今生楽 (2)


 …とん。小さき素足が地を捉う。虹の天衣はゆるゆると、瑞気含みてふわりふわり。細き肢体を包み込む、装束一部の隙も無き中に、頭上に戴くは綺羅めく一羽根…己の言に従いて、水天女の羽根を身に帯びし華蘭である。全くもって宣べ通り、水天女に乾闥婆の群れには背を向けて。…目隠しすら申し出たが、あのぬば玉の黒曜石の、甘露含みて潤みたる…得も言われぬ煌めきを、誰が好き好んで隠そうぞ?
 幼き肢体はほんの一時、恥じらう様に身を縮む。白の腕(かいな)で己を包み…本当に、子どもらしく勝負前の怯えにも見ゆるが。並いる観衆声も出ず、息も吐けず。
 ふわり、妖しき炎立ち上る。…かの千眼天ですら抗し得ぬ、この魅惑に一体誰が勝てようか?いまだ幼子の容姿なれど、女人(にょにん)の頂とも言うべき水天女どもに全く退かず。
(今の私は…一番、奇麗…)
 一時眼を閉じ己に暗示。
(一番…一番の舞姫…)
 頭頂手の先足の先、小さき身体の隅々に甘美の香の焔包む。何処までも甘く熱く、危険の炎ぞ輝き光り、広き宮の間大いに照らされ人心見事に焦がされり。
(私は…)
 すうっと。長き睫毛ゆるゆる上がり。薄き瞼に隠されし、秘めたる黒曜石現われ出でたる。
(…この界きっての、傾城傾国に…なる、なって見せる!)
 たった一つの想いのために。己を全て得物と変え…雛は戦の間へと躍り出る!



 光輝の舞い…

 時に高く…時に低く。

 まるでこの世ことわり全て忘るるが如く…ふわり、ふわり。

 たとい天駆ける者達も、大地の呪縛の鎖よりは逃れ得ぬ定めである筈に。

 細きたおやき身体のしなるたび、全ての戒め脆くも塵に。

 初めて空を覚えた小鳥の如く。

 憧れに頬輝かせ瞳潤ませ…至極無邪気に。

 時折感極まってか付くため息、それも何の作為も無いが…


 何故、斯様に心千々に惑わされる?



 頭上の羽根はそのまま在る。水天女の羽根の華やかなるが、あたかも雛の頭上に自ずと生え初めた、羽根冠であるかの如く。
 意地も悪くも汚くも、楽士の夫婦示し合わし、羽根を無理にも落とさんと、曲もぐるぐるめまぐるしく、転調転調また転調…されど振り回されしはむしろ楽士ばら…
 誰も彼も瞬き忘れる広間にて、天の帝釈ほんの一時眼を外し、掌中の瑠璃片をちらと眺めやる。相も変わらず曇り無き、その輝きの意味するところ…かの雛鳥全くもって天女の舞いを見ていない。だが…この光景は?
 乾闥婆は妻がため、いささか姑息な仕度なれど振りも激しく困難とするべく必死で奏しているのである。それも、慣れ親しんだ水の気性の女人(にょにん)には、息するよりも容易きを選び…じゃと言うのに華の雛、悪意を歯牙にもかけずにすらすら舞う。それは全き琵琶の如く、名手のさばきの巧みの技に、無思の器物の身も忘れ、ただただ身を委ねて音色響かせるが如く…
 否。小さき舞い手の操るは、唯己の肢体ばかりにあらぬ。

 雪より清き肌の色、細き細き腕に金環映ゆる…ふわり、夢見心地の瞳のまま、陶酔の境地の面のまま、しなやかになよやかに虚空に上る。桜色に優しく染めし爪彩る、幼くも艶かしき指先が虹の天衣をついいと摘む。柔らかな掌の導きに、無縫の布地は喜びに煌めく。…慌てて、天女達も追従す。
 半時ばかり…既にして乾闥婆の楽、その意を放れり。如何に色好む種族と言えど、楽の技量は天下一、美姫がいようがいるまいが撥さばきに乱れのあろう筈も無し…それも今は昔。

