傾城傾国 (3)
もう二時(ふたとき)も舞っただろうか、もはや何差しかも分からぬ。小さな身体にはいささか無理というものだが、恍惚は華蘭を離さぬ。既にして賞賛の声に報奨の綾、身に余るほどだが華を求める雛の想は尽きぬ。
ほんの一時休みを取りて、甘き果実の杯を受けたとき、耳に聞こえた騒ぎ声。眉根を寄せて首傾げると、何やら女官、
「ああ、突然のお越しゆえ!すぐにでも支度いたしますので……様!」
慌てふためく。どうやら宴に新たな客人が加わるようだ。しかも、女官の様子に察するに、かなりの貴人か。
扉が開く。華蘭もいささか緊張の面持ちで見守る。
「いよう、主よ。久しいな。」
身の丈天を貫く美丈夫。華蘭は一礼を拝して後、主を見やる。と。
先までは真綿の座所に深々と沈んでいた主が、はじかれた如く立ち上がり、不動の姿勢で声も出ず、ただただ震え色も無い。いや、主のみならず、この場の者ども全てが同様。
―よほどに偉い方なんだ。
主ほどでなくとも身を堅くする。
「おう、そこな雛よ。…名はなんと申す。」
「華蘭…華蘭にございます。」
―震えていなければいいけど。
頭を垂れつつ答える。
「そうか、華の蘭か。いや成程。」
いささか無粋に雛鳥を見やる。
「華よ。一つ、頼むとするか。いや、」
顔面蒼白のままぎこちなく用意する楽人を制し。
「そなたの歌いも所望する。どうだ、聞かせてくれるか。」
「はい、仰せのままに。」
眼を閉じ、深呼吸を一つ。心の臓の音を数える。ひとつ、ふたつ、みっつ…
実の所、吉祥鳥以外に声を聞かせたことはない。吉祥苑を訪れる貴人を時折舞いでもてなすことはあっても音曲は迦陵頻伽にまかせ、自らは舞い踊るのみが常であった。歌はルキに厳しく禁じられ、鳳凰の里でしか許されなかった。華蘭としてもルキを慕い従う気持ちは人一倍なれど、こればかりは理不尽な決め事と感じていたのである。己の歌は舞いと同じく―あるいはそれ以上―優るるもの。機あらば広くこの歌伝えたし…まだ幼い雛の、正直な心地であった。
森閑の間しばし。
思い切りて翼をはばたかせ、虚空にて腕を合わせ。
細き喉、震わさん。
―鳴呼―
そは天上の音色。
こおろこおろ、銀河の調べ。
宝玉の戯れ、錦糸の震え。
琴の弦、恥じて切れり、琵琶の胴、畏まりて縮まれり。
象牙の笛は驚きに尖り、名人の簫は竹林に戻れり。
楽人、歌姫、石と化し、場に興を添えせし像の一となりぬ。
なんと、悦に極み無く、楽に限り無し。
先の舞いすら霞と消え。
蜜の甘きに香の芳し。
もはや才でも無くば能でも無し。
かほどに澄みしこの泉、いかな露を集めしものかや…
ふさり…
領布(ひれ)落つる。瑞雲掴み天を駆け、春雨(しゅんう)と戯れし龍の如く、音に戯れし桜色、命失いて地に垂れり。
百の灯火(とうか)千の灯火(とうか)、素知らぬ風を装いて、元の如く燃え揺れり。
―かの不思議は幻か―
否、下(しも)の国にも名高き鳳凰の、未だ幼きその初子(ういご)、先の不思議を見せしもの、畏まりて控えつつも誇らし気の笑み浮かべて場に立てり。
雀の噂、舌足らずなり。
幸いなるかな、刀利天が主。天が至宝は汝が地に存れり…
ばしり!
