兆候  (2)


「あれ…兄様…?」
「ああ、華蘭。」
 ひなげしもようよう眼を覚ました。看病の甲斐あってか、心無し顔色も良く見える。
「何か、欲しい物はあるかい?例えば飲み物とか…」
「飲み物…うん、水、水!…喉、なんだかひりひりするの…」
 その言葉通り、雛の囀り常に無い程にしゃがれている。それでも幾分口数増えて、水の器を待てず思わずその手を差し出す様に良元の頬も幾らか緩む。
「ほら…喉を痛めるから、ゆっくり飲んだ方がいい。」
「うん…」
 雛は素直に少しずつ、こくりこくりと干して行く。すっかり終えてため息一つ…そして暫しの沈黙部屋に落つ。
「華蘭。」
「な、何?兄様…?」
 何処か覚悟を決めたよな、良元の呼びかけに小さな身体は身構えた。

「好きな人が、いるんだろう?」
「…!」
 つぶらな瞳、さらに丸く。
 …そう、良元には判っていたのだ。幼き雛の変化の早まりの、他な訳。
 想い人。切なき想いは胸を焦がし。小さき身体を別なる世界へと運びやる…

「言わなくてもいいよ。」
「…兄様にはお見通しなんだ…」
「まあ、な。」
 叶わぬ想いならば誰よりも承知している。何せ、一度たりとも情人と呼べる者を持った事が無いのだ。
 良元には、子を成す能が皆無。…理不尽なれど、凰の娘の誰一人、彼を男(おのこ)として見る者、唯の一羽も無し、他の鳥然り。
 そして。想いの果ては今も昔も唯一人。
 …成る程磊落の武人の揶揄通り、華の雛を憎からず想う心地も無しとは言えず、雛の想いの己に向かぬを寂しく思うも真実である。しかれども、幼き心に芽生えたる、純なる真摯を潰す気は一毫も生ぜず…却って心を悩ませる。
 雛が、そっと眉根を寄せる。儚げに麗しき風情、とは言え華の想いの難儀なるは相違無く。気休めに戯れを言うも却って酷である。
 良元もまた、嘆息…
 が。
 時ならぬ悲鳴…!


「いやあああああああッ!」
 絹裂く叫びは里娘の。なよやかで聞こえた鳳凰が女性(にょしょう)、所もわきまえず金切りするはさもありなん…
 常勝の将たるルキが長、今まさに怪異に包まれたり。

 火焔のよにたなびくは奇妙の流れ、血のどす黒いにも似て不吉の光、竜巻さながらの勢いにてごごう、ごごうと武人の五体を戒めたり。ルキが大将も常ならぬ、眼はかっと開き切り、血筋も走るが痛々しく、無双の大力何処(いずこ)にか、手足金縛り如何ともし難く、声も出ず。金色のお髪(ぐし)もあな哀れ、乱れ乱れて逆巻きの、かがり火が烈火の如く。いやさ、それで済むならまだしもなれど…
 雷光。それも紫電の怪しきなるが、蛇の如くのたくって、長の身さらに縛り上げ。見れば、ルキの足元その床に、不可思議の虚空ぱかり開き、奇怪のくちなわ生えいたり。
 そして。
 ずずんずずずんと地へと引き摺り込まんとする!
「ルキ様!!」
 咄嗟に動いたは良元であった。

 がしり、やや背丈並に劣るを精一杯、五体隅々力込めて、今まさに地中へと消えんとするルキが大将にしがみつく。
「皆!誰でも良い!ルキ様を何としても護り切れ!」
 同じ電撃に苦悶しつつも声張り上げ。凍ったように呆然のままであった娘も華の雛も良元が叱咤にはっとなり、こちらも遮二無二しがみつく。…声聞きつけ何事かと駆けつけた幾人かも。
 そは永劫かと思える程の責め苦であったが、各々手が千切れるかと覚悟を決めた頃、ようよう怪異は治まった。始まりよりもさらに唐突に、あの不浄の輝きふっと消え、全ての戒めすっと解け。
 …鳳凰が身体がくりと崩れ落つ。


 一つの屋に一族皆々集まれり。その前には昏々と眠る長の姿。命には格別の事も無けれど、乱れた髪に焦燥の極みにある面がお労しい。
「良元殿、これは一体…」
 不安げに、一羽の鳳。日常にては雌雄の別無く良元を軽んじる鳥達だが、大事であればやはり別。彼以上に知恵優れ、正しき断をば下せる者など皆無。今の今も、彼の人の咄嗟の働き無くば一族の長、全く失われたやも知れぬ。
 そして。良元は普段の扱われはまた別、重き事の前には小事など捨て置く質。一族の漠たる不安一手に背負い、眉を寄せて熟考す。
「…おそらく、あれは召喚光だ。」
「な…!」
「ル、ルキ様を!?」
「一体…誰が…」
「あの力…遥か下方よりルキ様を引き寄せんとしていた。」
「下方ですと!?」
「下界の者などにその様な力、あろう筈が…」
「あるのだ。」
 きぱり短く。
「ルキ様の御出身は、何処だ?」
「あ…」
 一同、顔を見合わせ…

