今生楽 (1)


 辺りは水を打った様に静まり返っている。



 禎絽佗磨。多くの者達はその名を知らず思い起こしていた。
 かつて二人兄弟の悪鬼が天界を苦しめた折、工芸の神たる造一切天が至高の技をば駆使して造り上げた最上の天女。麗しき諸々のさらに麗しき微細なる部分部分を丁寧に丁寧に組み上げた後、命を吹き込みし…まこと婀娜なる稀な美姫。まさにその艶かしさこそ愛染の矢、天女来訪たちまちの内に悪鬼互いに罵り合い、かの麗人射止めんとばかりに争い害し合い…そして、刺し違えた。
 古き時代の伝説の、無上の傾国…禎絽佗磨女。
 そして今…新たなる傾城が、独り。

 紺碧に染められし敷物の上、足音も聞こえぬ程軽やかに、華に休む胡蝶の様に白い足が微かに触れて…そっと、離れる。その繰り返し。
 楽曲も何も無い。そもそも音など塵程も聞こえぬ。それでいて、ただ歩むだけの脚が聞こえぬ調べをかき鳴らす。甘く…それでいて、激しく、熱く。
 手がふわり揺れる。柔らかな…両の手。その肌を飾る種々の環。金色に眩しく輝き、方々の宝玉がえも言われぬ煌めきを放つ。歩みとともに、緩やかに舞うに…なにゆえ何の音も生じぬのだ?
 白き腕(かいな)の柔らかく、ふわりふわりと揺れる度。緩やかに肌締めぬよう、そっと填められた輝く環の数々が、気の遠く成る程ゆっくりと、うたかたの様に浮かび…羽毛の様に落ちて行く。夢幻の眺め…さながら優しき白き腕(かいな)の中、心無き金の環ですら、妙なる心地に夢うつつ…まどろむかの如き。
 ただただ一座、声無くし。無数の眼(まなこ)のみが至限の夢を追い続ける…

 とん!
 きゃらきゃらきゃら…

 はっと気付くと金環も、うたた寝覚めたか音さんざめく。白き細き腕(かいな)の上、はしゃぐよに環からから騒ぎやる。…朝の小鳥の如し。
 夢は何処(いずこ)と慌てて眼を擦れば…否。麗しの幻、すらりその場に立ちにけり。風も無きに、腕に纏いし天衣はひらひらと…柔らけき瑞気に震えたり。
 ふわ…
 白の腕(かいな)がゆるゆると、絹の様になめらかに、そっと左右に広がって行く。腕の上で柔らかく、環と飾とがさらさら微笑。天衣もふわりふわり…虹の陽炎、眼にも綾。
 一同何も出来ぬ内、頭(こうべ)が下がり腰が落ち、汚れ無き膝地にぴたり。
「未熟者ながら舞いの最後を勤めます…鳳凰族の華蘭にてございます。」
 すらすらすら…清らに甘い清水が流れ行く。

 いささかの間の後、身じろぎしたは随一の偉丈夫。
「いや…ほんの数刻ばかりの内に、またも美々しさ増したと見えるな…」
 ため息混じりに礼に応えたは帝釈天。さしもの帝も何処かゆらり…千眼に常の冴えが無い。
「いえいえ、帝釈天様の御威光の前、無尽宮の七宝の前ではわたくしなど塵芥(ちりあくた)も同然にございます。」
 にっこり、華の笑み。恥じらう様に頬染め身をよじりながらも、怯える雛など何処にも無し。
 愛染の矢に打たれては、雷の主とて防ぎようも無く。…場に、再び沈黙静かに落つ。