 愛染玉の輝きは、帝王すらも平伏さす。この場の如何な者よりも、小さき幼きその雛の、白き滑らかなる肌の下、薄く柔らけき身の内の、魂住まう奥深く…真紅の炎広間を照らす。
 楽士の楽…何時の間にやら恋の唄、それも焦がれる片恋の。激しくも哀しく…叶わぬ思い哀切に。幼き雛の面には、化粧(けわい)も適わぬ景色が浮かぶ。手を伸ばし、すがり…しかし後一歩で思い届かず、哀しき雛は無残に落つ。その様の哀しきに、婦人も嫉妬を忘れ袖濡らす。そしてまた…男達は皆思う、そのよに辛く苦しまずとも、ここには汝を欲する者がそらおるぞ…と。

 皆、全ての眼(まなこ)が華蘭一人に注がれる。もはや、勝負事なんぞ皆忘れ果て…


 冷酷でも鳴らす帝釈天とて、既にして魂九分ばかり持ち去らされり。既に瑠璃片盗み見るのも絶えて久しい。
 所詮は子ども、二時も持つまい…などと言う思惑はすっきり外れ、恋の舞い手は憑かれた様に踊り狂う。己の奥の激情に突き上げられるが如く…しかし。振りは正しく羽根は変わらず頭上に在る。
 不正に天女の舞いを見るでは無しに、己の力量のみにより、振りを外さず舞いましょう…その心で帝が掌中へ渡された、担保が瑠璃の破片とてもはや意味を成さず。何となれば…今や舞いの主は華の雛、清水の天女の群れこそが舞いの手振りを遮二無二盗み真似る次第。
 そして。
 天の帝釈、今一度だけ瑠璃を見る。雛がひたすら抑え隠す、想いの程…楽士の音曲突然に、恋の奏でと変じたはただのたまさかの事ならで…
 天女の必死も素知らぬ顔、華のひいなは一途に舞う…



 末席、鳳凰の座。
 既にして喧騒無く…見つめる武人の唇より、ため息とも吐息ともつかぬ声が漏れ落ちる。
 あれ程暴れた養い親、今は疾うに言葉も無く…ただただ幼き舞い手の一挙一動眼で追うのみ。
 天の貴人は紅将軍を無粋と言う。戦ばかりに血潮猛り、麗しきを麗しと感ずる人情無し、と。…ルキ自身もその様に評していたのだが。
 今宵ばかりはまるで異に覚える…

 ―奇麗だ…

 口にするのもためらわれる程、繊細にして美麗。芸事はまるで判らぬルキでさえ、心震え酔いしれる。常の内輪の舞いも格別なれど、これは浄土が化身なるか。己が一番見ていたと、密かな自負は脆くも崩れ。むつきも取れぬ赤子も同然、そう思うていただのに。いまだ育ち切らぬ身体ながら、立ち上る瑞気は華麗にして炎の如く。

 かつて、これ程までに美しい、鳳凰の雛がいただろうか…

「あ…」
 苛烈の武人の両眼より、清らに澄んだ涙の川。
「私は…泣いているのか…?」
「ええ。」
 そっと、かすかに笑みを浮かべながら。
「華蘭の至芸ですから…哀しみより喜びより、今の華蘭の方が強う響きましょう…」
「ああ…」
 眼の眩む様な…



 既に、両手両足の感覚絶えて久しい。両の翼も千切れんばかり…それでも。華蘭の心中冴え渡り、飛翔も振りも過ち無し。指の先に至るまで、作為見せずにたおやかに。
 音曲に合わせ…時に笑み、時に嘆き。羽根落ちるまでの勝負との決め事など、忘れ果てたかの様に。
 それもこれも…密かに想う凛々しきひとがため。

