魔法の国


 不意に、翡翠のとぐろがずるりと緩む。人間なぞ軽く一口に飲みそな大きな大きな口の蛇頭の主、かすかな衣擦れ…いやさ『鱗擦れ』の音を立てながら、首をそろそろ真上に持ち上げて。長く長く尾の果て見えぬ、恐ろしくも妖しく艶かしき身体はそのまま置きつ…ただ首ばかりを。天突く御堂の尖塔さながらに、虚空に紅灯せし翡翠の灯台すっくと立つ。喉の鱗の銀色の、きらきら輝き格別に生えるも不可思議の眺め…
(あ…あ…)
 人より敏なる半妖精の眼力は、眩しさの過負荷に絶え切れず…恐慌を来している。嫌悪を感ずるべきか、あるいは素直に煌めきの下…屈するべきなのか。…虫のみならで蛇の類も死ぬ程苦手としているのに。
 逡巡の中。暫し危険を察する感覚全てが麻痺していた。
 だから…その麗しくも巨大なる大蛇の鎌首が、一同の先頭にすっくと立つ魔術師へと滑る様に近付いた事に…
 咄嗟に反応出来なかったのだ。

「…あ!」
 もう、翠の首はいつでも魔術師丸呑みできる至近の距離。恐怖を殺して走り出すも…紅玉の瞳にぎょろり睨まれて。蛙の様に動けない。
 それ以前に何よりも、シドのうかつな動き如何では。それこそ魔術師が蛇に食われてしまうやも知れないのだ。

 魔法、短剣…何も使っても大蛇を出し抜く事はまず不可能。頼みの綱の『風』の娘達もいない今…

(どうしたら…お師匠!)

 そんな弟子の苦渋を知ってか知らずか。
 麗しの大蛇が。不思議に笑んで見せた。



 紅の両眼はんなりと、それでいて隙無く魔術師を見つめる。
《貴方…怖がらないのね》
「はい」
 本当ににっこりと。シドが呆然とする程魔術師は動じない。
《でも、私もね…いつ、貴方を食べてしまうやも知れなくてよ?》
「また、お戯れを」
 白い髪の病み上がりの魔術師は。
 あの美しくも恐ろしい、巨大な口を前に…苦笑すら浮かべている。

「月神様は故無き殺生をお嫌いです。かの方を奉じる貴女様がその御心に反する筈が無いでしょう」
《ふふ…それはそうだけれど…》
 不意に。蛇の口が奇妙の笑みを形作る。
《私がね、ああ可哀想…と思い止まる相手はね》
 笑みが。今度は唐突に消える…

《精々が…そうねえ、『人間』止まりなの》
「…!」
 落ち着き払っていた魔術師が。わずかに顔をこわばらせた。


「あの…あの!この人は人間です!」
 白銀の鎧の少女が叫ぶ。
「わたし達を必死で助けてくれた…人間です!」
 理不尽な大蛇…鉱山の全てを支配する、山姫の理不尽な言葉に必死の抗議。彼女はとても純粋であったから…
 しかし。
「そ…そうだぞ!お師匠は、掛け値無しの人間だッ!」
 遅れて叫んだ小妖精、シドの言葉はあまりにも悲愴に聞こえた…

 あの、強大にして自在、夢幻の様な魔法の数々。
 まさか…と言う思いが不意に辺りを席巻する。

「や、山姫様…?」
「し、しかしですの、婆の見立てでは化けてはおらん様ですがの…」
 ゴブリン達にもいささかの動揺…

 かの人は。
 まるで被告席に立つ罪人の様に沈痛な面持ちでうつむいている。

《貴方…私は知っていてよ、その衣を彩る紋様の意味を》
「…御存じ、でしたか…」
 苦しい息を吐く様な魔術師の返答。

 紋様…?

 そう、確かにかの魔術師の黒の長衣の肩当てには。ぐるりぐるりと複雑に絡み合う渦の数々が地金を隙間無く覆っている。それはまるで空白を病的に恐れるパラノイアの如く…かの優しき白い髪の魔術師とは、あまりにかけ離れている。
 あの。不可思議の紋様の示す意味は…

 ダッ…!

 皆が紋様に気を取られていた中、たった一人が矢の様に駆けた。



「お師匠は…お師匠は人間だ!!」
「…シド!」
 山姫のほんのわずかの間隙を付いて。一途な弟子が魔術師を庇って立つ。…無論小柄過ぎる闇妖精の事、それは微笑ましい程滑稽な眺めではあったのだが。
 シドは真剣だった。

