、這い擦りながら逃げようとしている。
途端、シドの眉毛が跳ね上がった。
「てめェ!」
針の様に細くなった眼のままで、流れる動作で短剣取り出して、老婆の曲がった背中へ…
「止めなさい!」
慌てた師匠の腕に遮られた。
「何すんだよ、お師匠!」
「そうよ、あの魔女…貴方を殺そうとしたのよ!」
少女も怒りに頬紅潮させて、何時の間にやら剣を構えている。
「それに思い出したわ!一体全体どう言う訳だか、異端の輩がいて…遍照大君様の社も造らずに、ただ月神だけを崇める邪教がいるって!お前達ね!」
「剣をお納め下さい!月神様を奉じる事は何の罪も無い事です!」
「何の罪も無いですって!月神は神とは名ばかりの、本性はただの魔女だと言うじゃないの!その邪悪な力を、遍照大君様が御大力でやっとで抑えて下さっているよ!貴方だって知っているでしょう!」
…実際、アーシェラの言い分ももっともである。
かつて地上の覇権を巡っての、神々の争いが起きた時。その余波を受けて地上が傷つくの憂いたのが遍照大君だったと言う。無為な戦を治めるため、自ら渦中に身を投じて争いを煽る邪悪なドラゴン達を全て倒し…遂には地上に安寧をもたらした。それでも悪神どもは執念深く、隙あらばかつての栄華を取り戻さんと画策を謀る者すらいたために、殺すは無慈悲と言えようが野に放つは不穏であると皆眼に届く所へ置く事にしたと言う。…これが光明神を奉じる教団、神聖光芒教団の伝える神話である。
この『史実』が元となり、広大な神殿の敷地には六柱の暴れ神達の小さな社…六角の御堂が造られる。何分下級の神がため、その御利益は薄いが拝殿の寄進もわずかで済み、懐の寂しい平民達にはそれなりに人気がある。
が。六柱の神々を光明神より離して単独に祭る事は、暴れ神の邪悪な本性を呼び起こす許されざる禁忌とされている。
「野蛮なる六柱を祭るには、各々を束ねた上で遍照大君様の御神殿の傍に必ず置く事!それに背くなんて立派な罪よ!」
「…しかし、それを万人に強要するのは無体と言うものですよ」
「どうしてよ!」
少女の激高は止まらない。そのあまりの勢いに、同じく怒っていた筈の、シドでも少々引ける程…詰め寄られて弱り顔の魔術師を見て、まだら髪の戦士が頭を掻く。
「なあ嬢ちゃん…あんなでっかい神殿に、さらにきっちり六角堂まで造るなんて、並大抵の事じゃあ無いだろう?無茶言うなよ」
「無茶って何よ!真の信仰心があれば容易い事よ!」
「でも、建てるに当っちゃ先立つ物がどうしても要るだろう?」
「あ…」
途端、深窓の令嬢。勢いも殺がれる…
「その…姫様。実を言いやすと、俺達も月神様ならこっそり祭ってるんでして」
「え…ラグーもなの!?」
「その…あの光の神様は、俺達下々には御立派過ぎて眩しすぎて…その点、月神様なら俺達にも拝み易いってんで…」
「貴族の嬢ちゃんには知らないだろうが、辺境には結構独立の神殿があるのさ。全てを神々を祭るのは相当金もかかる…それにあんまり厳格過ぎる遍照大君よりも個性豊かな六柱サマの方が親しめるだろ?」
「そ、そんなものなの?」
「俺は結構あちこち回ったからな。東の方には戦神だけを祭る大きな神殿が、なかなか繁盛していたぜ」
いまだ世界を知らぬ貴族の娘は、ただ眼をぱちくりする他無い。
「そりゃ…俺だってゴブリンの婆さんの神官なんて初めてだけどな、元々妖精には一柱だけを拝む種族が多いって話さ」
「だけど…だけど選りにも選って月神よ!」
「へ?月神様って言や、恋神様…嬢ちゃんなんかにゃ馴染みが深いだろ?」
「恋神ですって!とんでも無い!いつも人に不実の恋を抱かせて、世の中をかき回して…それで笑っているような魔性じゃないの!」
…どうやら両親にまつわる悲しい恋の物語は、年若い少女によほど影を落としたと見える。
「それに…それに、あの魔女の正体は蛇体だって言うじゃないの!回りの眷族も皆蛇やら蜥蜴やら、とにかく醜い醜い汚らわしい長虫だって言うじゃないの!」
「お、おい嬢ちゃん…」
それは幾ら何でも言い過ぎだと。戦士は言おうとしたのだが。
「醜い…汚らわしい…」
震える嗄れた声がする。…あれ程腰を抜かしていた、老婆ロウヒが立ち上がって眼を血走らせている。
「おのれ…小娘!女神様、山姫様に何たる侮辱!」
くわっと大口裂け切れて、突如呪文を詠唱す!
「お、お師匠!あいつが…」
シドにも判らぬ不思議の言葉…焦って師匠の腕を振りほどこうとするのだが。
「だいじょうぶ、何も起きませんよ」
「なに暢気言ってんだよ!」
「そうよ!あいつは貴方の事も殺そうとしたのよ!」
たとえ少女と子どもとは言え、怒り狂った二人がかりでは細身の魔術師に荷が重い。
「仕方ありませんね…」
数語、言葉をつぶやくと…二人の身体が瞬時に崩れた。
「お、おいあんた!」
「嬢ちゃん!?」
「…ごく軽い、一時的な『麻痺』ですよ。暫くすれば治ります」
「暫くって…お師匠、何すんだよ!」
「そうよ…あいつの呪文止めなきゃ!」
余程元気が余っているのか、『麻痺』が効いても二人の口は休まない。そんな二人に苦笑しつつ…
「平気ですよ。それに…そろそろ終わるでしょう」
「え!?」
言語の羅列が本当に止まった。老婆の顔に、会心の笑み…
「それ、崩れよ岩ども!奴らを押潰せい!!」
…いっかな、何も起こらなかった…
「の、の、何故なのじゃあ…」
「貴方の魔法は封じましたから…貴方の真の名で以って」
「な…」
「人間風情が知る筈も無い…そう思っておいででしょうが、今でも真名の神秘を知る者がいるのです」
「真名?」
「貴方にもまだきちんとは教えていませんが…真名と氏素性が判るなら、魔法をかけるのに魔法言語の呪文など無用なのですよ」
「へえ…!」
今更ながら、この魔術師の知識技能に感心する。
そして。
「そんな…馬鹿な…」
ずるりずるり、老婆の身体地に崩れて行く。
皆がほっと、安堵の息をつく…その瞬間だった。
「…ならば、せめて!」
老婆が蜥蜴の如き素早さで、突如魔術師に向かって駆け出した。杖の切っ先を、確と心の臓に向けながら。丁度、シドの様子を確かめていた、魔術師が振り返った時にはもう数歩の距離…
「お師匠!」
「避けて!」
『麻痺』が解けてまだ間も無い、少女と子どもが魔術師の脇から飛び出した!
《ロウヒ、貴方の負けよ》
突然、何処からともなく鈴の音色が降って来た…
(C)獅子牙龍児