 いまだ幼き雛とは言え、魅惑の力は身に宿れり。今の今までひたすらに、しきりに厭うて憎んでいた、歳にも似合わぬ力もて、一座の心むずりと掴み。そら…細ういかいなの宙をかく、その仕草の魔力に寄せられて、誰ぞの魂こちらへ来ぬ。刀利天が随一の、美女を妻とし楽士すら、甘露含みし腕の振り、美酒に勝れし白の腿、悩ましげに動めく柳の腰…全てにぞろりと引き摺られ、妻との誓もすっぱり忘れ、ただただ華の雛のためだけに、その麗しさ助けるためだけに、ひたすらひたすら楽奏でる。
 己の魔性も気付かぬ振り、無邪気を装い…さらに帝釈天すら。ひたと見つめる千眼天、射抜くが如き険しさにも、柔らに甘く微笑して、高く高く天高く…そして。

 すうっと。落つ。

 はっと、息を飲む気配多数。はばたきもせでただふわり、羽毛の如けき優しき落下。そは雛の身体の軽きもあれど…鳳凰が瑞気、小さき雛を包みて浮きとなる。全てことわりのくびきを逃れしまま、沈みては浮き、浮きては沈み魚(うお)の如。細き身体の隅々まで、ひとつにしなり若竹の、いまだ身の固まらぬまま風に嬲られ震えるが様。胡蝶春風に戯るに似て、幼き子らの児戯に似て…さりながら、刹那も休まず座の者の、心に付け火し眼を蕩かす。
 にっこり。…再び帝の瞳と眼が合いて。痛みも構わで身を反らし…薄き衣もはためいて、肌の覗くもそのままに。

(帝釈天様…今宵は如何が?)
 欲にまみれた視線にすら、華の笑みにて倍返し。千の眼球それでもなお、冷徹の光り消さずに堪えているのを眼にしても、一歩も引かず。
 羽根の事など意識するまでも無い。いまだ成らぬ幼き身体の身に余る、恋の焔は既にして燎々…その溢るる瑞気がたった一枚の羽根なんぞ包み込み、たとえ羽根が逃れんと頻りにもがくにしてもどうにも外れぬ。炎は半ば、雛の華蘭を焼きつつあるが…
 それでも。熱さの中で陶然と、華のひいなは舞い踊る…


「華蘭…!」
「ルキ様いけません!」
「何を言う!あれは…あの瑞気は尋常では無い!早く止めねば、こんな茶番…」
「…!ルキ様!」
 ばしり!…華の舞い手に酔いしれる、太平楽の眠りを覚ますには不足なれど、穏和で知れた忠義の良元、初めて主の頬張った。
「良元…?」
 あまりの意外にさしものルキも言葉も無く…
「茶番なぞではありません!華蘭は命を賭けているのです!」
「それが惨いのだ!たかが…」
「たかがではございません!」
 あれを…と良元、玉座を指す。千の眼球雷の、天の帝釈王者すら。眼(まなこ)と言う眼(まなこ)を全て奪われ魂何処(いずこ)。たとえルキの大将の、天界無双の大力以ってしてすら勝ち難い…いやさ露程も適わぬあの帝、その強大無比の権力も深秘究めし神通・眼力も、愛染の焔の輝きの前には赤子も同然。

「闘っているのですよ、我らの雛は…」

「闘う…華蘭が…」
「ええ、そうです。」
 再び舞い狂う雛へと眼を戻す。…良元にしても雛の苦痛は重々承知、命の瀬戸際としった上で断腸の痛みに堪えて敢えて止めぬで見守るのだ。
「何の武器も無き雛です、弱い弱いと人は言いそやしましょう…ですが、華蘭のみしか持てぬ刃もあるのです。」
「刃…」
「華蘭は雛です子どもです、それでも、」
 ぐっと、唇切れる程噛み締め。
「…死力を尽くすべき時と場は、確と心得ておりましょう…」
「な!死力だと!!」
 覚えず忠義の臣の襟首掴む紅将軍。だがそれすら構わず良元、歯にも衣着せで鋭く放つ言の葉の一撃。