「お前…何言いがかり付けてやがる!」

「お、おい坊主…山姫様の御前だぞ!」
「そ、そうだ…幾ら山姫様が慈悲深いたってお前ェ…」
 慌てる周囲にも構わない。

「お師匠は人間だ!」
《あら…まあ》
 ふ…ふふ…軽やかな笑い声を立てて。蛇の山姫、今度はシドに首を近付けた。


「…う」
 虫の類、特に長虫は全く不得手と来ているシドの事。これは凄まじい恐怖と嫌悪の到来だった。全身に鳥肌が立つ。
《可愛らしいおチビさん、貴方、何も知らされていないのかしら?》
「…知ってる…全部知ってる!けど、お師匠はれっきとした人間だし…第一チビって言うなあ!」
《あらあらあら、おチビさんたら泣きそうね》
「ば…馬鹿にするなよ!!」
 実際。必死に胸を張って腕を一杯に広げて師匠を庇うシドだったが。全身の震えは隠し様も無い。普通の人間だってこんな大きな生き物を間近にしたら怖じけ付くのだ…無理も無い。

 そして。
 山姫の形相が一変した。

《ねえ、おチビさん…でもね、私にはこの人を殺したい理由があるの》
 笑いすらにじませながらもその声は余りにも冷たかった。何が何でも魔術師を護ろうとしていたシドでさえ…声を失う程。
「し…しかし山姫様!そりゃ幾ら何でも…」
 顔色を変えたスカルも慌てて取りなそうとするが。
《おだまり》
 ぴしゃり、女主人。
《お前達は気付かなかった様だけど…この『人間』には許されぬ魔力に『無限』の紋様…これは間違い無く》


《魔法王国マギスの…真魔人の証》

 軽やかな声の告げる厳かな言葉に。
 煌めく貴石の間に巌の沈黙落つ…



 魔法王国マギス。その名は身分の高低…いやさ種族すら超えて普く人口に膾炙していた。
 そこはお伽話の様な…と言うより悪夢の如き魔力溢るる奇怪の国である。

 大海を遥か東、幾海里も渡った場所に一つの異様なる島がある。人呼んで『幻獣島ゾディアック』、その名の通りに有象無象の怪物跋扈せし恐怖の土地と聞く。いやさ凄まじきは魑魅魍魎の害ばかりで無く、凶暴の主は獣の姿のものばかりでは無かったのだ。
 魔人族。
 …元は尋常なる『人間』、つまりは『ヒト』であった筈が禁断の儀式を重ねて己を人成らざる存在へと変えさしめ。神ならぬ身に余る程の無限の魔力もて島の全てを支配下に置き。傲慢なる栄華を極めたと言う…
 だが全ては風の前の塵に同じ。
 魔力に奢った一族の王国は眼を覆わんばかりの大災害に見舞われ脆くも瓦解、いやさ島の全土に渡って天変地異の嵐吹き荒れて。わずかに残った魔人族の生き残り、まさしくほうほうの体にて決死の脱出を計ったと言う。
 『光輝』の、と称されしここアグライア大陸に渡って後も。やはり凶獣跋扈の故郷恋しさ故にか、選りにも選って辺境の、奇怪な魔獣ばかりが我がもの顔にひしめきあう…禍々しき火山が麓に居を構え。
 その生き残りの築きたる、神秘と狂気の支配する…魔法王国マギス。

 始祖の禁断の秘術をいまだ受け継ぐ彼の国の都では、人を乗せた無人の輿が燕の様に空を飛び。給仕は全てゴーレムが成すと言う。そればかりか死人を蘇生し操る汚れた術すら公然と行うとか。いや、かばかりならで意に沿わぬ者全てを魔法生物の素材に成して奴隷にするとの風聞すら…


 その風説全て。一同の面前にたたずむ魔術師とは結び付かぬのだが。
 幼き頃より聞き知った、恐怖の物語の残渣は…容易には拭えない。
 行き詰まる沈黙の中…

「ひいいいいいいいいいッ!!」

 魂消る強烈の悲鳴真っ先に上げたは。
 …あの奇怪なる面相のゴブリン老婆、魔女ロウヒであった。



「ヒィッ!くわばらくわばら…た、助けてくれえ〜!!」
 腰が抜けたか這いずり這いずり、千の齢の化け物が必死の体で逃げんとす。
《ほらご覧なさい、ロウヒもあんなに怯えて…化け物、ですものねえ》
 美しい大蛇がいっそ残忍に微笑みかけた…が。
「うるせぇよッ!!お師匠は世界で一番優しいし、すげえ真っ当な堅気の人間だ!!」
 逆に師匠思いの弟子のシド、堪忍袋の尾が切れた。
「てめぇ…絶対許さねえ!!」
 両眼きっ…と新月の細さ。その利き手に白刃の煌めきが…
「駄目です!」
 さっと白い手が。子どもを咄嗟に抱え込んだ。

「がー!!お師匠っ、何で止めるんだよ!」
「貴方こそ何を考えているのです!山の姫君に対して…」
「姫じゃねえよこんなの!ただのでっかい糞っ垂れの蛇だぜ!!」
「シド!」
 後ろから抱え込まれて持ち上げられて。小さな闇妖精は手足を盛んにばたつかせている。それでいて、手中の刃で間違っても魔術師を害さぬ様にとの無意識の細心窺われて…
 いっそ道化じみたロウヒの過剰の怖がりも相俟って。一同の緊迫も薄らいで行く…

