緊那羅  (3)


 時は過ぎ行く。
 はや半時ばかり、既に演目終わりに近く、雛の鼓動も速くなる。
「華蘭…」
「え?」
 不意に呼ばれて振り返る、その頭上にかの人の手。
「華蘭の髪は柔らかいな…」
 激励するでなく。ただ、優しく慈しむ。良元がいつぞや評した通り、言葉はいささか足りぬルキ。それでも髪を通じて流れ込む、暖かな瑞気に身の内まで、緩やかに満たされて行く…
 だが。心の底の奥深く、酷く荒涼たる寒さを感じているのも事実であった。
 果たして。未だ幼い雛の身で、先祖代々神前の楽を奏じて来たあの緊那羅達に勝てるだろうか…
 ―子どもであるのに、『傾城』と呼ばれるこの私に…
 頼もしく優しい那羅王と、那利夫人の淑やかな姿が小さな心に鋭く迫る。誰にも気付かれぬよう、密かに辛いため息を吐いた。

「さてさて宴もたけなわじゃ、酔いもぐるりと回れども、まだ眠る時分には尚早ぞ!次なる楽人は…」
 賑々しい、道化の口上。…雛の心もはっとする。
「…下の国まで名の響く、緊那羅が一族!」
 ―!
「いや待て、唯の芸にはあらぬんぞ!聞いて驚けかの那羅王、一族千人引き連れ参られた!」
 どよめき、割れるが如く…地鳴りさながらの音津波。沸き立つ音声の中、華蘭は打ちのめされ。救いを求めて傍の長にすがろうとした…が。
 ―姉様!
 ルキの顔が初めて見る程蒼白。眉も引き吊り、拳さえも…わなわなと。
 ―いけない!
 同郷同族である筈の鳳凰ですら、皆華蘭を忌み嫌い、さも無くばぎらりぎとぎと不躾に、異様な執着で見つめて来た。鳥族もまた…他所の奢り高ぶる貴人ばらならさらなり。雛を華蘭として遇するはルキに良元に瑠達…ほんの一握り。
 自分を一度たりとも傾城とは見なさなかった、あの夫婦。優しき一族に大切の人の怒気向けられるはあまりに辛い。
「姉様!」
 驚き振り向くもののふに、そっと左の腕示す。…麗しい、布。夫人の心尽し。
「私は、私の力で望みを掴むから…だから、姉様!」
「しかし…華蘭…」
 当の雛に言われては。だが武人と言えど心の闇、千々に乱れ。
「ルキ様、華蘭を信じて、堪えて下さい。」
「良元、だが、」
「ルキ様も判っておいででしょう。大事の雛を持つのは、我らだけでは無いのです…」
 そう言う良元の顔こそ、苦しげであった。

 ほどなくして、緊那羅の娘が一人だけ、広間にそそと現われた。
 ―…?
 千人いると言うのに唯一人、それだけでも奇妙だが、如何なる訳かその娘、全身を粗末な大布で覆っている。
「緊那羅女、こりゃ一体どんな御趣向で?」
 皆の抱いたその疑問、道化がずけずけ問えばその娘、怖じけもせずにはきはきと。
「はばかりながら、皆様の御心焦らしております。」
「…焦らす、とな?」
 突如鋭き不隠の声、帝釈天。だが娘はそれでもにっこり笑う。
「はい。本日は大変に楽しき珍しき趣向をば御用意致しました。きっと、皆様焦らされし甲斐あり…そう御満足されるかと、我ら一同自惚れております。」
「ほう?これは面白い、して如何様な?」
「芝居仕立ての歌舞でございます。」
 それだけで、辺り一面驚きのほうおおおのため息嵐。緊那羅が歌芝居とは珍しい…とは言え、天下の帝釈、それしきでは驚かぬ。
「芝居如きここな道化にも出来る技。どれ程の題目か、確と述べよ。」
「はい、富楼羅婆王と天女烏廬婆、かの名高き恋物語。」
「ほほう、なかなかどうして考えたものだ!」
 武勇高き…下界に属するが故に天女とは釣り合わぬ王。恋しい恋しいと願いながらも二人の行く道前途多難、そして終わりは大団円。嫌う者のいる筈も無い筋書もさりながら、話の随所に帝釈天が城の楽人顔を出す。並の役者にはちと荷が勝ち過ぎて、高名ながらなかなか芝居に成す者少ないのだ。
「…では、これ以上お待たせするのもあんまりですから。」
 すっと、一段下がり柱の影。そこへ娘が幾人か、同じく野暮な布巻いて、きちっと集まり場に座る。
 いぶかる聴衆少しも留めず、娘ら衣を一気にはらり。
 …ぱらん、ぽろん、ぱらぽろん…
 布の下より現われ出でたる、見事なる楽の器の種々数多。何と、何れも麗しき娘達、躍り手ならで弾き手であったのだ。どやどやどやや、皆々騒ぐも無理も無く。だが、これはまだまだ序の口…