 すっと、音も無く。華の背より紅の、麗しき瑞気。霞の美しきが、たちまち密に、翼の形。不可思議に眩しき五色の光、放たれて宮の燭台暗くなる。
 羽根が、広がった…
 滑るように、中空を。茫然の眼の前、小麗人は宙を舞う。飛天と化した華の雛、何の迷いもためらいも無く、貴人の前へと舞い降りる。
 ふ…
 天衣の端の地に付く音、それより他は何も無く。雛は再び跪き、白魚の手を地に付け最礼拝。
「何の…真似かな、鳳凰の。」
 言葉こそ不隠なれど声に覇気無く夢のうち。威厳こそ、辛うじて保つも…千眼既に帝の支配を外れたり。
 そして、雛。相も代わらず静々と、身も小さく畏まり…それでいながらはっきりと。
「はばかりながら、帝に差し上げたき品ございます。」
 にっこり。
「何?…さても小癪な事、この期に及び、袖の下…と言う仕度ではあるまいな?」
「まあ…御冗談、」
 雛は、軽やかに声すら立てて笑って見せる。小さな首の揺れる度、耳の飾りはしゃらしゃらさらり。
「御身に対してその様な、無礼事ゆえわたくしなど、この場で八つ裂きになりましょう…」
 ほ、ほ…小さな筈の雛の声、不思議に広間に無限に届く。

「さりながら、御前様のお喜びになる仕度には違いませぬ。」
「ほう?」

 雪のよな、白き胸。そのなだらかなるをふわり包む、衣の内に白魚の手、すっと入り包み取り出し捧げ奉る。
 そは翠の…瑠璃破片。

 瑠璃宝卵…そのかけらに相違無し…!

「どう言う…趣向か」
 さしもの雷帝と言えども眼を見開く。鳳凰の卵と言わば稀代の宝玉、吉祥苑の出来て後、新たに得る事も難しく既に幻の宝と化している。いやさ、斯様の事すらまだ些末、此れなかけらは鳳凰の、幼くも麗しき華蘭破りし殻が一部。鳥族にとりても鳳凰達はまた格別、たとえ殻のかけらの小さきと言えども疎かならず、生涯当人身に帯びて守護の印となすと聞く。
「趣向もなんぞ、先にも申しましょう…ただただ差し上げ申す次第にございます。」


「華蘭!」
 遠く離れた宴が末席、鳳凰が武人の焦燥の声。
「何をしている!止せ!」
 遠かろうとも鳳凰が視覚は鳥族でも別格、華の雛が柔肌に、肌身離さず付けていた、あの総ての始源たる、翠の輝き…己のこの世に産まれたる、その折自ら破りしあの卵殻を、選りにも選って帝釈に!
「落ち着いて下さい、ルキ様!」
「離せ良元!お前とて容赦はせぬぞ!」
「いいえ!」
「りょ、良元…?」
「ルキ様、華蘭の瞳が見えませんか?」
「え…」
 言われて慌てて眼を凝らし…華の雛(ひいな)の面を見る。
 …相も変わらず畏まり、身を縮めて静々と。天の帝を前にして、畏怖に打たれて動きもあえで…と見ゆるが。
「ただ…それだけでしょうか?」
 否、違う。あれは常の小さき雛では無い。畏れと恥じらいに頬も染まると見せつつも、ただの従容とは大違い…いやさ、確かに眼(まなこ)に意志宿れり。
「華蘭も…ルキ様の御出陣の間、独り堪えていたのです。どうか…」
 己こそ今ここより飛び出し雛をば救わん、その心地で矢も盾も堪らぬと言うのに…
「どうか、華蘭を信じて下さい…」
「良元…」


「さて…しかし華よ、如何に幼しとは言えこの品の意を知らぬではあるまい?」
「はい…無論にてございます。」
 雛、先刻よりさらに羞恥に身をよじる…と皆には見えようが。
(こやつ…)
 帝王の背にも冷たきが走る。確かに…確かに小さき雛のその身体、見えぬ炎が取り巻いている。
(もしや…いや、されば何故にこの瑠璃手渡した?)
「ふふ…御前様なら御存じでしょう、鳥族何故己の殻を大事とするか…」
「うむ…この殻に、」
 じろり千眼瑠璃色へ。
「主が心を腹蔵無く映すがため…」
「左様でございますとも!」
 ほほ…笑い。小さき声なれど不可思議の艶…
「ならば、」
 負けず劣らず眼球じとり。
「如何な心でこの品献じた?とくと申して見よ!」
「はい、」
 はんなり首傾けて。にっこり、うち笑む…
「我が舞い一層お楽しみ戴けますように…」