「あの…山姫様」
 勇を振るって…声を何とか絞り出したのは。
 シドと変わらぬ程長虫を不得手とする、赤毛のアーシェラであった。


「お、お嬢様!お止め下され!」
「そ、そうです姫様…」
 慌てふためく外野陣に山姫にっこりうち笑んで。無言の圧で黙らせた上…必死で一歩踏み出した、少女に向かって。
 …しゅるり…
「きゃあ!」
 二つに裂けた舌を顔の前まで伸ばされては折角の気力も萎えると言うもの…
 それでも深窓ながらに気高い少女、さらに一歩踏み出し言葉を手繰る。
「その人は化け物ではありません…わたしは知っています!」
《まあ…おかしな事》
 ふふ…大蛇は妖艶に笑む。

《だって、可愛らしいお嬢さん。貴女だって聞いた事があるでしょう?マギスの魔法貴族と来たら、百年も二百年も平気で生きる連中ばかり…貴女達と同じと言えて?》
「そ…それは…」
 皆が一斉にいまだ逃亡の途上の老婆を見る。あの、『千の齢』とまで称される老婆も逃げ出すのだ…白い魔術師だって、二十を幾らか過ぎた程にしか見えぬのだが、一体本当の歳は幾つやら。
「でも!でも、その人はわたしと同じ人間です!わたし、見ましたから!その人の傷から真っ赤な…わたしと同じ血が流れる所を!」
《あら…優しいこと。可愛らしい理屈ね》
「からかわないで下さい!」
《だって、ねえ?貴女も耳にしたでしょう…マギスの魔術師はね、死者を歩かせ邪神を祭り…》
「そんなの全部嘘です!」
 感情の高ぶりのあまり裏返った声で少女が叫ぶ。

「わたしはその人を知っています、その人の行いを…この眼で見ました!」
(あいつ…)
 シドですら、暴れるのを止めて少女を見る。
「だから…そんな不確かな噂より、わたしはわたしの眼を信じます!」

「その人は立派な人間です!」

「山姫様、幾ら貴女でも…その人を故なく害するなんてわたしが許せない!」
 言うなりアーシェラ、ひらり抜くは白銀の、腰に佩きたる輝く剣!
「なっ…!」
「ひ…姫様ァ!」
 息を飲むゴブリンと真っ青になった坑夫にほんの少し笑いかけ。ふたたびきりりと向き直る。
「わたしも早まった事は嫌い…でも、貴女があくまでその人を事の元凶と狙うなら、わたしだって容赦はしない!」
《ふふ…ほほ…》
 翠の首を傾けて。麗々しき大蛇に謎めいた笑み。

《随分と勘違いがおありね、可愛らしいお嬢さん》
「え…?」

《まず、マギスは本当に噂通りの国なの。…ねえ?》
 いっそ秋波の様な目つきで。白い魔術師をちらり見る。
 わずかな間の後…
「はい…その通りですよ」
 沈痛の肯定。

「そ…そんな…!」
《奇麗な顔をして。命無きものに偽りの魂を与える…貴方、そんな技にも通じていて…ねえ?》
「ええ…」
「そんな!嘘でしょ!?」
 気が強くとも根は純真な、少女の顔が真っ青になる。それでも魔術師は…アーシェラに黙って首を振る。
「う…そ…」
《判ったでしょう?貴女の可愛らしい眼ではね、見通せぬ闇がこの世にはあるのよ…ふふふ…》
 純金造りの鈴にも似た、軽やかな声で…哄笑。
 少女は耐え切れずうなだれる…
 しかし。
「それが…何だって言うんだ!」
 幼くも鋭い声がしじま引き裂く。

《まあ、おチビさんたら…私の話、聞こえなかったの?》
「聞こえたたさ…そんなでかい口で喚かれたんだからな!」
「シド!」
《なのに、まあまだ化け物の肩を持つつもり?》
「違うって言ってんだろ!そっちこそ化け物の癖に!」
《ふふ…勇ましいこと。でも貴方、知っていて?そのマギス者の本当の歳を…》
「知ってる!それがどうしたってんだ!」
《だって…》
 翡翠輝くこうべの内の、紅玉の瞳…不思議に光る。

《この顔で、四十路なんて、ねえ…》
「悪いかよ!」
 激高のシドは何も気付かず…無意識に肯定の言葉を叫んだが。
 …衝撃、広間くまなく広がって行く…


「って事は…お、俺と同じ位…」
 自分で言いながらラグーが眼を剥いて。
「さ、詐欺よ!」
 …さらに勇敢な少女が。へなへなとその場に座り込む…
「百や二百なら諦めも付くけど…そんなのって酷過ぎる!」

 むしろ大蛇は。
 そんな一同を…楽しそうに見渡していた。

《ほら、若作りの魔術師さん》
「は、はい?」
 先刻までの苦渋の面持ち一変、すっかり戸惑った様子のマギスびと…白い髪の魔術師に。
《ご覧なさい、誰も貴方を怖い…なんて言っていないでしょう?》
 ふふ…今度の笑みは優しくて。
 そしてとても悪戯っぽいものだった。

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(C)獅子牙龍児
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