 遅れて広間に現われた一段に、一同残らず眼を剥いた。


 じゃん、じゃん、しゃらん。
 ひろひろりいりい、りいりろり。
 …見事な音曲の中優雅に舞い躍る天女の姿、しかし一座の者ども驚き呆れ…然る後に笑い狂う事はなはだし。それも無理からぬ事、何と天女に扮するは皆、男の緊那羅であったのである。
 流石は代々続いた楽人、普段は撥を握るその腕を、右に左になめらかに、動きに少しの狂いも無い。たおやかな手運び、艶かしき腰のよじり…真の天女と見まがう程であるが如何せん、『馬頭』であっては…。衣装まできっちり天女を写してあるのが却って笑いの種になる。ふわりふわり、背の羽広げて宙高く、本職の天女さながら舞っても見せるが、振り見事に揃う壮観が、却って衆生残らず笑い死に追い込む。
 と、そこで『舞い手』の隊列変わる。輪の外側の緊那羅が、すっと道を開け…中から一等立派な馬頭の主、恐ろしき名手である。その愉快極まる姿を暫し皆々忘れ去る程…それもその筈、その名も高き緊那王である。
 だが、何か一点腑に落ちぬ。馬の顔とは言えこれ程見事な舞いであるのに、装束の隅々まできらびやかであるのに…何か、凄まじく痒いにも関わらず、掻くべき場所の判じがつかぬ、そんな心地。
「…あれ、あの布、下履きでは無いか?」
 何処よりか頓狂な声。一同えっと眼を見開き、しげしげと眺めて見れば、いや真、何と舞う度ひらひらたなびく細い切れ、紛う事無き男の褌。
 どどっと。宮の天井笑いに割れた。

 本当ならここらで邪魔な羅刹ども、戯れる天女が群れに襲いかかるのだが…そら!
 じゃんじゃんじゃじゃんじゃん!音曲一変、不吉に速い節回し。そして…
 ―おお?
 ―これは何と!?
 どやどや足音も荒々しく、舞いの麗輪破るは…
 天女が馬面ならば鬼の羅刹は美女揃い、ここは世界が逆しまか、天女に狼藉成さんとする筈の輩は皆、柔で知られた緊那羅女。如何にも鬼らしく、衣短く此処其処破れ、ちらちら覗く白い肌。殿方の鼻下、大いに伸びる。
 ああれえ、御無体なあ…叫ぶ声も裏声で、逃げる様も奇妙によよと。大きな馬面がひひん、ひひん嘶き怯え、内股で右往左往する様どうにも腹の皮よじれる。

 じゅああああん!じゃん、じゃん!またまた一転調べ勇壮、勇者の到来告げる音。武家装束も勇ましく、天女が貞操の危機に駆け参じたるは…
「退け退けい!鬼には鬼の領分があろう、去らぬと言うなら者ども我が刃が錆にせん!」
 きりりと、清らかに佳く通る声。顔立ちも麗しき女人…何と、慎ましやかな事では並ぶ者無き夫人、緊那羅が王の妃那利その人であった。
 動き妨げぬその装束、丈も短く白き太股眼に露。かの、淑やかなる夫人の…聴衆さらに沸き返る。

 一同、俄然気合いも入る。話の筋なら赤子でも知れる。いや、だからこそ。

 地上の王と天の娘。許されぬ恋の足かせとして、王は一つの誓約強いられる。曰く…天女に、己の裸体晒さぬ事。無論、計略にはめられ、哀れな王は…

 さて、かの恥じらい深き貞淑の妻、この難題如何に乗り切り賜われる?

 千眼天ならずとも、男衆皆々身体を乗り出して、眼を皿に。音曲いよいよ、今宵の愉しみまだまだ始まり…


 少々度の過ぎた演出に、華蘭は怯えも何も忘れて頬を染めたまま。…うつむきがちであったが、ふと。
「ねえ、姉様、」
「ん?」
 艶笑劇に呵呵と豪気に笑っていた武人だが、雛の呼び声に優しく振り向く。
「あの天女の衣装、さっき那利妃様の着ていた物とそっくり…」
「なに?」
 …成る程、美麗なる貴石に彩られていささか眼が眩まされたが、確かに回廊での装束と良く似ている。もっとも不思議な事では無い、替えの衣装と言うのもかさばるから、大抵の楽人は衣装をそのまま家より着けて参っている。無論傍らの雛も同じ。
「それに、お妃様の着物、あちこちつめてあるの。」
「は?」
「肩の所、とか。ぶかぶかなの…」
 衣装道楽とは無縁のルキの事、まるで全く気付かなかったが雛の言う通り。巧みに整えてはあるものの、確かに女人の衣装としては大きめに過ぎる。よくよく見返して、これも那羅王の先の装束と似ている…と、少々首を傾げた所。
 知恵者の良元がはっとした。
「どうした?」
「いえ…緊那羅一族、男女で皆衣装を取り替えたのでは、と。」
「な、なに!?」
「ルキ様、御声が高い…」
 いや声も高くもなろう。慌てて芝居の役者を隅々眺める。今の今まで気付かずにいたが、天女役の飾り物は皆馬頭で無くて人頭用の代物である。無理に頭に戴く様子、滑稽な演出と笑って眺めていたのだが…
「それに、緊那羅の婦人方は貞淑至極、芝居とは言え夫以外の者に己の肌に触れた衣類を貸すものでしょうか?」
 それは、疑問の形をとった確信。

 雛が、ルキの左腕をそっと見た。武人も…己の腕を覆う、優美なる天衣の布を見る。包帯代わりとしてはあまりにも高価な…
 眼を芝居に戻す。相変わらず、那羅王は天女の形(なり)で『褌』をひらひらさせるものだから、辺りに笑いが絶えない。無論、帝釈天とても…苦笑せざるを得ぬ模様。
「…随分と、思い切った勇者もいたものだ。負けた負けた!」
「姉様…」
「気付かせてくれたのは、お前と良元。」
「いえ、華蘭の言葉が無ければ…」
 良元が優しく雛を見る。
「そんな…」
「いや、」
 にこにこと、優しく…武人。恥じらう雛を優しく撫でる。
「私は戦事(いくさごと)しか判らぬからな。お前がいてくれて、良かった…」
「姉様…!」
 そっと、頬に華が咲く。緊那羅の、若い娘の巧みに奏でる、楽曲が穏やかに鳴り響く…


 わっと、辺りを大歓声が埋め尽くした。

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(C)獅子牙龍児
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