「ルキ様、今の御身は弱くておられる!」

「な…何を、言う…」
「眼を、どうかお覚まし下さい。死を賭してしか得られぬ命もあるのですよ…」
 ルキ様なら、ルキ様ならばご承知の筈…

「死を…賭して…」
「怯懦が効にて危機を脱する、そんな事も確かにございます、この良元、この齢まで生き延びた様に…」
「違う、お前は…」
「そして、」
 長の言葉も聞かぬ振り、忠義の軍師は言葉を継ぐ。
「無礼承知で申し上げます!」
「な、何だ…」
「ルキ様、貴方様に…」

「帝釈天が倒せますか?」

「………!」


「あの雛だけ、華蘭の死すら賭した歌舞のみが、あの増長の帝に抗しうるのです!」


「華蘭…だけ、が…あの幼い雛が…」
「そうです、あの雛、唯一人なのです。」
 呆然とする長の傍、良元もまた華のひいなに眼を転ず。
 おおとりの軍師は密かに知る、雛の一途の真の強さを。
 ただ、ひたすらに唯一の想人のみに胸を焼く…その全き炎に勝りし熱など、天界広しと言えども何処にも無し。

 ほむら爛々灼々たり、もはや身を焼き命も削る吉祥鳥の瑞気すら、その妙なる舞に興添えて。あたかも眩しき火焔の衣纏うて身の飾りとなすが如し。
 麗しき…そしていと哀しき眺めなり。
 永劫永劫無限の時、雛の身思う者には永の劫、されど魂(たま)抜かれし者どもには、ほんの一時露の干ぬ間…
 その場におりし誰彼も、真の時なんぞ塵程にも数えられぬこの有様…

 さればこそ一体如何ほど過ぎたか確とは申せずじまいなれど。
 それでも始めあらば終わりあるのが道理なり。

 遂に。
 一枚の羽根、主を離れてはらはら落つ…



 音曲終わりぬ。場に静寂落つ。
 誰彼も。咄嗟には動けず…言葉の一つも発せ得ず。

 ざっ!
 すくっと立ちし偉丈夫…天の帝の衣擦れが、しじまの海を突き破らん…

「勝負は決した!」

 どおおおん、天井揺るがす大音声。やはり猛けき雷光殿、畏怖の念より場は無言…固く、静まり返る衆生ども。

「この晴れの日に相応しき…何れも劣らぬ舞勝負、この眼でさらに千眼にて、確と見届けた!」

 どおん、どおん、どおおおん…壁ばかりか柱まで、雷電帝の呼ばわりに、堪え切れずに呻きを挙げる。さてもさても天が主の帝釈天、並み居る皆々固唾飲む。

「この至芸の舞勝負、見事栄誉を納めたは…」

 ぎろぎろり、千眼かっと見開いて。全て、唯一人を眼中に納むる…

「吉祥の苑が名人、鳳凰雛の………華蘭なりき!!」

 おおおおお…!老いも若きも種族の別さえ皆忘れ、轟の快哉広間を震わす…



(私…勝った、の…?)
 視界が紅い。耳も遠く…全てが幻のよう。
(勝った…あの奇麗な人達に…勝てた…)
 ぐらぐらと、危うい均衡脆くも崩れ…
 ごごうごごうと凄まじい、酷く恐ろしき耳元の音が。…まさに、己の身を焼く瑞気の業火がためと知り…
 もう。全てが遠くなる…

「華蘭!!」
 弱き耳にも確かな声。
(ああ…姉様の声が聞こえて来る…)
 だが。
 …最早、それまで。
 幼き雛は己が炎に包まれて。固き広間の床の上、脆くもよよと崩れて行く…

「華蘭ーーーッ!!」

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(C)獅子牙龍児
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