 帝釈が眼、糸のよに細る。
「ほう?成る程成る程、さては何やら心に仕度ありと見ゆる。」
「まあ御口が悪うございます、どうぞ瑠璃を御覧下さいまし、わたくしに二心なんぞございませぬ。」
「…然らば?」
「はい、憚りながら申し上げます。我が舞い…何と申しましても勿体無き事に大取りにございますゆえ…一寸趣向を変えて戴ければ幸いに、と…」
「されば何を所望する?」
「乾闥婆の殿方、水天女の御婦人方…」
「何!?何と申した!」
「我が舞い…御前様の楽士方との競べと成すは如何でございましょう?」
 笑み、深まれり…


 帝釈が神の一声に、乾闥婆水天女、是非も無く参上。いまだ帝釈網が青玉の、輝き彩る広間の内、さらなる綺羅星舞い降りたり。おお、どよめき崩れる衆生眼もくれず、華の雛(ひいな)は至高の神をばうち仰ぐ。
「重ねての御無礼なれど…一つ、御聞き届け願いたき儀がございます。」
「ほう…この上なんぞ?まさか、きゃつらを間近く見て怖じけが付いたであるまいな?」
「いえいえ、あまりの畏れ多さに身のすくむは真実にございますが…こちらの羽根を、」
 背にいまだ広げたるまま、翼の内より格別美麗に育ちたる、見事なる一羽根を惜しみ無く抜き取り差し出したる。
「かの水天女の御婦人に、我が羽根を身に帯び舞って戴ければ幸いに存じます。」
「…して、その心は?」
「この羽根、もしも御婦人歌舞の中途に落とされましたら…」
「…それを負けと判じよ、と?」
「ご明察。」
 ふわり、笑顔に隙は無し。
「成る程なかなかに興深い…されど、それでは一方片手落ちではあるまいか?」
「はい、わたくし重ねて御無理をもう一つ、水天女の御婦人の羽根一つを御借りしとう存じます。」
「…読めたぞ。それをその方身に帯びて、」
「落としてしまえばわたくしの負け。」
 …静かに。音も無く…不可視の刃競り合えり。


「華蘭…あの様な大博打を…」
「しかし…本来の地力ならば五分と五分、望み無しとは言えません。」
「だが…良元お前は平気なのか!?ただ舞うで無しに、下らぬ羽根の不利なぞ自ら申し立てるなど…」
「お言葉ながらルキ様、ルキ様は華蘭の技量をどれ程とお思いで?」
「な…何を突に…」
「確かにこの決め事まるで無為、華蘭を不利に追い込むのみ。されど追い詰められし者こそが、真に己の力を発揮し切り…道を開いた試しは多々あるではありませんか!」
 自分も一人、知っていますと言外に。
「常通りに競っては勝ち目も薄かろう…そう思い、華蘭は敢えて危険を賭したのです。」
「しかし、華蘭は…」
「雛とていつまでも雛ではございません。」
 皆まで言わさず良元きぱり。将ならで軍師らしく、常に一歩退き控えて待つ風情のこの鳳が…
「ルキ様、何が起ころうと華蘭を信じて最後まで御覧下さい。それが我らの出来るせめてもの…あの心意気に応える唯一でしょう…」
「……ああ。」
 やや暫く間があって。搾り出す様な諾の声…