 界の境を越えたとて、やはり恋しい故郷の水。遥か異界に在っても何かの拍子に元いた界と通じれば、あたかも水の下へと流るるが如くにして人なり物なり皆、己が生まれた土地へと戻らんとする。そう、ルキに勝る程の力持たずとも、ルキの生まれた界の者達は、かつてのルキと種属を同じゅうする者ども、かの強大のおおとり大将を引き寄せる術をば心得たり。

「しかし…何故人界の者風情が、ルキ様の御事を…」
「それは分からぬ。だが、ルキ様御昇天の折り、その一部始終をルキ様自ら語って聞かせた者がいると聞く。」
「それでも疾うに死んだ筈では…」
「死んだ後にも言葉は残る。そうで無くとも例の者、語り部を生業としていたとの話だ、広く伝えたに相違ない。」
「ですが…よしんばルキ様の事を人界の奴ばらが知ったにせよ、あそこまで確と御体を捕える事は無理なのでは?」
「それは俺も考えたが…」
 何故か言葉を濁らせる。暫し沈思した後…
「…或いは人界の企み、既に幾星霜も以前より試みられたやも知れぬからな、限りある人の身であっても子に伝え孫に伝えて行なうとあればたまさかとは言え当らぬとも言い切れぬだろう。」
 ざっと一座を見渡し。まだいささか物言いたげな様子の者少なからぬを見て言を継ぐ。
「何より、ルキ様とて人界に御生まれなのだ。人間風情と軽く見るは早計だ。」
 それで漸く何とか腑に落ちたか、ぱらりぱらりと鳳凰達も散じて行った。


 静かなる室。良元は変わらず主の傍に侍っている。ルキは未だに眼も開けず、額には玉の汗浮かび…華蘭のために用意した布にてひたすら拭い、ひたすら冷やす。呼吸も荒さが消えず、譫言を言う様に口が微かに動いている。…無論、既に良元の手は感覚鈍る程に冷えているが構ってなぞいられない。あの召喚の光は確実にルキの力を削っていた。下つ国を荒す魔獣は粗方狩り倒したため、暫くは出兵も無かろうが、この様に尋常ならざる困憊の事、易々と恢復するとも思えず…必死で手を動かしていた。
 が。ふと背後に気配を感じた。
 と言っても不快では無く。それがために余計に奇妙に思ったが、暫し首を傾げてからはたと合点が入った。慌てて扉を開いて見れば。
「華蘭…」
 雛がびくりと肩を震わせた。

「お前もまだまだ弱っているんだ、寝ていないと…」
「兄様!」
 遮るはいっそ泣き出しそうな悲愴の声。
「やっぱり…やっぱり、私のせいなの?」
「…!」
 黒曜石から滴が溢れた。

「私のせいで…姉様、人間の召喚なんかにかかってしまったの?」
「…人間人間と馬鹿にするものじゃないよ、大体…」
「ねえ!そうなの!?」
 …この瞳には、嘘も誤魔化しも出来ず。
「あんな戦いばかりで、姉様傷だらけで、それで…なの?」
「…そう、かも知れない…」
 ややあって。雛は床にくずおれた。

「泣くな、華蘭。」
「だって…だって…」
 兄と頼む良元の衣にすがり、嗚咽する所頻り。
「姉様は…姉様は私を護ってくれるのに…私は…」
 聞く方の胸もぐっと詰まる。雛の想いを知る良元には、その苦しみが痛い程判る。
「確かに、出兵が重なって弱ったために遥か人界から捕えられてしまった…そう言う事はあるだろう。だけどな、それだけでは無いんだ。」
「え…?」
「多分…多分な、ルキ様にも故郷を懐かしむ心は幾分残っているんだ。」
「え!」
「だってそうだろう、仮にも生まれた場所だからな。そして、無意識に人界に心を飛ばし…それが不幸にも召喚の才と野心ある人間に悟られてしまった…俺はそう、考えている。」
「本当に…?」
「ああ、本当だ。」
 まだまだ不安げな幼子の頭を撫でながら。…複雑な心中であった。
 本当の所、今述べた理由は雛を宥めるためにこしらえたものだが。言葉にして見ると奇妙に本当らしく聞こえて来る。もし、ルキを連れ去る不吉の影が、真実ルキの心の中にこそ在ったなら…?

 ―ありえない、ありえない。あれ程の責め苦を受けた場所に、帰りたいなど…

 己の不安を無理に潰す様に、華蘭を抱き締める腕に力を込めた。

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(C)獅子牙龍児
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