森閑音に裂けり。見れば先の美丈夫、満面の喜色湛えて席立ち御手を叩けり。
「見事!西方が浄土にてもかほどの芸は望めん。そなたの精進、しかと受け取ったぞ!」
華蘭、深々と拝礼。
「まこと、勿体なきお言葉。この華蘭、生涯の喜びとする所存にございます。」
華の笑み、さらに。…眩しさいや増す。
「いやそなたの歌舞の前には我が宮の雅人どもなぞ野虱同然。今宵はまこと佳き日、余は果報者じゃ!。さてどうした、そなたの瑞は。遠慮なぞ無用、心の限りに舞い尽くしてみよ!。いや全く果報果報!」
貴人の哄笑、長く辺りに響けり。
「のう、華蘭とやら、もそっと参らぬか。」
「はい…」
さらに幾差しも舞い踊り、さすがに息も絶え絶えに、一時座して控える華蘭、例の客人の招きに静々進む。
玻璃の杯傾けし男、雛の歩みに併せ揺れはためく裳裾に領布、見え隠れし玉の肌、そっと見やりて目を細めぬ。
脇の美姫。震えるその手からずっとばかり酒瓶(しゅびん)を奪う。
あっと驚く娘を構いもせず、同じく見当付かず眼開くままの雛鳥に、かの細口を授ける。また合点が行かず、瓶を抱え当惑の華蘭に、笑む。
「何、喉が乾いたので、な。それ、」
差し出された杯に、ようやく判じてそっと注ぐ。すうっと…音もなく落つる琥珀の滝。透き通れる杯を染めつつ、小池積を増し。静かに波紋揺れ。頃合にて瓶を戻す。
深酒の席にはべるのは初めてである。もっとも、養い親のルキが大層な酒豪で有ったから、注ぎ方など並の女官よりよほど心得ていた。
「ほう、これは…いや成程、合点。」
何が合点か分からぬが、大丈夫は雛の意外の作法に満足の頷き。玻璃に口付け、一息に飲み干し、息を吐く。
「うむ、実に美味。佳き酒肴に美酒もいや増すというもの。」
まこと御満悦の様子。
―ああ、良かった。こんな事、初めてだもの。
ほっと息つき、覚えず肩を撫で下ろすを虎視が逃さず見つめていた。
「のう、そなた。」
「は…はいっ、何でございましょう?」
いきなり問われて居ずまい正す。
「まことに佳き趣向であった。礼を申すぞ。」
「これは…有難きお言葉。」
「褒美を遣わそう。それ、」
いきなり華蘭の酒瓶(しゅびん)を奪うと、代わりに杯を手渡す。驚き、顔を挙げる華蘭。
「一献参れ。」
「え…?」
「ほう、余の手づからの酌は不足か?」
「いえっ、決してそのような。」
驚き慌てながらも杯を差し出す。
ちり…
瓶に触れられ杯が鳴り。…かすかな飛沫を挙げつつ、窪みにたまる、酔いの池。またたく間に波広がり、丈夫の手も離れて行く。
―火酒。
きつく薫る香。手の中の飴色を見つめる。
幼い華蘭は、未だ果実の酒の初なものしか試したことがない。この琥珀は人が時折口にするを見たのみ。一体どんなものか。
思い切り。ままよとばかり口付ける。
一口。かすかに舌が焼け。驚きに離れると、かの客と眼が合う。
「はは、まだ、子供と見える。」
子供!悔しさが身を突く。深く息吐き、再度。
二口。先ほどよりよほど柔らかな心地。わずかに喉を刺すが、ほんの一時のこと。ふわり、じわりと熱広がる。
―なんだろう…
未知の感。快とも不快ともつかず、眼を閉じ、身の内の嵐をやり過ごす。
「いささかきついと見える…薬味をとらそう、そら。」
丈夫が手に何やら紅きもの、ついと摘んで杯へ。
とぷん…
果実の一と見えしが、すうっと溶けて甘く薫る。紅が琥珀を駆逐しやり、玻璃の杯、奇妙に濁れり。されど心引く不思議の香。
三口。ああ…。舌を包み込む、密より甘き妙なる露。喉をそっと撫ぜられたよな心地、桜色の絹の産着で包まれたよな安らぎ…
憑かれたように、残りを一息に干す。…杯の其処には溶け残りの紅、どろりと在るが奇妙に歪む。
「どうだ、気に入ったか。」
―貴人の声も遠く―
「は…い…」
一言、答えるがやっと。
「それは何より。さて、もう一献。」
返す間もなく、注がれる。
「褒美と申したであろう。…そなたの望むまま、存分に参れ。」
―ああ、甘い香―
ついと持ち、こくり。
再びその喉の細きを、怪しき紅が駆け行く、夜更け…
(C)獅子牙龍児