「さてその方、今の気分は如何かな?」
「はい、それはもう…乾闥婆の皆様、水天女の皆様…囲まれて、眼も眩さに眩みます。」
 芝居で無くてよろめき揺らぐ。…実際言葉も嘘では無く、心の臓は堪え切れぬ程速く速く急いている。それでも。
「それにほんに勿体の無い…わたくし如きのために、わたくし如きが皆々様と舞いの席をともに出来ますなど、夢にも望めぬ幻でございましょうから…」
 一座にざわめき走る…

 ―はは、麗しいとは言えやはり雛、愚かにも程があるわ…
 ―何、既に勝ちは捨てておらりょうぞ…
 ―全く全く違い無い…美姫には愚人多しと言うが全く真…
 ―如何に名手と言えども雛に過ぎぬ、水天女と舞ってはあまりに…
 ―いや、そこで留まれ、皆まで言っては哀れに過ぎよう…
 宴侍れし貴人ども、己にこそ相応しき愚かの一語を繰り返し。雛が決死を無粋に無下に笑い飛ばしている。されど、一座は愚人ばかりでは無し。

 雷主が前に控えたる、乾闥婆に水天女達…皆色も無し。
(ふ…殊勝に恥じらいすら含ませながら。)
 言葉も返せぬ楽人に代わり、千の眼にて幼き身体をざらりと撫ぜる。無論それに気付かぬ華蘭では無く、頬染めかすかに身をよじる…が。眼を見張る程に艶がある。
 掌中の翡翠が物語る、身を委ねる気なんぞかけらも無し、と。それを読まれるを承知で斯様な真似をする。
(やはり…あの者の養い子ではある…)
 帝釈天が神の上、幾百年振りかの笑み浮かぶ…

 何の言葉も前触れも無く、帝王が手に突如輝ける武具現われ出でたり。そは…毒蛇倒したる金剛杵、音も無しに掲げ。
 …やにわに幼き喉元に、切っ先ぎりりと突き付けた!

「華蘭!」
「ルキ様、どうか…」
「離せ離せ離せいッ!」
「堪えて下さい…!」
 鳳凰ならずとも一座唖然茫然、声すら立てるは一人も無し。唯例に漏れるは雛鳥の、舞姫華蘭ただ一人。…まさに、帝釈天に命運握られし、哀れなる雛その当人。何の動じも見せぬその上に、胡蝶が華と誤り舞い寄る程…極楽浄土の笑み浮かぶる。
「こおうございます、御前様。尖り物は無粋にございますよ。」
「…されば聞く。その方の大言壮語、きっと真にする気概はありや無しや!」
「大言とは滅相も無いこと。…されど、御言葉もいちいち御もっとも、皆々様の至高の御技を拝しては、どうにも決意も鈍りましょう。…わたくしは皆々様に、背を向けますゆえ。」
「な…!」
 帝釈に楽人、息を飲む。

 言葉の上では控えめなれど、上辺の中は遜りも見せるとも。幼子幼き声に語る真実は…水天女にも勝るを証して見せよう、水天女の舞い見ずとも正しく舞って見せようぞ…
 帝釈、小さき身体の発して見せる、想外の苛烈の炎に当てられつつ、王者の威厳で以って金剛杵振るう。
「…その方、我が楽徒まで引き出して、それで負けを喫すれば如何とす!」
 きっと切っ先柔肌に。
「無論、首を差し出す所存にあろうぞな?」
 さしもの煩き閑人どもも、この修羅には舌凍る。
 …が。
 幼さ残る華の雛、慌てず騒がず静々と。眩くも恐ろしき雷帝が切っ先を…そっと、真白き指でふわり包み込み。
 切っ先刃物の鋭き尖りに。…そっと静かに口付けた。
「な…!」
 千の眼もいよいよ驚愕、その己を見つめたままなるを幸いとばかり…尖端唇に含みしまま、艶なる笑みで帝を射抜く。

 愛染の、輝き…

 雷帝静かに具納めたり。

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(C)獅子牙龍児
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